3月21日(火)_君の代わりに私が泣くの

 ひと晩経ち、すっかり元気になった解人はシフト通りに働いていた。

 いつも通りのコーヒー豆の香り。いつも通りに店内にかかるジャズの音色。いつも通りに談笑する客たち。

 そのなかで、くるるの態度だけいつもと違う。解人はそう感じていた。

 どこかよそよそしいのだ。

 仕事のやり取りをしていても目も合わせてくれない。


 心当たりを探っているうちに時間は過ぎていき。 

 日が傾きはじめて客の姿が減ってきたころ、美奈から早上がりを薦められる。病み上がりの解人としては嬉しい提案に乗らない手はなかった。

 予想外だったのは、くるるも同じタイミングで早上がりにさせられたこと。

 着替えた二人は並んで帰り道を歩いた。


「おつかれさま、桜間さん」

「お、おつかれー」


 くるるがフイっと顔を逸らす。

 ゆるやかな拒絶。

 解人はショックを受けた。そして納得もする。


 やはり、昨日の一件がまずかっただろう。

 解人は思い出す。

 熱でうなされながら幼児のようにくるるに甘えた自分の言動を。


『食べたい。おかゆ』

『……いかないで』


 発熱で混乱していたとはいえ同級生の女子を相手に幼児のように甘えるなんて。

 クラスメイトと赤ちゃんプレイを楽しむヘンタイだと思われてしまったのではなかろうか、と。

 昨日は病人相手だから優しくしてくれただけで、一日経って冷静になったらやはり変態行為を強要されたと感じているのかもしれない。


 曇り空が肩に重くのしかかった。

 解人は立ち止まってしまう。


「桜間さん、昨日の……ことなんだけどさ」


 謝ろう。

 解人はそう決めて口を開く。



 ◇ ◆ ◇



 くるるはどんな顔で解人に会えばいいのか分からなかった。

 もちろん、キス未遂事件のせいである。

 昨日だって帰ってから散々に反省会と言い訳会を開き、理央を巻き込んだ乙女裁判をしたくらいだったのだ。しっかり有罪だった。


『被告・桜間くるるは看病に乗じて好意を寄せた男性にみだらな行為を行おうとしました。よって有罪!』


 裁判長・理央の判決はこうだった。


 そんなこんなで、解人との関わり方に悩んでいたなかでの一緒の帰り道。

 美奈が気を利かせてくれたのだとくるるは理解していたが、今日ばかりはドキドキと申し訳なさでどうにかなりそうだった。


 昨日の目の前にあったカイトくんの唇……思い出しちゃう。

 寝てる間に勝手に触れようとしたこと謝らないとなあ。でもこんなこと言えないよ。


 くるるの内面はぐちゃぐちゃだった。

 そこへ投げられた解人の言葉。


「桜間さん、昨日の……ことなんだけどさ」

「ひゃい!」


 くるるの心臓はバクバクだった。いまここで何事かを言われるのかと思うと逃げ出してしまいたい。

 でも逃げだすなんて最低なことも出来ない。

 追い詰められたくるるはイニシアチブを取ることにした。


「ま、待ってカイトくん! 場所を! 場所を移そう!!」


 くるるの提案が通り、二人はファミレスへ向かう。

 通されたテーブル席には隣のテーブル席との間に高めの仕切りがある。

 予想通りのレイアウトにくるるは胸をなでおろす。この店舗を選んだのはくるる。これから自分が謝罪するところをなるべく人に見られたくない、という涙ぐましい理由からのセレクトだった。


「桜間さん、ひとまず昨日は看病してくれてありがとう」

「う、ううん。こちらこそありがとう……じゃなくて、治ってよかったよ」

「おかゆ美味しかったよ。作ってもらって、昨日は感想も言わないで寝ちゃったから」

「いやいやいや、そんなそんな! 風邪だったんだから仕方ないって!」

「そうなんだけどさ。言ってなかったことに変わりはないから。今日はおごらせてくれ」


 解人が頭を下げる。

 くるるは罪悪感でいっぱいになる。自分の方がよっぽどひどいことをしていたのに。


「桜間さんはパフェ好きだったでしょ。いま苺フェアやってるらしいよ」

「そ、そうだねえ」

「頼んじゃう? 俺もなにか食べようかな」

「あう、うん、じゃあお願いっ」

「おっけー。ポテト頼んだから」


 卓上のタブレットを解人がいじる。注文が送信された。


「そ、それで、カイトくん。昨日のことっていうのは? いまので、おしまいかな?」

「あー……えっと」


 言いにくそうにする解人。

 くるるはそこで恐ろしい可能性に気付く。


 実はあのとき目が覚めてて、ばっちり見られていたのではないか!?


 だとすれば言いだしにくいだろう。

『お前昨日、俺のこと襲っただろ』など、男女関係なく切り出すには重たい話題だ。

 喉の奥がキュッと閉まるようだった。

 終わりだ。

 寝込みを襲う女として距離を置かれるに違いない。

 くるるは真っ白に燃え尽きた気持ちで解人の言葉を待つ。


「桜間さん、昨日は甘えてごめん!」


 解人が再び頭を下げた。


「へ?」


 くるるの目が点になった。



 ◇ ◆ ◇



「やだなーカイトくんってば! 別にあのくらいで赤ちゃんごっこになんてならないでしょ!」

「そっか、よかった。だよな」


 話を聞いたくるるは砕けた笑顔を見せた。  

 解人はさすがに『赤ちゃんプレイ』という単語は使わなかった。

 なけなしの自尊心を守ろうとした結果である。もし特殊性癖について同級生の女子に語ったとなれば、いよいよ言い訳の利かない変態になってしまう。

 必死に『赤ちゃんのように甘える~』だの、『ごっこ遊びみたいで~』だのと誤魔化して伝えたのは正しい判断だっただろう。


 もっとも、くるるはくるるで母性本能がくすぐられたことは恥ずかしくって言いだせなかったので、どっちもどっちである。


「病気のときなんて人に頼っていいんだから。気にしなくていいんだって」

「あー、あんまりそういう経験なかったからなあ」


 解人がさらりと放った言葉にくるるは敏感に反応する。


「……これ、使う?」


 くるるは卓上の紙ナプキンを手に取っていた。涙を拭けるようにと。

 センシティブな話を振ってしまったかなと考えてのくるるなりの行動だった。

 病気のときに人に頼ったことがない、というのがくるるには想像できない。例えば身近な家族にさえ頼れないのだとしたら、それは何かしらの触れてはいけない問題を抱えているようにくるるには思えたのだ。

 それゆえに、くるるは解人に配慮した。


 解人は、そんなくるるの心遣いを感じ取り、しかしゆっくり首を横に振る。


「ありがとう。でも大丈夫だよ。うちは共働きでさ、あんまり休める立場でもないらしくってね。小学生くらいのころ、風邪で一人っきりの留守番とか、わりとよくあったんだ」

「そう、なんだ」


 くるるの家も共働きだったが、何かあれば近所に住む祖父母が来てくれて、それゆえに一人っきりで留守番をして療養をした記憶もなかった。

 しかし、今の解人にそれを言ってもどうなるわけでもないと考えてくるるは口を閉ざす。


「病気でダウンしてるときって部屋とか家がすごく広く感じるんだよね。自分がすごく小さくなって、広大な世界で孤独になるっていうかさ。それ以来、一人で寝込んでるとどうにも心細くなっちゃって。情けない話だろ?」


 ははは、と笑う解人。

 困ったようなその笑みの奥に潜む感情を、くるるの心は見逃さなかった。

 くるるの真ん丸な瞳から涙が静かに流れ落ちる。

 手にした紙ナプキンはしわくちゃに握りしめられていた。


「えっ、なんで泣い……泣かないでよ桜間さん。どうしたの急に」

「だっで、カイトくんが……カイトくんが、そんな悲しいこと言うから……!」

「悲しいって? 一人きりだったからってこと? 別に今は平気だから」

「そうじゃなくって……そうじゃなくってさ」


 頬を照らす涙のあとがきらりと光る。解人の目にもその輝きが届く。


「カイトくん、いいんだよ」

「へ? なにが──」

「甘えていいんだよ。病気の時くらい、他人に頼っていいんだよ。私はそれを赤ちゃんごっこだなんて、ばかにしないよ。私はそれを情けないだなんて言わないよ」

「いや、でも、情けないだろ。高校生にもなって」

「高校生だからとか関係ないよ。カイトくんが寂しいって思ってたんでしょ? それなら、寂しいって言っていいんだよ。カイトくんはもっと自分が思ったことを言っていいんだよ。したいと思ったことを、言ってもいいんだよ」

「桜間さん……」


 自分が思ったことを自分で否定する辛さはくるるがよく知っている。

 自分が思ったことが通じなくて何度も言葉を引っ込めてきたくるるが、よく知っている。


「だって私は、カイトくんのおかげでそう思えるようになったんだよ?」


 くるるの言葉に解人がハッとする。


「カイトくんが私の言ってることを理解してくれるから、受け止めてくれるから。だから私は自分が思うことを否定しなくてもいいんだって思えるようになったんだもん」


 今年度の初めのことをくるるは思い出す。

『くるる語』で話してしまって周りに理解されなかった自己紹介を。

 解人が助けてくれて、クラスメイト達に受け入れてもらえたことを。


「もしカイトくんが思ったことを言うのが怖いなら、私がカイトくんの言葉を受け止めるよ。私もそうしてもらったように。私の前では、思ったことを言って欲しい」

「桜間さん……」

「……ごめん、急に泣いたりして……」

「いや、うん、こちらこそ、なんていうか──」


 解人はもごもごと言葉を探す。


「──前も言ったと思うけど、自分が思ってることを言うのがすごくニガテだからさ。そう言ってもらえて、少しだけ気が楽になったよ」

「ほんとに?」

「本当に」

「まだ、情けない?」

「正直に言うと、さすがにちょっぴり情けないかも。その……同い年の女の子に子供みたいに甘えたことが、だけど」

「ふふ……正直な感想ならよろしいっ」


 くるるはすっかり鼻声だった。

 解人がくるるが握りこんだ手をゆっくりと開き、しわくちゃになった紙ナプキンを広げて渡す。

 くるるは受け取ると、涙を拭きながら照れくさそうに笑う。


「はー、それにしてもびっくりしたあ。昨日のことって言うから、私、焦っちゃったよ」

「ええ? そんなに?」

「だってほら、てっきりキス未遂のことかと思ったでしょ?」


 解人が固まる。


「……キス未遂?」

「あ」

「……桜間さん?」


 解人からどうにか逃げおおせたくるるは、本当に引け引け作戦とはなんだったのかと自分の迂闊さを責める。

 くるるはその日もなかなか寝付けなかった。

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