第12話
――狭い。
膝を抱えて背中を丸めなければ収まれない狭い空間に俺はいた。身体は動かせないので顔だけ横に向けると、膝の下でスカートを巻き込んで手を結んでいる亜里沙が、視線に反応して俺のほうに首を回した。
「どうしたの修平。トイレ? もう、先に済ませておいてっていったじゃん」
「そんなもん、いちいち許可なんかとらず勝手にいくわ!」
「だめだよ。いつ来るかわからないんだから。バレたら戻さないといけなくなるじゃん。結構疲れるんだよ、時間戻すのって。修平にはわからないだろうけど」
「トイレじゃないっていってるだろ。俺だって軽々しく戻されたくない。気持ち悪いんだよ、あの感覚は」
「トイレじゃないんなら……お腹すいたの? それとも眠くなっちゃったのかな?」
「俺は幼児かよ!」
至近距離にある亜里沙の唇が、微かな笑い声を奏でる。密着はしていないが、並んで座る俺たちの肩は、僅かでも身を揺らせば触れてしまいそうだ。
部室としても使用されていない放課後の特別教室には、俺たち以外に生徒も教師もいない。一日の役目を終えた教室に並ぶ二人掛けの机の下で、俺と亜里沙は身を潜めている。
口が滑ってもいいたくないが、俺の心臓はひどく高鳴っていた。同級生の女子と、狭い空間で肩を寄せ合うなんてシチュエーション、人生で二度とあるかもわからない。異性に慣れていない俺が、こんな状況でまともでいられるはずがない。かろうじて喋れるのは、相手が亜里沙だからだ。
微かに甘い香りが鼻孔を掠める。亜里沙の髪の匂いだろうか。本人にその気はなくとも、芳しい匂いには強烈に異性を意識させられる。俺は冷静さを保つために、さきほど訊きそびれたことを訊いた。
「直接言葉を交わすことの重要性を説いたのはわかる。いつまでも放置してたら、ずっと解決しないもんな。だけど、結ばせるつもりじゃなかったのか? 立石が零音と付き合う可能性を否定したら、すぐに引き下がったよな。恋人にするのは諦めて、ストーカーの更正に切り替えたのか?」
「諦めてなんかないよ。五十嵐ちゃんはね、そんな悪い女の子じゃないんだよ」
「いや悪い子だろ。長期間ストーカーしてるんだぞ」
「それはね。でも、友達もいるし、成績だって優秀なんだよ? 修平と立石くんはストーカーとしての彼女しか見えてないけど、彼女は二人が思ってるような完全異常者じゃない」
「ストーカーしてるのは、どう接すればいいかわからないから、とでもいうのか?」
「そもそも、本人はストーカーの自覚がないんだと思う。それがダメで、立石くん自身がきっぱりと彼女に注意すれば、彼女は理由を話してくれるはず。彼の後ろをつけていた理由をね。彼女の本音を聞いたら、立石くんの心も動くかもしれないでしょ?」
「希望的観測だけど、こんな場所で待機してるあたり、あまり信じてないんだろ?」
「そんなことないよ。こうして隠れてるのは、立石くんの条件だったからしかたなく、だし」
誰もいない放課後の特別教室。立石はそこに零音を連れてきて、偽警官――亜里沙にアドバイスされたとおり、面と向かってストーカーを辞めるよう伝えると決心した。
ただし、俺と同じく零音の異常性を恐れている立石は、零音への勧告を実行するにあたり、俺にとある依頼をした。
迷惑だという旨を伝えられた零音が〝暴走〟したときに備えて、いつでも助けにはいれるよう近くに隠れておいてくれ、と。
俺としても、ネジが一本どころか五本くらい抜けてるとしか思えない異常者と立石を二人きりで合わせるのは危険だと思った。それは単純な命の危険というだけでなく、トイレでの一件のように彼女に唆されて彼の純真が破壊されることを危惧しているからだ。
……おいしい体験を立石だけにさせたくないという、同姓としての僻みもあるが。
「あいつは俺にだけ依頼したんだ。お前まで来る必要はなかったぞ」
「嫌だよ。こんな楽しそうなことを修平だけで独占するなんてひどいじゃん」
「俺はまったく楽しくないんだけど」
「それに、これは叶わない恋愛でしょ? 私の使命はそれを叶えることなんだから、成就する瞬間は見届けたいに決まってるじゃん」
上機嫌に話す亜里沙。
俺は微笑みをもらす彼女から目をそらして、前に彼女がいっていた言葉を思い浮かべた。
「人を好きになれない、だっけか。それで恋愛ができないって、前に教えてくれたよな。だけど、恋愛に興味がないってわけじゃないよな? いくら超能力があるからといっても、恋愛に興味ない奴は苦労してまで他人と他人をくっつけようだなんてしないだろ。時間を戻すなんて能力なら、もっと別に、いくらでも使いようはあるはずだ」
「そうだろうね。でも、私は基本的に恋愛のためにしか能力は使わないことにしてるから」
沈んだ声色で答える彼女に振り向く。そこに明朗な笑顔はなかった。物憂げな瞳を俯かせて、彼女は儚げに微笑んでいた。
亜里沙が他人の恋愛に尽力する背景に複雑な事情があることは、その表情を見るだけで明らかだ。
これ以上は訊くなと暗に示されているようにも思うが、
「なにがあったんだ? なにがきっかけで、こんなふうに他人の恋愛に協力しようと思うようになったんだ?」
彼女に巻き込まれて随分と時間が経つ俺は、酔狂な行為の根源にあるものの正体を知らずにはいられなかった。
互いに口を閉ざして、しばしの沈黙が続いた。
逡巡していたであろう亜里沙は、俺の顔を見ないままでいった。
「立石くんの件が片付いたら、修平に話すよ」
真意の読めない横顔には、並々ならぬ覚悟を感じた。教室で見せる無表情とも違う、硬い意志を表す彼女に、答えを急かすなんてマネができるはずもなかった。
「わかった」と短く答えて、なんだか気まずくなって床に目を落とす。
直後、特別教室の扉が開かれる音が聞こえて、足音が室内に入ってきた。
数は二人分。足音は、俺たちが潜む机の反対側で停止した。
「――こんなところまで連れてきてすまない。あまり他人に聞かれたくない類の話だから、場所を選びたくてな」
「とんでもありませんわ。浩二さまからお誘いいただければ、火の中水の底、どこへでもついていきますわ!」
……普段から執拗に追尾しているくせに、よくもそんな台詞が吐けるものだ。
ともあれ、部屋に響く声は、立石と零音のもので間違いない。計画どおり、零音を誘うことには成功したようだ。
あとは肝心の勧告だ。これまで、軋轢を嫌う立石は自身のストーカーにさえ強くものをいえずにいた。しかしそれでは永遠に解決しない。今度こそ正面から拒絶の意志を伝えると宣言していたが、本当に臆せずに完遂できるだろうか。
心配が脳裏を過ぎったが、それは杞憂だろう。立石と親密に接するようになった俺には、彼の強さがよくわかっている。勉強や運動ができるだけの端正な顔立ちの男というだけじゃない。立石浩二という男は、外側だけでなく、内側にも強靭な精神を宿している。
彼ならばやり遂げてみせるだろう。俺は良い結末を信じて疑わなかった。
「……君に伝えたい話の件なんだが」
立石が、ついに切り出した。
俺はどのような事態が起きても即座に対応できるよう、全身の感覚を研ぎ澄ます。
問題が起こりうる展開として、いくつものパターンを脳内でシミュレーションしていたが――
「――――五十嵐零音さん。これは、どういうつもり?」
いずれにも該当しない想定外の展開が起きてしまった。
まさにこれから立石がストーカーを辞めるよう勧告しようとした矢先、三人か四人分くらいの複数の足音が室内に舞い込んできたのだった。
零音ではない女性の声が耳に届く。聞き覚えのある声だが、すぐには誰なのか思い出せない。
「なんですの貴方たち。零音と浩二さまの貴重な密会を邪魔しないでくださいます?」
「ぷっ、密会って! アンタら聞いたぁ? こいつマジウケるんだけど!」
「きゃはははっ! 本気でいってんのぉ? おめでたい頭してるわ、こいつ」
「浩二くんがアンタみたいなちんちくりん、相手にするわけないっしょ!」
「あ、もしかしてちょっと大きい胸で誘ってたんじゃない? 必死すぎて不憫だわ~」
徒党を組んで零音に誹謗中傷を浴びせる女子たち。どうやら四人いるようだ。それは、想定していたいずれの事態にも増して危険であるかもしれなかった。
仲裁に入るべきか? けれども潜んでいたことが零音や乱入者の女子たちに知られれば、今後面倒な目に遭うことは避けられない。
リスクを承知してなお、それでも助けにでるべきか?
「――君たち。前触れもなく入り込んできて、失礼だとは思わないのか?」
「あ、ごめん浩二くん。でもさ、浩二くんが危ないって思って」
「あたしら、最近そいつが浩二くんをストーカーしてるって知って、一言いってやろうと思ったわけ」
「そうか。……勘違いしているようだが、俺は彼女のことを嫌ってなどいない。少なくとも、君たちよりはな」
「………………は?」
猫撫で声で立石に喋りかけていた女子たちが、意表を突かれたように気のない声をあげた。
俺にとっても、彼女たちに対する立石の反応は意外だった。
「……なにそれ。浩二くん、ひょっとしてこんな女に気があんの?」
「さぁな。それをお前たちに話す義理はない。わかったら失せろ」
静かな怒気をはらむ声に、誰もが言葉を失った。
ややあって、進入してきた女子の一人が、乾いた笑い声をあげた。
「あははは……。あーあ、ざーんねん。顔はいいのに、女を見る目がなかったなんてね~。五十嵐さんには感謝しないとね。浩二くんに魅力がないってこと、身を挺してあたしらに教えてくれたんだから」
「ばっかみたい。なんか冷めたわ~。かえろ~」
進入してきた女子集団のリーダー格と思しき奴が、手のひらを返して立石と零音を侮辱した。変わり身の早い奴だ。ろくでもない奴らと縁を切れて、立石も清々していることだろう。
彼女たちの介入は不愉快なものであったが、おかげ立石の意外な心情を垣間見れた。もしかすると、亜里沙の期待していたように、〝叶わない恋愛〟がこれから成立するかもしれない。
ともかく、不測の事態が無事過ぎ去って、俺は胸を撫で下ろした。
そのとき、荒々しい足音が室内に響く。
「――え? ちょっ、は――――?」
戸惑いの声は、女子集団のリーダー格のものだ。
そして、一瞬ののち、
三人分の悲鳴が室内に甲高く反響した。
考えるよりも早く机から出た俺の目に映ったのは、
零音の背中に手を伸ばして呆然としている立石と、零音を含む四人の女子生徒。
彼女たちに囲われるようにして、一人の女子生徒がうつ伏せで倒れており、
その背中には、カッターナイフの刃が深々と突き立っていた。
俺は注意を引きつけることも厭わず、大声で叫んだ。
「戻せえぇぇぇぇぇぇぇぇッッ!!!!」
俺の叫び声に部屋にいた人物たちが振り返るより早く、
視界に映っていた世界は消失した。
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