第9話

 梅雨に入り、鬱屈とした湿っぽい日々が続いていた。今日も空は曇り模様だが、数日振りに雨が降っていないので、昼食は屋上で摂ることにした。

 昨日の雨が残した水溜りの点在する屋上で、乾いている地面を探す。平坦に広がる景色はどこも濡れていて、腰をおろせば制服が汚れるのは避けられそうになかった。


 ――立って食べるしかないか。


 半ば諦めながら階段室の裏にまわってみると、そこのコンクリートは濡れて紺色に湿っておらず、本来の淡い灰色を保っていた。階段室の壁が雨を防ぐ傘になったようだ。

 昼食の場所を確保したが、そこには先客がいた。

 チョコレートを混ぜたクロワッサンを片手に、紙パックに入ったミルクココアをストローで啜る。甘い食べ物に甘い飲み物を組み合わせてご満悦のクラスメイトは、ちびちびとココアを吸い終えて一息つくと、隣に立った俺に紙パックの飲み口側を向けて差し出した。


「これおいしーよ。修平も飲む?」

「い、いや、それはまずいだろ」

「おいしーっていってるじゃん。あ、私の使ったストローが嫌なら、飲み口からそのまま飲んでもいいよ?」

「そういうわけじゃないけど……いや、それもあるけど……とにかく、ココアはいい。飲み物なら持ってるし」

「ふーん。飲んだら一〇円くらい取ろうと思ってたのに」

「金とるのかよ……」


 亜里沙と一人分の隙間を空けて、俺は硬い地面に直接座り込んだ。ズボンが湿った感触はない。しっかり乾いていることに安堵して、弁当とペットボトルを広げた。


「進入厳禁の屋上で昼飯を食うようになるなんて、俺もすっかり不良生徒だな。バレたら成績に響くだろうし、下手すると停学かもしれん。さすがに退学はないと思うけど」

「そういう背徳感? みたいなのって、よくわからないけど楽しくない? 駄目っていわれるほどやりたくなっちゃうよね」

「俺はお前みたいに不純な理由で来てるんじゃないからな。屋上でないと亜里沙が喋れないから、しかたなく付き合ってるだけだ。教室で飯を食う仲間もいなくなったしな」

「あれから一ヶ月くらい経つけど、充くんと南ちゃんは順調そう?」

「昼飯を彼女と堂々と一緒に食べるくらいだから、問題ないんじゃないか。腹立つ自慢を聞かされることはあっても、愚痴はこぼさないし」

「そっか。いい仕事したね、私たち」


 ――そうだろうか?


 充と南さんが恋人になったのは、俺と亜里沙が裏で色々と手を回したからだ。俺たちが介入しなければふたりの恋愛は成立しなかった。自意識過剰じゃない。現実に失敗の結末を目の当たりにしたのだから、それは断言できる。

 断言できるはずだが、一ヶ月経っても些細な諍いすら起きていない相性の良さを鑑みると、充があの日フられたとしても、いずれ二人は自然と付き合っていたんじゃないかと思ってしまう。

 ただ、


「あれだけ苦労したんだ。ふたりには、自分たちの理想を目指してもらわないとな」

「あのふたりなら大丈夫だよ。もう私たちが手を貸す必要はないって」

「だといいけどな」


 やはりそれは錯覚で、現実には俺と亜里沙が暗躍しなければ、ふたりが付き合うことはなかっただろう。決定付けたのは充本人の勇気だが、念願の恋愛が成就したのだから、背中を押してやった甲斐があったというのものだ。

 告白の翌日、友人に満面の笑みで感謝されたことを思い出しながら、俺は手にした箸を弁当に伸ばそうとして、

 屋上の扉が激しい力で開く音を聞いて、手を止めた。


「……開いてる……? 誰かいるのか?」


 雨上がりの屋上に駆け込んできた人物は、姿を見せないまま独り言のように喋りかけてきた。やや高い声色だが、男性の声だ。

 ここで昼食を摂っていたことが学校関係者に知られれば、ただでは済まない。なんとしてでも、隠れてやり過ごさなければ。


「いるなら返事をしてくれ。どこだ? 裏か……?」


 鉄製の厚い扉が閉まる甲高い音が響いて、足音が迫ってくる。

 どうすべきか相談しようと亜里沙に目を向けてみたが、いつの間にか彼女は姿を消していた。

 彼女はどこに行ったのかと探しているうちに、階段室の入口のほうから影がさした。

 バレないためには、亜里沙がそうしたように俺も早く身を潜めるべきだろう。

 けれども、


「こちらにいたか。声かけたのだから、返事くらい――――ん? なんだ。修平だったのか」


 相手が教師でもない学友とわかれば、堂々と迎えればいい。


「無理いうな。いちおう、悪いことをしてるんだからな」

「どう鍵を開けたのか知らんが、いわずもがな、屋上にいることを教師に知られたら終わりだぞ? 人生を棒に振るつもりか?」

「バレなきゃ問題ないだろ。それとも、バラすつもりか? 〝自分が屋上にいたことを〟」

「……ふっ、安心しろ。脅されなくとも、これで俺も共犯者だ。自分の首を絞めるようなマネはしない」


 高身長に整った顔立ちをした嫉妬したくなるようなイケメンの知人――立石浩二は、愉快そうに薄い笑みを浮かべて、俺の横に並んで壁に背をもたれた。


「その代わり、昼休みが終わるまで匿ってくれ。そうしてくれれば、修平が屋上で昼飯を食べている件は他言しないと誓おう」

「匿う? いまいち状況がわからないんだけど」

「ここ最近、厄介な奴に目を付けられててな。どこへ行ってもついて来るものだから参っていたんだが、ここならば奴も追ってこないだろう」

「ヤンキーの逆鱗にでも触れたのか? 立石は喧嘩とかしてそうなイメージないけどな」

「そうじゃない。そうじゃないが、そうであったら幾分マシだったかもしれん。男が相手なら、一発殴らせれば済むだろう」

「女子ってことか?」

「ああ。女性はねちねちと攻めてくるというが、とりわけ特性の強い奴に狙われてしまったようでな……」


 苦味を浮かべて、立石は壁にもたれるようにして座り込んだ。

 どうやら女子生徒に絡まれて迷惑しているらしい。立石とは友人と呼び合えるほどの仲でもないが、直面している境遇には親近感を覚えた。


「それって、ようするに、〝ス〟から始まるアレってことか?」

「少なくとも、俺はそう思っている。向こうに自覚があるのかは知らないが」


 俺の確認に、立石は肯定を返した。

 本当にそうだとすれば、立石に絡んでいる女子は、まず間違いなく彼に好意を寄せているはずだ。それも、俺や充の恋情とは比にならないくらいの、狂気じみた恋心を。

 立石に受け入れる気があれば、それは大きな幸福に繋がったかもしれない。だが、相手の深く色濃い恋情を真っ向から否定する彼に、その気は欠片ほどもないようだ。

 異常な好意を向ける女子と、拒む男子。その構図が示すのは、そこに恋愛に発展する可能性が介在しないこと。

 それが、〝叶うはずのない恋愛〟であること――。


「俺はストーカーから逃げてきたというわけだ」


 一方的な好意を向けてくる相手を犯罪者と断言する立石。

 彼に絡む女子ほどではないかもしれないが、彼の話を聞いて、面倒な嗜好を持った俺の相棒を連想した。脳裏に現れたそいつは、興味津々のニヤついた顔を浮かべている。

 俺がペットボトルのお茶を一口飲んで頭上を仰ぐと、

 階段室の上から俺たちをのぞいていた亜里沙が、脳裏で空想したとおりの悪戯っぽい微笑みをさらしていた。

 

          *

          

 立石浩二もまた、亜里沙と同じく俺のクラスメイトだ。元々は休み時間に談笑するような仲ではなかったが、昼休みに偶然に遭遇して以来、よく喋るようになった。友人と呼び合っても問題ないほどには。

 立石という男は隙のない学生だ。勉強もできれば部活でも活躍しており、そのうえ外見までハイレベルときている。どれかひとつでも分けてもらいたいものだが、こればかりは時間を巻き戻したところで手に入るものじゃない。

 異性からすれば、まさしく理想的な彼氏像が具現化したような存在だろう。当然モテる。おまけに、屋上で俺と会話したときのように誰とでも分け隔てなく接するものだから、人気にも拍車がかかるというわけだ。

 反面、そういった何事も穏便に運ぼうとする姿勢のために、ストーカーにも強く当たることができず、懸案事項を放置してしまっているわけでもあるが。


「修平、いま時間あいてるか?」

「いいけど、何のよう?」


 授業の合間の休憩時間に、困った顔で立石が話しかけてきた。


「悪いが、ちょっと連れションしてくれないか?」

「クールな声であんまり恥ずかしいこといわないでほしいんだけど」

「俺だってトイレくらい一人で行きたい。だが、この状況での単独行動は危険と判断した」

「この状況もなにも、男が一人で尿意を催してるだけだろ。カッコつけるなよ」

「カッコつけているつもりはない。教室の入口を見てみろ」


 立石は教室の入口に背を向けたまま、俺に彼の背後を見るよう促した。彼の額には、暑さとは別の不快感から流れる汗が滲んでいる。

 席に座ったまま、立石の身体に隠れていた入口付近の扉をちらとのぞくと、

 廊下に佇んでいる髪の長い女子生徒が、口元を三日月型に歪めて俺のほうを凝視していた。前髪に覆われた奥の瞳には、まさしく狂気と形容すべき光が湛えられている。

 背筋が寒くなる悪寒を覚えて、すぐさま俺は立石の身体を盾にした。


「あ、あれが、例の〝ス〟が付く女子か。ヤバいぞあいつ。お前たぶん呪い殺されるぞ」

「これで理解しただろう。頼むから俺と連れションしてくれ。怖い映画を観てトイレに行けないのとはわけが違う。怖い映画が誕生しそうだから一人でトイレに行けないんだ」

「お前、俺を道連れにする気か?」

「大丈夫だ。ホラー映画でも、二人同時に襲われることは滅多にない」

「……その説得は謎だけど、しょうがない。ついていってあげるよ」

「すまん修平。恩に着る」


 廊下にいる得体の知れない女には恐怖以外を感じなかったが、文武両道のイケメンが教室で漏らすなんてのはあまりにも憐れだ。それに、友人に狂気の恋情を抱く相手がどんな人物なのかにも、多少の興味があった。

 トイレまで同行するために席を立とうとしたとき、三人組の女子生徒が、立石の近くにぞろぞろと歩み寄ってきた。


「浩二くん、あの女、また浩二くんのこと見てるよ」

「気持ち悪いよね。あたしたちが一言いってこようか?」


 そいつらは、クラス内でも立石とよく喋っている女子の集団だ。女三人寄れば姦しいを常に体現している集まりで、俺はあまり良い印象を持っていない。


「い、いや、結構だ。必要あれば、俺が直接伝える」

「ほんとに大丈夫ぅ?」

「問題ない。君たちは手を出さないでくれ」


 立石が彼女たちをどう思っているのかは訊いたことがないが、引きつった笑みで応対しているあたり、俺と似たような感情を抱いているようだ。

 穏やかな口調であしらわれた彼女たちは、廊下から変わらず立石を見つめる女子を一瞥して、心配そうな顔で教室の空きスペースにぞろぞろと移動していった。


「あまり時間がない。すぐにいこう」


 すでに休憩時間が半分ほど過ぎていたが、我慢できそうにないらしく立石はトイレに急ぐ。俺は彼の後ろに続いた。

 教室の入口にいたはずの女子生徒は、もう姿が見えなくなっていた。

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