第16話
「……騒がしいな。そこで何をしている」
「あ、浩二くん。あたしら、浩二くんがそこの危ない女と一緒に教室に入っていったから、心配で駆けつけてきたの」
「そいつストーカーでしょ? あたしら、そいつに一言いってやりたくて」
「そしたらぁ、なんかそこの男が邪魔してきてぇ~」
「なにをいっている。邪魔は君たちだろう?」
「………………は?」
慕っていた立石から拒絶されて、彼女たちは合点のいかない声をもらした。
構わず立石は続ける。
「お前たちは二つ勘違いをしている。修平には俺から頼んだんだ。お前たちのような無粋な輩に、俺と五十嵐の話し合いを邪魔されんようにな。もう一つ。俺は五十嵐を嫌ってなどいない」
「……それって、浩二くんが、そのブスに気があるってこと」
「さぁな。少なくとも、君たちよりは魅力的だと思っているが」
断固たる言い方に、彼女たちは誰も反論できない。
敢然と彼女たちを睥睨する立石を前に、荻野はわざとらしくため息をついた。
「あーあ、ざーんねん。顔がいいのに女を見る目がないなんて。一気に冷めたわ。ありがとね、五十嵐さん。浩二くんにあたしと付き合うだけの価値がないって教えてくれて。こんなつまんない奴は、アンタみたいなブスがお似合いだわ」
「ほんとつまんなーい。みんなかえろぉ~」
負け犬の遠吠えにしか聞こえない捨て台詞を残して、彼女たちは帰ろうとした。俺を警戒していた女子も、最後に一層強く睨んで踵を返す。
脳裏で前回の結末がフラッシュバックした。記憶が鳴らした警鐘に、俺は零音の動向をうかがう。
扉の前に佇む立石の脇から頭を出した零音は、
ポケットから取り出したカッターナイフの刃を、集団の末尾を歩く女子の背中めがけ、すでに振りかぶっていた。
――間に合わないッ!
この距離で届くのは声だけだ。亜里沙が潜伏しているのは室内だが、腹から声を張り上げれば、彼女の耳にまで届けられるだろう。
また失敗だ。俺は諦めて、もう一度やり直す指示を出そうとした。人が刺されるところなど、もう見たくはない。刃が制服を貫いて背中に突き立つ前に、俺は時間を戻すべきだと判断した。
が、その必要はなくなった。
集団の末尾を歩いていた女子は、凶刃に狙われていたことに気づかぬまま、規則的な足取りで階段をおりていった。
残ったのは、俺と立石と零音の三人。
凶器を握り振りかぶっていた零音の腕は、背後にいる立石に抑えつけられていた。
「いいたいことがあるならば、正面から伝える。それは、なにも俺に対してだけではない。誰に対してもそうあるべきだ。早くそれをしまえ」
首を回して立石の顔を見た零音は、おとなしく指示に従い、カッターナイフの刃を収めてポケットに戻した。
至近距離に好意を寄せる男がいるのに、零音は目を合わそうとせずに俯いた。
「……ごめんなさい」
「二度とするな。カッターナイフをポケットにいれて持ち歩くのも禁止だ」
彼はそう厳しく叱咤すると、一転して声を軟化させた。
「さて、邪魔も去って、ようやく落ち着いて君の話を聞けるようになった。続きを聞かせてくれるか?」
「え? すでに先程、最後までお伝えいたしましたが……」
「それはすまない。外野がうるさくて聞きそびれてしまってな」
零音はきまりが悪そうな顔をしていた。いつもならば目の前にいる立石から片時も視線を逸らさない彼女が、立石の顔を見ることもせず、目線の高さにある彼の胸元を見つめている。
返答を催促することもなく、立石は黙って彼女が喋るのを待つ。
「――それでは、改めてお伝えいたします」
待ち望んでいる立石に応えようと、零音は唇をなめた。
「立石浩二さま。好きです。どうか零音を、浩二さまの恋人にしてください。零音は浩二さまが望むものを望み、往きたいところへ往きます。零音は、これまで浩二さまに不快な思いをさせてきました。その分だけ――いいえ、その何倍も、浩二さまに幸福をもたらしてみせます。ですから、零音の大切な人になってくださいませんか?」
その声は、一瞬前までの彼女とは結び付かない自負に満ちていた。
彼女の表情からもまた、直前まで見せていた混乱は消えている。
ストーカーをしていた女性から送られた真珠のように白く美しい告白。歪んでいると思っていた零音の恋情は、想像よりもずっと綺麗だった。
清純で真摯な気持ちを、立石は眉すら動かさないでまっすぐ受け止めて、
固い目つきを浮かべて、答えを返した。
「悪いが、俺の考えは変わらない。五十嵐の告白を受けることはできない」
冷たさを感じる響きをまとい、純然たる拒絶が零音に告げられる。
告白を断られた零音は、意外にも落ち着いていた。立石の返事を聞いた彼女は、目をつむって彼に背を向ける。
「……わかりました。金輪際、後ろをつけることをやめます」
「そうしてくれ。何度もいうが迷惑だ」
「浩二さまに近づくことも、もうしません」
「それでいい。それが五十嵐のためだ」
力なく両脇に垂れていた零音の拳が、強く握られる。
長い髪の奥にある瞳が揺れていた。
込みあげてきた感情が瞳に到達する前に、零音は走り去ろうとした。
「――当分は、俺が君に会いにいこう」
その足が、頬をゆるめて告げられた立石の言葉に停止する。
逃げようとした彼女は、半信半疑の眼差しで立石に振り向いた。
「それは……いったい……?」
「五十嵐はずっと俺に合わせてくれていた。会うときはいつも五十嵐からで、俺が君に会いにいくことはなかった。ゆえにこれからは、君が来てくれた分だけ、俺が君に会いにいく。そうでなければバランスがおかしいだろう」
「で、ですが……恋人になるのは断ると……」
「恋人でなくては、一緒にいるのは駄目なのか?」
「――っ!」
暗い幕に覆われていた零音の表情から、絶望が姿を消した。
無地の表情に驚愕が生まれて、それもまた誕生して即座に消え去ると、
最後に残ったのは、微かに瞳を潤して幸せそうに微笑む、純朴な少女の笑顔だった。
「お待ちしておりますっ! 楽しみにしておりますっ! 零音は、いつでもっ!」
まるでご褒美をもらった幼児のように溌剌と感謝を伝えた彼女は、立石に一礼すると廊下に飛び出して、階段を元気な靴音を立てておりていった。
廊下に出たとき、零音は離れた位置にいた俺にも頭をさげた。立石以外は眼中にないはずの彼女の意外な行動に、俺は思わず初対面の人にするような会釈を返した。
零音が去ったあと、立石は悠然と俺のほうに歩いてきた。
「世話をかけたな。おかげで助かった」
「それはいいけど……意外だったな。もう近寄るなと伝えるんじゃなかったのか?」
「気が変わった、とでもいっておこう。ともかく、これで一件落着だ。ありがとう。充の教えてくれたとおり、修平は恋愛のトラブルに関して頼りになるようだな」
「単なる偶然だ。人生で彼女ができたことのない男だぞ?」
「不思議なこともあるものだな。……さて、一時間ほど遅刻してしまったが、俺は部活に行くとしよう。修平は帰るのか?」
「帰るよ。やることも終わったし」
「そうか。なら、気をつけてな」
彼が最後にみせた表情は、零音に負けないくらいの晴れやかな微笑みを湛えていた。
友人が駆け足で階段をおりていく残響を聞きながら、俺は開きっぱなしの扉から特別教室にはいる。
窓外に夕日がみえる教室では、俺を迎えるように、三つ編みおさげの女子が立っていた。
亜里沙のさらしていた表情は零音や立石とは違い、あまり晴れやかではなかった。
「あと一歩、足りなかったね。やり直そうかと思ったけど、どうしても成功する未来が想像できなくて。修平がいってたとおりだね。ストーカーと恋仲になるのは無理があったかも」
「充分だろ。残り一歩くらい、あの二人がそのうち自分たちで埋めるだろうよ。誰かさんが零音を焚きつけなかったら、残り一歩どころの話じゃなかったかもしれないけどな。電話で彼女を怒らせたのは、立石に本音をぶつけさせるためだったんだな」
「私が観察していた限り、立石くんはともかく、五十嵐ちゃんも真面目な性格だと思ったからね。似たもの同士で相性抜群だろうから、正面から意見をぶつけ合うのが一番だと考えたんだよ」
「なるほどな。長い時間をかけて多くの恋愛をみてきた経験の賜物ってやつか」
昨日、零音と口論になったのも計算のうちだったらしい。
ストーカーをやめさせれば充分だったのに、亜里沙が干渉したことで、関係は恋人の一歩手前にまで昇華した。亜里沙の叶わない恋を叶える能力の真髄を披露された気分だ。
――それにしても。
充の恋愛を陰で見守っていたときにも感じたが、人を本気で好きになるというのは良いことだ。
恋愛は時に勇気を授けて、時に優しさを与える。それらは崇高な幸福となり、糧となり、人と人を運命の糸で結びつけ、人生を豊かな色で彩ってくれる。
亜里沙が何年も他人の恋愛の手助けを続けてきたのは、こういった恋愛の魔力に取り憑かれたからなのかもしれない。
喜び、怒り、哀しみ、楽しみ。いずれも人の心を揺るがす感情だが、熱烈な恋情によって起こされる様々な想いは、心の在り方さえも変えることができる。それは成長といってもいい。
恋愛は魅力的な行為で、触れれば触れるほど、想像すれば想像するほど、羨望は強さを増すらしい。
事実として、亜里沙と出会った一ヶ月前よりも、俺の恋愛に対する欲求は熱くなっていた。
だが、彼女は違うようだ。
俺よりもずっと長い間、恋愛のことばかりを考えて生きてきたはずなのに、彼女は自分が恋愛する側に立つことを欠片も望もうとはしない。
「――修平。前に訊いたよね。私がなんで、他人の恋愛を助けるようになったかって」
「ああ、そこの机に隠れてるときに、そう訊いたな」
「約束したとおり、理由を話すよ」
俺と亜里沙以外には誰もいない室内が、重い緊張感をはらんだ静寂に包まれる。
部屋の調度品は窓から差し込む茜色に染まり、二人がけの机の間に佇む亜里沙も、いつかのように紅色を帯びている。
息を呑む時間だった。
時の流れが止まったのかとさえ錯覚する空気のなか、一度言葉を切った亜里沙は、意を決するように小さく息を吸うと、
「きっかけは、私が中学一年生のとき、私の友達が同級生に恋をして――」
クラスで寂しく孤独に座っているときと同じ、感情の消えた表情で、
「それが原因で、自殺しちゃったからだよ」
遠い国で起きた事件の記事を読み上げるように、冷淡な声でそういった。
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