第10話

「修平はしないのか? 高三にもなって授業中にトイレは恥ずかしいぞ?」

「俺は前の休み時間に済ませたってさっきいっただろ。まだチャージ完了してない」

「すまん、静かだと落ち着かなくてな。そこで見張っていてくれよ」

「マジで夜中にトイレにいく子供みたいだな」

「おばけは怖くない。おばけより怖いものに追われているからびびっているだけだ」

「そんなクールに断言されても、情けない状況なのは変わらないからな」


 便器に下半身をくっつけて、端正な男は俺を監視するように横目を向けている。澄まし顔でいるが、内心は穏やかじゃないようだ。

 教室を出た立石は、教室のそばにあるトイレではなく、わざわざ隣の棟のトイレまで移動した。そこは実験室や美術室が集約している棟で、比較的に利用される頻度は少ない。


 ――いくらストーカーっていったって、トイレにまで追ってはこないだろ。それも、校内で。


 似たようなことを立石にもいったが、相手の思考が読めない以上、警戒するに越したことはないと言い張って、人気のないトイレにまで同行する羽目になった。


「まだか? なげぇな」

「そう急かすな。まだ時間はあるだろう」


 二つ並んだ洗面台の鏡に、俺の姿が映っている。利用頻度が少ないわりに清掃は入念にされているようで、不潔な印象はない。汚れの少ない鏡には、つまらなそうな顔がくっきりと映っていた。

 いったい俺は何をしているのだろうか。

 一旦トイレから出て、付近に例の女子生徒がいないか探ってみたが、それらしい人物はどこにも見当たらない。廊下の奥に談笑しながら歩いている生徒が二組いるだけだ。

 とんだ心配性だ。顔がいいのだから、もっと毅然としていればいいのに。なんていう嫉妬心から生まれた感想を漏らして、俺はイケメンを迎えるためにトイレに戻った。

 

「――き、君っ! どこから現れたんだっ!」


 トイレ内に一歩足を踏み入れた瞬間、素っ頓狂な大声が耳に届く。

 慌ててなかに進んで様子をうかがうと、水の流れる小便器をまたいで、立石が壁に追い込まれていた。

 彼の前には、艶やかな黒髪を腰にまで伸ばしている、彼の頭二つ分は小さい背丈の女子生徒が立っている。その表情は、俺の位置からでは確認できない。


「個室から見ておりましたわ。浩二さまがいらしてから、ずっと」

「ど、どういうことだ!? なぜ俺がこのトイレを利用するとわかった!?」

「だって、最近の浩二さまは、ここのお手洗いがお気に入りなんでしょう?」

「なん……だと……」


 想定外の事態に、立石は愕然として女子生徒を見下ろした。

 避けていたつもりが、引き寄せてしまったのだ。ストーカーを、人のこない男子トイレに。


「……だとしても、君は待ち伏せしていた。俺がトイレに行くことを事前に知らなければ、そんなことはできないはずだ。これはどう説明する?」

「短い休憩時間に教室を出たら、お手洗いに寄る確率は高いでしょう? 特に、浩二さまの場合は」

「なっ……まさか、俺が教室を離れる度に、そこの個室で待ち伏せしていたのか」

「女は忍耐強くなくてはいけませんわ。何日も耐え忍んで参りましたが、ようやく二人きりになれましたわね。それも、こんな誰もこない場所で」

「い、いや、そこに俺の友人がいるんだが……」


 逃げ場のない立石が、彼女から目を逸らして俺に助けを求める。だが俺としても男子トイレで男子生徒に平然と迫る女子生徒に対して、どんな言葉をかけるべきなのか皆目見当もつかない。おまけに、問題の根源である長髪の女子生徒は、立石に促されても俺のほうを見向きもしない。


「幻ですわ。いたとしても、邪魔をしてこないなら気にかける必要はございません」

「あぁ、いや、なにをいって――」

「そんなことより、先程、浩二さまが用を足しているところを眺めておりましたせいか、どうにも身体が火照ってきてしまいました」

「は――――?」

「浩二さま、どうか|零音(れいん)の熱を、どうか奪ってくださいませんか? 特に、ここが熱くてたまらないのです」


 女子生徒は身長と不釣合いな胸部を両手で持ち上げて、蠱惑的な嬌声で語りかけ、さらに立石に肉薄する。

 俺は……恥ずかしながら歳相応の男子らしい感想を抱いているが、俺とは違い常日頃から異性と接して女慣れしているであろう立石には、彼女の誘惑など通用しないだろう。

 そう思っていたのだが、彼女の仕草に釘付けになっていた視線を横にずらしていくと、

 照れて頬を紅潮させた立石が、総身をぶるぶると震わせていた。


「な、なななっ! き、君は自分がなにをしているかわかってるのかっ!」

「ふふふ。意外とウブなんですのね。ますます好きになりましたわ。さ、遠慮なさらず、お好きなようにしてくださいまし。零音は浩二さまの物ですから――」


 悲鳴にも似たうわずった声を発するイケメンの立石。

 ひどく動揺する立石の身体に、いよいよ女子生徒の胸が接触してしまいそうになったとき、

 始業を告げるチャイムが、トイレの内部に転がり込んできた。


「――に、逃げるぞ修平ッ!」

「お、おう」


 時間切れを示す音で我に返った立石が、迫ってきた女子生徒の脇をすり抜けるようにして駆け寄ってきた。俺も振り返り、二人して急いでトイレを脱出して教室を目指す。

 股間を押さえて走る立石と同じ体勢で並走しながら、


「なんだよあいつ! ヤバいだろあれはっ!」

「だからいっただろう! 規格外の危険人物に狙われていると!」


 男子トイレで待ち伏せしていた破廉恥すぎる人物について問い質す。

 刺激的な誘惑を受けた立石のことを、ちょっとだけ羨ましくも思ったが、


「あれが、俺に付きまとっている変態ストーカー。五十嵐零音という女だ」


 あの異常者に狙われる自分を想像しただけで、生きた心地がしなかった。

 

          *

          

 衝撃的な出来事を見せられた日の夜、俺は自宅に帰ってから亜里沙に電話をかけた。彼女も気にかけている立石のストーカーの件について、情報を共有するためだ。


「学校だけでなく、登下校のときにも尾行されてるって聞いた。遅くまで部活をやってるのに、いつも終わるまで待っているらしい。さすがに電車に乗ってまで追跡はしてこないみたいで、改札を通ると学校の方面に戻っていくようだけど」

「五十嵐ちゃんの家は学校のすぐ近くだから、駅まで送ったら家に帰ってるんだろうね」

「あいからわず生徒の事情に詳しいな……」

「こうして役に立つからね。んー、修平の話を聞いた感じだと、五十嵐ちゃんは修平が思ってるほど危ない人物とも思えないなぁ」

「監視されてるうえに、今日は過激に接触してきたんだぞ? 明らかに危ないだろ」

「過激っていっても、おっぱい触らせようとしただけで、殺そうとしてきたりはしないんだよね?」

「ま、まぁ、そうなんだけど……」


 直球的ながらあっさりした物言いに、思わずたじろいでしまった。


「変わってるといえば変わってるけど、一線は越えてない感じだね。帰り道でだって、襲ってくるどころか話しかけてもこないんでしょ?」

「それは立石が他の部員と一緒に帰ってるからかもしれないけどな」

「ふーん」


 現状、怪我をさせられただとか、危害という危害は一度も受けていないと立石はいっていた。俺からすれば、執拗なストーカー自体が充分な危害に当たると思うが、亜里沙としても彼と同様の考えのようだ。

 五十嵐零音のストーカーっぷりを一通り説明すると、電話越しに聞いていた亜里沙は、思考に耽るような間を置いてから、声を発した。


「立石くん、彼女いるんじゃないの?」

「全校生徒の情報に精通してる亜里沙なら、それくらい知ってるんじゃないのか?」

「いくら私でも、何百人もいる生徒たちを一点の曇りなく観察できるわけないでしょ。ただ、立石くんは修平と違って顔がいいし、勉強も運動も並以上だから、彼女の一人や二人くらいいるほうが自然だよね」

「さらっと悪口が聞こえた気がするんだけど」

「気のせいだよ。電波が悪いんじゃないかな?」


 クスクスと嘘をごまかす気のない笑いが受話器から漏れている。少しイラっとしたが、悪口を返すつもりはなかった。

 自信満々の彼女の見解を裏切ることが、充分な意趣返しになると思ったからだ。


「聡明な推理を裏切るようで悪いけど、立石に彼女はいない」

「え……なんで?」

「なんでと訊かれても、本人がいっていたとしか説明のしようがない」

「嘘ついたんじゃないの。修平に気を遣って」

「お前俺に対して失礼すぎるぞ!」


 案の定、納得いかない不満そうな声色で聞き返してきた。当然の反応だろう。俺も立石から彼女がいないと聞かされたときは、いまの亜里沙と似たような反応をしてしまった。

 成績優秀で運動神経抜群、顔も整っている妙齢の男子が、ガールフレンドの一人もいないなんて道理に背いている。えっちなことに耐性が低いという唯一の弱点はあるが、それが好感度アップに繋がる異性も多いように思う。五十嵐零音のように。


「でも、よく考えると都合がいいかもしれないね。彼女がいないなら、心置きなくくっつけられるじゃん」


 やはりというか、なんというか。亜里沙はその結論に辿り着いた。

 立石と屋上で遭遇した日から、彼女は彼らの関係に多大な興味を示していた。ストーカー女子と、ストーカーされる男子の恋愛――叶うはずのない恋愛を成就させることに。

 充の一件と違い、すぐさま積極的な行動に移行しなかったのは、立石が彼女持ちだと推測していたからだろう。疑惑が晴れたいま、彼女の欲求を制限する枷はなくなった。

 しかし、俺は反対だった。


「無理だろ。明確に立石は疎ましがってるんだぞ。洗脳でもしない限りは…………まさか、タイムリープ能力だけじゃなく、洗脳能力まで――」

「持ってないよ。持ってたらとっくに修平を玩具にして遊んでるよ」


 ――もう結構な玩具として扱われているが……。


 それは亜里沙の無茶を拒まない俺にも原因があるので、黙っておいた。


「なら、どうするつもりなんだ? 零音とかいう女子を焚きつけたところで立石がフるのは目に見えてるし、その理由だって訊くまでもない。ストーカーをやめろと警告したところで、あの異常な女子が素直に受け入れてくれるとは思えないぞ。最悪、刺されそうだし」

「そこは問題ないよ。刺されたらタイムリープすれば傷は塞がるし」

「大ありだろ。刺殺される痛みなんて経験したくないぞ」


 俺の抗議に対して「何事も経験だよ」などとテキトーに返事した彼女は、また笑い声を微かにあげて、


「心配しなくても、修平が危険な目に遭うことはないよ。せっかくおもしろそうな恋愛を見つけたのに、私が何も考えずにいると思った?」


 自己陶酔した気分の良さそうな声色で、亜里沙は俺に打ち明けた。


「もう考えてあるんだよ。ふたりを恋人にする、とっておきの作戦をね」

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