3月20日(月)_風邪で弱った君に

[解人:ごめん]9:34

[解人:明日のバイトいけないかも]9:34

[解人:熱出た]9:34

[くるる:カイトくん?]9:53

[くるる:カイトくん???]10:25



 解人は寝込んでいた。風邪である。

 朝から微熱があるので病院へ駆け込んでみれば、インフルエンザや流行り病などではなく、ただの風邪と診断された。

 午前休を使って付き添いにきた母親も安心した顔で仕事に向かっていった。いまは年度末。仕事も忙しかろうと解人は考え、一人で寝ているから平気だと伝えた。

 すぐに治るだろうと思っていた。

 だが、そうはならなかった。


 みるみる熱が上がり、解人は布団のなかで震えていた。

 咳はない。のどの痛みも。

 発熱、悪寒、そして倦怠感。

 解人は静まり返った家のなか、ぼうっとする意識で寂しさを感じる。布団に頭のてっぺんまでくるまってその寂しさを紛らわせる。

 こんなとき誰かいてくれたらな、と解人は思う。

 一人の少女の顔が浮かぶ。

 笑顔のあたたかな少女の顔が。 


 その時、音がした。部屋のドアが開く音。

 母親が帰ってきたのだと解人は朦朧とする頭で考える。父親は忙しすぎて休めるはずもない。となると午前休をとった母親しかいない。


「どうしたの母さん。仕事行っていいって──」


 解人は布団を剥いで顔を向ける。

 桜間くるるがいた。


「や、やほー。お母さんですよー……なんちゃって」


 グラスを片手にくるるがおどける。

 解人は固まった。


「……なんでさくらまさんが?」

「ありゃ、やっぱ覚えてないか」



 ◇ ◆ ◇



 解人はくるるから顛末を聞いた。

 結論から言えば、解人がまるっと忘れていただけだった。

 自分で住所を伝え、自分で鍵をあけ、お見舞いの品だけ置いて帰ろうとしたくるるに対して居て欲しいと懇願したということを。


「……ごめん、おれ……」

「いーのいーの。気にしないで!」


 解人はベッドで上体だけを起こしていた。グラスを傾けてスポドリを飲む。

 くるるをちらりと見た。

 春らしく薄手のブラウス姿。ロングのスカートは桜色で可愛らしい。

 デニムのジャケットが畳んで床に置いてある。一度部屋に入ってきてからアウターだけ脱いで、グラスを取りにキッチンへ向かったというくるるの言葉は正しいらしいと解人は理解した。


「熱はどうかね、カイトくんや」

「……あー、もっかいはかる」


 解人は枕元の体温計を手にする。部屋着のTシャツの襟元を引っ張って脇に挟もうとする。

 しかし襟元を引っ張っていた指先に上手く力が入らなかった。

 弓の弦のようにシャツの襟が弾かれてしまう。

 再び指先に襟を引っかけて伸ばす。シャツは再び解人の指から逃げた。


 思うようにいかないことにイラついた解人は、めんどくさいと思いながらシャツを脱いだ。そして脇に体温計を挟みこもうとする。


「どぉわあ!」


 悲鳴が上がった。

 くるるが両手で顔を覆っている。もっとも、目元を隠すはずの人差し指と中指の間はしっかりと開かれている。

 上半身がはだかの解人は、くるると目が合う。


「……あー、ああー……ごめん」


 解人は言いつつも体温計を脇に挟み、もぞもぞとシャツを着る。

 いつもならもっと焦るはずの解人。

 しかし風邪っぴきの頭は『熱を計ること』を最優先に考えており、他の全ては重要に感じていなかった。


「ん……38.7℃だ」

「わああ、すぐ寝なきゃ! ほらほら、横になって横に」

「あー……えー……」


 くるるが解人の肩をつかんでベッドに寝かせる。優しい手つきで布団をかぶせ、解人の胸のあたりをぽんぽんと柔らかく叩いた。

 こんなにぼんやりした解人は初めて見たと、くるるは新鮮な気持ちだった。


「カイトくん、ご飯は食べた? お腹空いてる?」

「すいてる」

「ゼリーも買ってきたよ! 食べられる?」

「おかゆ」

「へ?」

「食べたい。おかゆ」

「え、ええ?」


 考えなしに、思いついたことを言う解人。

 言ってから悪寒に身を震わせた解人は再び掛け布団を頭のてっぺんまで引っ張りあげる。

 一方、くるるは困惑していた。

 最近はバイトの研修で調理をする機会が増え、そのおかげで家でも母親と並んで料理をするようになったが、まだまだレパートリーは少ない。


「私、おかゆ作ったことないよ?」

「いい。たべたい」


 すっかり幼児のようになってしまった解人に、くるるの体の内側がきゅんと疼くのを感じる。

 可愛い、とくるるは思ってしまう。

 抱いたことのない感情の正体を知るのが怖くなったくるるは、ぶんぶんと首を振って立ち上がる。


「わかった! じゃあ、キッチン借りるね」


 部屋を出ようとする背に声がかかる。


「……いかないで」


 弱々しい解人の声。

 くるるは思わず振り返った。

 布団をかぶった解人はいつもよりもずっと幼く感じられて。

 その庇護欲を掻き立てる声に、くるるはいよいよ何かに目覚めそうになった。

 おかゆを作れと言っておいて行くなと言い出すのだからどうしろという話だが、そんなことは今のくるるには関係のない話だった。


「大丈夫だよ、ちょっとおかゆ作るだけだから」

「さくらまさん、帰ってくる?」

「めっちゃ帰ってくる!」

「本当に?」

「ほんとほんと! 毎日帰ってくるレベル! だから、行ってくるね」

「ん。わかった」


 くるるは叫びたくなる気持ちを抑えてキッチンへ向かった。



 ◇ ◆ ◇



 苦労して作ったおかゆは大好評だった。

 満腹になり薬を飲んだ解人は、ぐっすりと寝てしまう。

 無防備な寝顔を前に、くるるはふわりと微笑む。


「はやく良くなってね、カイトくん」


 掛け布団を一定のリズムで叩きながら寝かしつけていた手を止める。


「……や、でも……」


 くるるはふと思いつく。

 このまま彼が風邪を引いていれば、この可愛い姿をいつまでも見られるってことで……。

 いつもより甘えん坊なカイトくん。

 いつもより無防備なカイトくん。

 そのほっぺたに顔を近づけていく。

 髪の毛が解人の顔にかかる。

 吐息と吐息が触れあう。

 くるるの瞳が解人の唇をとらえ、二人の距離は限りなくゼロに近づいていき。


「って、いやいやいや……! なんてフキンシンなことを……!!」


 くるるは勢いよく体をのけぞらせた。

 自分の無意識の行動が恐ろしくなった。

 床に畳んだデニムジャケットを慌ててつかみ、バッグを背負って、逃げるように部屋を飛び出す。

 渡されていた鍵で施錠をし、言われていた通りにポストへ投函。


 罪の意識と高揚感とで息を荒げながら、くるるは解人の家をあとにした。

 風邪でもないのに頬が赤く染まっている。


 引け引け作戦の最中だというのに、すっかり押せ押せ思考のくるるだった。

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