第15話

 廊下の窓際に立って、俺は何をするわけでもなく、部活に勤しむ生徒や下校する生徒をぼんやりと眺めていた。

 生徒も教師もほとんど通らない利用率の低い通路。喧騒は遠く、静かな空気に包まれる廊下に俺以外の影はない。

 周囲一帯の深閑とは裏腹に、身体の内側で奏でられる音はうるさかった。脈打つ鼓動の早さは、人生で始めて告白したときと遜色がないほどだ。窓ガラスに薄っすらと反射する男の顔は、一見すると平静にみえるが、実際には全身が緊張して強張っていた。

 これから行われることを考えれば、平常心を保っていられるはずもない。半透明の自分と対面して、怯えている分身に俺は言い訳をする。

 足音が聞こえてきた。階段を一段一段踏みしめて、雑談を交わすこともなく、足音だけが静寂の空間に反響する。音の数は二つ。双方の大きさにあまり差は感じられない。それだけで、接近してきている二人が自分の立てる音にも配慮できる品格のある人物であることがうかがえた。

 誰かが階段をのぼる音が途絶える。窓ガラスに反射していた背後の部屋の入口に、足音の主たちが現れた。高身長の男子学生と、彼の胸板あたりに顔のある長髪の女子生徒。

 男子生徒は閉められている部屋の扉に手を伸ばして、顔を横に向けた。左に眇められた視線は、窓に映る俺の顔を見据えている。

 やや不安そうな彼の眼差しに小さく頷く。それを見た彼は短く瞬きをした。

 彼が部屋の入口を開く。隣にいる長髪の女子生徒も追随して、扉は男子生徒の手によって閉じられた。そこまで確認して、俺は右手に握っていた携帯電話のスリープを解除すると、あらかじめ打っておいたメールの文面を設定しておいた宛先に送信した。


《問題なし。入室したのは、立石と零音だ》


          *

          

 前回同様に偽警官を装った亜里沙が介入したことで、立石は自ら零音にストーカーをやめるよう説得することを決心した。人のいない特別教室に呼び出すという計画も、同じように持ちかけられた。違ったのは、同時に提示された条件を、俺が鵜呑みにしなかった点だ。

 零音の狂気を恐れる立石は俺に室内での待機を依頼したが、彼の懇願に、俺は首を横に振った。


『それはできない。重要な話し合いを潰されないよう、俺は廊下で見張ることにしたからな。そのほうが立石も嬉しいだろ?』

『待て。それでは俺が襲われたら、いったい誰が助太刀してくれるんだ?」

『助太刀なんていらないだろ。立石ほど運動神経が良ければ、相手が一人なら刃物を装備されてても勝てるだろ?」

『いくら女子でも武器を所持されていたらマズい。もう少し真剣に考えてくれ』

『考えてるよ、充分に。そもそも、立石は零音が危害を加えてくるかもしれないと、本当でそう思ってるのか? そりゃあ、俺に対しては躊躇いなく刺してくるかもしれない。俺のことは、ゴミかクズ、せいぜいじゃがいも程度にしか見えてないらしいからな』

『……しかし、許可なしにつけ回してくる相手を信用しろというのは無理だ。そのことも理解してもらいたい』

『別に、扉の前では待機してるんだ。助けが必要になったら呼んでくれれば、すぐに加勢できる』


 譲歩に立石は了承を返して、俺はそのことを亜里沙にメールで伝えた。

 あとは、事前に亜里沙と打ち合わせしたとおりに進んだ。

 放課後、亜里沙と俺は舞台となる特別教室に先回りして、教室の内側に亜里沙、外側に俺が陣取った。亜里沙は取り返しのつかないことが起きた際にすぐさま時間を戻すため。俺は前回〝取り返しのつかないこと〟の原因となった部外者の介入を防ぐため。磐石の態勢で立石のサポートに臨むことにした。

 ひとまずふたりが特別教室に入るところまでに問題は発生していない。零音が特別教室の付近で佇む俺を不審に思っている様子もなかった。大半の人間が道端に落ちているゴミを気にしないのと同じ心理だろう。……そう喩えて、ちょっと虚しくなった。

 自分の存在価値の希薄さはともかくとして、ここからが正念場だ。俺は廊下の窓際から教室側に移動して、その短い移動中に受信したメールを開封する。


《りょーかいっ! これより通信傍受を開始いたすっ!》


 どの年代の喋り方を意識したのか不明なメッセージが、室内に潜む相棒から届いていた。

 

          *

          

 俺が背を預けた窓には、微妙な隙間が空いていた。廊下で待機する前に締め切られていた窓を解錠して、あらかじめ空けておいたものだ。理由はむろん、室内の会話を聞くためだ。大切な話し合いを盗聴しているようで後ろ暗い気持ちがないこともないが、元々は室内で聴いていろと命じられたんだ。許可を得ているも同然なのだから、良心を傷つけることはない。

 室内にはいって数秒後、廊下と教室の隙間から声が聞こえてきた。決して大きな声量ではないが、周りが人の気配もなく静まり返っているので、はっきりと聞き取ることができる。


「こんなところまで連れてきてすまない。あまり他人に聞かれたくない類の話だから、場所を選びたくてな」

「とんでもありませんわ。せっかくの浩二さまのお誘い、心の底から歓喜が溢れてくるほどに感激しておりますもの」

「そういってもらえると、俺も幾分気が楽になる。……さて、ここへ来る前に伝えていた、君に尋ねたい話だが……」


 前回は、そう切り出そうとしたところで邪魔が入り、肝心の話し合いが成されることはなかった。

 今回はまだ、例の女子グループが接近してくる気配もない。前回も続くはずだったであろう台詞を、立石は抑揚のない声色で紡いだ。


「君はなぜ、俺を付け回しているんだ? 前にもいっただろう。俺は恋人を作るつもりはない。それは恋人がいるからでも、君を受け付けられないからでもなく、俺がそう決めているからだ。忘れたのか?」

「存じておりますわ。忘れるなどありえません。浩二さまから頂戴した大切なお言葉なのですから」

「ならばなぜだ? 俺が嘘をついていないことは、俺の背中をついて回っている君ならば知っているだろう」

「諦められないからです。浩二さまは、この先の未来で自身を取り巻く環境、自己を形作る思想がどのように変化するかわからず、自分でさえ曖昧で未熟な学生時代に恋人は作りたくないと、そうおっしゃってくださいました。零音は衝撃を受けました。それに、改めて思いました。やはり、零音の恋人たりうる男性は、浩二さまを置いて他にないと」

「君の気持ちは素直に嬉しい。だが、俺が君に応えられない理由は、君が語ってくれたとおりだ。わかっているのならば手を引いてくれ。君のように誰かを好きになれる女性なら、俺より魅力ある人物を見つけることもできる」

「世間から見て、浩二さまより魅力的な男性は、どこかにいるかもしれません。運命のめぐり合わせで、そういった素敵なお方と邂逅する日も来るかもしれません。ですが、零音には関係ないこと。零音にとっての理想は浩二さま以外、この世のどこにもに存在しないのです」


 冷徹にも感じられていた立石の声色が、何をいっても引いてくれない零音を前に、徐々に熱を帯びていく。相手の激情の兆候が鎌首をもたげても、零音は真摯に、丁寧に応答した。言葉の端々に垣間見える立石への尊敬と愛情は、僅かばかりでさえも揺らがない。


「……俺の心が伝わっていないようだ。俺は君に、ストーカー行為をやめろといっている。授業の合間に俺の教室にまでやってきて、昼休みは俺を探して徘徊し、部活も毎日見学にきて、帰りは駅までついてくる。これでは気が休まらない。練習にだって身が入らない。最後の大会が近いんだ。邪魔をしないでくれ」

「では、零音はどのようにして浩二さまに、この胸に滾る熱烈な恋情をお伝えすればよろしいのですか?」

「いいたいことがあるのなら、口でいってくれればいい。俺はそれを拒んだりはしない」

「ですが、零音のお願いを受け入れてはくださらないのですよね?」

「一度決めた自分の生き方を曲げるつもりはない」


 強い言葉を用いたことで、それまで毅然としていた零音の声色が怯んだ。常に温厚で人間関係に角を立てることを嫌う立石に激しい嫌悪を示されて、鋼のメンタルを持つ零音も気圧されたらしい。

 二人が室内に入ってから、初めて沈黙の幕がおりた。

 静寂を解いたのは――


「……零音の家庭は、とても裕福なのです。幼い頃から、望むものはなんでも手に入りました。お金があれば大抵のものは買うことができます。お金があれば、あらゆる欲も満たせますわ。ですが、素敵な恋人というのは、お金からは生まれない。だから零音は、ずっと探しておりましたの。浩二さまのような、全てを兼ね備えた完璧な男性を」

「買いかぶりだ。俺は、君が思うような立派な男ではない。無数にある学校の一つに過ぎないこの狭い世界では、君の目にはそう映るのかもしれないが」

「……浩二さま、これまでの非礼、お詫びいたします。ご迷惑をおかけして、誠に申し訳ありませんでした。どうか、零音を許してください」

「はっ……?」


 唐突な零音の謝罪に、猫騙しを食らったような驚愕が脳髄を駆け抜ける。どうやらそれは、動揺を声にだしている立石も同じようだ。

 一瞬だけ呆気にとられた立石は、すぐさま冷静を取り戻して返事する。


「……ストーカーをやめてくれる気になったのか?」

「浩二さまが嫌がる行為を続けるほど愚かではありませんわ。浩二さまのおっしゃられたように、零音の気持ちは、しっかりと言葉でお伝えいたします」

「そうか。わかってくれれば、俺の話は終わりだ。悪いがこれで失礼する。早く部活に行かなくては――」

「浩二さまっ!」


 自分の要求が認められて、そそくさと逃げるように立石は教室を出ようとした。

 数歩分だけ聞こえた逃げ足の音は、彼女の制止する声に遮られる。

 

 そのとき、廊下の先にある階段の方角から、ぞろぞろと大勢の足音が近づいてきた。

 

 重要な局面を迎えた室内の様子は気になるが、だからこそ邪魔者に介入されるわけにはいかない。俺は教室の窓を離れて、入口の扉を塞ぐ位置で立ち止まった。

 移動を終えて間もなく、階段をのぼり終えた人物たちが姿を現した。数は四人。全員が女子生徒の集団は、やはり前回も横槍を入れてきた面子だった。

 彼女たち四人のうち、三人はクラスメイトだ。俺が目的地の前に立ち塞がっているのを見て、三人は意外そうな顔をした。

 残りの一人はクラスメイトではないが、俺と目が合った瞬間、汚物でも見るように顔を歪めた。

 俺を見つけて一度は足を止めた彼女たちが、一斉に押し寄せてくる。鼓膜の裏から心音が聞こえそうな緊張に、俺は気づかぬフリをした。


「佐藤くん、そこどいてくれない? なかに立石くんがいるんでしょ?」

「そーいや、佐藤って最近立石くんと仲良さそうだよね~」

「見張りでも頼まれてんの? 大丈夫大丈夫、あたしらも呼ばれてるからさ」

「どうしてここに立石がいるって知ってるんだ?」

「そんなのどうでもいいじゃん。佐藤くんには関係ないでしょ?」

「てゆーかぁ~、普通に偶然聞いただけなんだけどさぁ~」

「聞いた? 立石に呼ばれたっていわなかったか?」


 間抜けすぎる論理の破綻を指摘しても、彼女たちの威勢を削ぐことはできなかった。彼女たちは反論する俺が気に入らないらしく、唇に浮かべていた媚びを売るような愛想笑いを消して、険しい眼光を飛ばしてきた。

 残りの一人、最初から苦味を全面に出していた女子が俺に詰め寄ってくる。


「あたしらの邪魔しないでくれる? 短期間だけ彼女になってあげようと思ったのに、それを断ったお前に用はないの。どいてくれない?」

「あー。前にいってた金持ちの男って、佐藤くんのことだったんだ」

「もったいなーい。せっかく玲子と付き合えるチャンスだったのにね~」

「顔がいまいちでも金があるんだから、ちゃんと有効に使わないとダメだよぉ?」

「あ、ひっどーい。佐藤くん泣いちゃうよ~」

「きゃはははっ! ごめんね佐藤くん。こいつ口が悪くてさ!」


 女子のいじめは陰湿と聞くが、これがまさにその手法なのだろう。大勢で一人を囲み、心に傷をつけて、その傷口を何度も何度も執拗に痛めつける。俺の精神も彼女たちの集中攻撃を浴びて、しだいに尊厳を失って衰弱になっていく。


 ――少し前なら、そんなふうになっていたかもしれないな。


 くだらない言葉を聞き流しながら、俺は自分の成長を実感した。

 少し前――斎藤亜里沙と出会い、彼女の強さに触れる前ならば、威勢を保ってはいられなかっただろう。

 集団の先頭に立つ女子に、俺は無感動な視線を向けた。


「よく威張れるね。俺にフられて、泣いてたくせに」

「ッ! テキトーなこといわないでくれない?」

「俺なんかに断られるわけがないって思ってたんだろ? その俺に拒絶されたんだから、荻野さんは俺以下だね? 悪いけど、全部言い訳にしか聞こえない」

「は? なめてんのかお前ッ!」


 激昂した荻野玲子に胸元を押されて、よろめいて背中を扉にぶつけた。静かな廊下に、衝撃音は広く響く。異性に暴力を振るわれたのは初めてだ。

 騒ぎが大きくなってしまった。会話は聞こえてなかったにしても、いまの衝撃を室内にいる二人は見過ごせないだろう。

 口喧嘩に夢中になって、俺は自分の役割を忘れていた。

 失敗を犯して、泰然としていた精神が乱れる。

 暴言を吐いて俺を扉から引き剥がそうとする女子の干渉に、俺の抵抗は一歩遅れてしまった。

 慌てて手を伸ばす俺を女子集団が妨害して、彼女たちのリーダーである荻野さんが入口の扉に手をかける。

 彼女の指が取っ手を担う窪みに触れたとき、

 

 室内側から扉が開いて、冷ややかな目をした立石が彼女たちを見下ろした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る