第3話
薄く茜色がかかった平らな地面は、所々が風に運ばれてきた砂埃で汚れていた。転落防止の欄干すらない殺風景な屋上で、斎藤さんは階段室の壁にもたれて俺を待ち構えていた。
「急いで閉めて! あ、でも、音を立てないよう慎重にね。バレたら面倒だから!」
屋上への侵入は校則でも禁止されている。教師に知られれば不都合極まりないのは当然だ。俺は音を殺して、ゆっくりと扉を閉めた。
「そんな危険な場所をわざわざ待ち合わせに使わないでほしいな」
「その分、人が寄り付かなくて私には絶好の場所だからね。常に鍵をかけてるから、先生が見廻りに来ることもないし」
「そうだよな。鍵がかかってたはずだもんな。どっかからパクってきたのか?」
「そんなわけないじゃん。鍵がなくなってたらバレちゃうよ。私はそこまで馬鹿じゃないって」
「まさか、ピッキングか? そんな高等な技術を持ってる奴が身近にいたなんてな」
「違う違う。そんな犯罪スキルももってないよ」
「ん……? じゃあなんだ? 他にあるとしたら……エスパー?」
「合鍵を作ったんだよ。勝手に」
「普通に犯罪じゃねーか!」
声を荒げて平然と罪を吐露する斎藤さんを糾弾したが、「バレなきゃ大丈夫大丈夫」と、彼女は暢気に俺の指摘をかわした。
やはり、屋上に惹かれるのは不良生徒というわけか。外見や授業態度だけを見れば絵に描いたような模範的な学生であるのに、優等生の裏の顔を知って、人は見かけで判断するべきではないという誰かの教訓を己が身で実感した。
「そんなことより、ちょっとこっちきてよ〝修平〟」
犯罪行為を『そんなこと』と雑に扱った不良少女は、階段室の反対側にある屋上のふちまで小走りで移動していく。
昨日初めてまともに言葉を交わしたばかりの異性から親しげに名前を呼ばれるのは、なんとも名状しがたい慣れない気恥ずかしさを掻き立てた。
それも彼女からの提案だった。これから一緒に行動するにあたって、他人行儀な関係ではやりづらい。まずは呼び方から互いの距離を縮めていこうと、互いを下の名前で呼び合うことにした。
こっちの気も知らず、付き合いの長い友人のように何気なく俺の名前を呼ぶ斎藤さん――ではなく、亜里沙。
俺が亜里沙のように彼女の名前を呼べるようになるには、もう少し時間が必要そうだ。
「はやくはやく」
屋上のふちについた亜里沙が、振り返って俺を手招きする。催促する彼女に応えて歩みを早めて、下を指差す彼女に促されて、屋上から四階層下にある校舎裏の風景を覗き込んだ。
そこでは、俺のクラスメイトである南千佳と、
「充……?」
彼女に密かな想いを寄せている友人の充が、向かい合って立っていた。
「岡崎くんと南ちゃん、どうなるかな?」
「知ってたのか? 充が南さんに告白すること」
「最近の岡崎くんを見てたら、絶対に何かあるって思ったからね。今日の昼休みに南さんと話してるのを聴いて、場所と時間を特定したんだよ」
「盗み聞きしたのかよ」
「どうかな? 二人とも私が近くにいると気づいてたのに構わず話し始めたから、盗み聞きとは違うんじゃない? それより岡崎くん、いくみたいだよ?」
自分の存在感の薄さをあっさりと自虐して、亜里沙は視線を眼下に集中する。
彼女の物言いには口を挟みたくもなったが、俺も友人の一世一代の初告白の結末には釘付けだ。まずは充の告白を、息を呑んで見守る。
おどおどした態度から、決然とした男らしい顔つきになる充。
何をいわれるのか薄々察しているのだろうが、真剣な眼差しを崩さず、まっすぐに相手を見て、彼の言葉に耳を傾けて待つ南さん。
意を決した充は、気を落ち着けるように息を吸い込んで、
「あ、いうよ」
「わかるから」
ちょっと鬱陶しい亜里沙の実況に合わせるように、充は南さんに対して、何かを伝えて頭をさげた。
充の遥か頭上に位置する屋上では彼の声を聴くことはできなかったが、ほぼ間違いなく相手への恋情を伝えたと捉えていいだろう。それ以外に、この状況で伝える言葉などないはずだ。
あとは結果だが……。
しばらく互いに硬直していたが、充が頭をあげるタイミングに合わせて、今度は南さんが反応をみせた。
彼女の返答をきょろきょろと視線を右往左往しながら待つ充に対して、南さんは相対する充がそうしたように、
小さく頭をさげると、充を置いて校舎裏から立ち去った。
南さんの返事もまた、屋上にいる俺の耳には届いていなかったが、
力なく肩を落として、とぼとぼと瀕死の戦士のように校門のほうへ歩いていく友人の姿を見れば、結果なんて聞くまでもなく明らかだった。
「だめだったみたいね。あのふたりなら、うまくいくと思ってたんだけど」
「待て。それはつまり、南さんも充が好きだってことか?」
「好きなら告白が成立しないのはおかしいでしょ。そこまでじゃないけど、私の情報では南さんには現在彼氏がいなくて、岡崎くんのことも決して嫌いじゃないみたいだから、告白されれば受ける確率のほうが高いと予想してたんだよ」
「それ、彼女から直接聞いたのか? 南さんと仲良かったんだな」
「ううん。クラスで彼女が友達と喋ってるのを聞いただけ。こっちは本当に偶然にね」
「やっぱり充の件は自分から盗み聞きにいってたのか!」
「細かいことは気にしない気にしない! 若くして禿げちゃうよ?」
教室で見せている無表情からは想像もつかない無垢な微笑みをこぼして、亜里沙は校舎裏をのぞくために伏せていた身体を持ち上げる。
「でも、ちょうどいいね。これは、〝叶わなかった恋〟だから」
「それのどこがどうちょうどいいんだ? ただ不幸なだけだろ」
「昨日いったじゃん。私は、私の分まで周りに幸せになってほしいって。私はね、岡崎くんと南さんには付き合ってほしいんだよ」
「だから、もう玉砕しちゃったじゃねーか。もうどうしようもない。それとも、再チャレンジしろってけしかけるつもりか?」
告白を断った奴が、日を置かずして同じ相手に再アタックされて、返答を変えたりするだろうか。
広い世の中ではそういうことも稀にあるのだろう。傷ついた充の心を癒して、もう一度奮い立たせるのは決して無駄とは言い切れない。
言い切れないが、
「あいつには悪いけど、もう一回アタックしたところで、結果が覆るとは思えない」
「それは私も同意見。私が見てきた限り、告白って初回が全てだと思うしね。最初でうまくいかなかったら、それは成就しない恋なんだよ。多くの場合はね」
「なら、もうしょうがないだろ。俺たちがどう願っても、あいつの初恋が失敗に終わったって結果はどうにもならない」
「そうだね。二度、三度と繰り返したところで、たぶん、結果は変わらない」
不可能を認めた亜里沙は、願望に反する現実にどういうわけか不適な笑みを口端に浮かべて、
「――だけど、一度目をやり直せるとしたら、どうかな?」
――『やり直す』?
まるで自分にはそれができると言外に匂わせて、亜里沙は俺に問いかける。
『やり直す』とは、充の告白を指しているのか?
彼の〝初めての告白〟をやり直すと、そういっているのか?
「できもしないことを考えても意味がない。まぁ、本当にそれができるんなら、事前の準備しだいで告白の結果も変わるかもしれないけどな」
仮にそうだとしても、いくら願っても叶わないのだから考えるだけ時間の無駄だ。ありえない可能性に現実逃避するよりも、次の恋愛を失敗しないよう自己研鑽に励むほうが何倍もマシに決まっている。当事者の充がどう評価するのかは知らないが、少なくとも俺はそう思う。
不意に学生服のポケットにしまっている携帯電話が振動した。取り出して確認すると、新着メールが一件届いていた。
受信日時は、携帯電話の現在日時とも一致する《5月15日17時11分》。差出人は、岡崎充。
その本文は、彼が放課後に決行すると宣言した告白の結果についてだった。
俺がのぞき見ていたとは知る由もない充は、たった四文字で構成される短い文章を俺に送ってきた。傍目から二人の仕草を見て推量した結末ではなく、正真正銘の真相を。
受け取った文章が《せいこう》だとか《やったぜ》であれば、俺も純粋な気持ちで喜べただろう。そうであれば、彼を奮起させるべく、性悪女に初告白を捧げた行為も報われる。
しかし、現実というのは思いどおりにいかないことが常だ。希望的な観測は往々にして成就しないように、充から送られてきたメールには、その文書を開く前からわかりきっていた結末が、揺るぎない現実であることを証明するかのように書かれていた。
「充からメールがきた。やっぱりダメだったらしい」
「でしょうね。あれでオーケーって返してたんなら、南ちゃん相当な変人じゃない。――これで決まったね」
俺の友人が不幸な目に遭ったというのに、俺を見据える亜里沙の瞳は煌々と輝いている。
まるで新しい玩具を与えられた子供のように楽しそうな彼女は、
「岡崎くんと南ちゃんの恋愛を、これからやり直すよ」
「まだいってるのか。妄想もいいけど、真剣に考えるならもっと別の――」
「なにいってるの? 私にはそれができること、修平は知ってるはずでしょ?」
そんなふうに話を振ってきて、その発言の理解に苦しむ俺を見るなり、
「だって、実際にやり直してみせたじゃん。あなたと、あなたのいう『性悪女』の恋愛を」
一日経っても究明できなかった謎の正体を、混乱する俺の眼前に突きつけてきた。
「わかるよ修平。いきなりこんな妄想じみたこといっても、到底信じられないよね。でも、私にだって信じがたいことがあるの。それはね、修平が〝やり直す〟前の記憶を覚えてること」
「……俺がひどいフられ方をしたのが『やり直す』前だっていうなら、たしかに覚えてる」
「〝やり直した〟後のことは?」
「そのひどい女が俺に告白してきたのが『やり直した』後だっていうなら、それも覚えてる」
「私にとってはね、それが不思議なの。そんな人、いままで誰もいなかったから」
嬉々として煌いていた亜里沙の瞳に、一瞬だけ暗い影が落ちた。それを指摘する余裕は、彼女の現実離れした告白を聴いている俺にはない。
いえることがあるとすれば、ただひとつ。
「……信じられん」
「だったら、信じさせてあげる。そして、私にも信じさせて」
すぐさま笑顔を取り戻した亜里沙は、おもむろに一歩あとずさって、
「あなたは、私の初めてのパートナーだって――」
瞳を閉じて穏やかにそう言葉を紡ぎ、茜色の空に身体を捧げるように両手を開いた。
俺は反射的に彼女の動きを追って、彼女と同じように紅い空を仰いで、
ふと、肌を撫でる風の質が変わったかと思ったときには、
学校の屋上ではない、人の気配の薄いどこかの路地に立っていた。
地味で、誰とも親しくない暗そうなクラスメイト。誰からも見向きされない彼女は、話してみると想像とは正反対なほどに明るくて、頬笑みが幼げでかわいかった。
昨日までは知らなかった真実だが、俺はもうそれを知っている。
初めて彼女と会話した瞬間と同じ風景で、彼女自体も同じように俺の前に立っていた。違ったのは、昨日のような照れくさそうな顔ではなく、悪戯っぽくにやにやしているところだ。
俺が喋るのを待っているらしい彼女を尻目に、ポケットに手をいれて携帯電話を取り出す。片手でスリープ状態を解除して、液晶画面に表示された現在日時に目を落とした。
薄々勘付いてはいたが、それで確信した。
《5月14日16時59分》
昨日の時間と風景に、〝今日の俺と亜里沙〟が立っていることを。
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