第5話

 放課後、続々とクラスメイト達が教室を出て行く様子を、玲奈は頬杖をついて身守っていた。何人かの男女が彼女に自分の部活動に入らないかと勧誘したが、「ごめんなさい。部活はたぶんやらないわ」といってやんわりと断っていた。俺と他のクラスメイトへの態度に天地の差があるように感じるのは気のせいか? たぶん気のせいではないだろう。

 玲奈と昼休みに約束を交わしたが、彼女から話しかけてくる気配がない。頼まれた側なので相手がアクションを起こすのを待っているつもりだったが、クラスの人数が半分程度に減ったあたりで俺は席を立ち、玲奈の机の前に立ってぼんやりと頬杖をついている彼女を見下ろした。


「昼に話したことを覚えてるか? 忘れてるならすぐそういってくれ。俺もこのあとバイトがあるんだ。速攻で帰らせてもらう」

「あー、忘れてないわよ。考え事をしてて、ちょっとぼーっとしちゃってたわ」

「他に大事なことがあるならそっちを優先してくれていいぞ。いまいったように俺はこれからバイトだ。時間に余裕はあるけど、暇ってほどじゃない」

「いえ、もう大丈夫よ。そのちょっとした時間を拝借するわ」


 玲奈は頬から手を離して椅子を立ち、脇に置いていた鞄を机の上に移動させた。


「――あの、少しいいですか?」


 不意に、視界の外から声をかけられた。

 振り返らずとも声の主の顔が浮かぶ、聞き慣れた声色だった。

 鞄の中身を整理していた玲奈と、彼女の手元に視線を落としていた俺は同時に声の聞こえた方角に振り向く。

 藤堂樹理が、自信のない弱々しい顔つきで俺達のほうを眺めていた。


「樹理? 部活にいったんじゃなかったの? さっき教室を出て行くのを見た気がするけど」

「その……一回行こうとしたんだけど、玄関から戻ってきたの」

「忘れ物?」

「そういうわけじゃないの。その、どうしても気になることがあって……隆志くん、今日もバイトなの?」

「そうだけど……それが気になること?」

「ううん、そうじゃなくて……これからまっすぐ家に帰るんだよね?」

「まあ、寄り道してたら遅刻するからそのまま帰るつもりだけど」

「……枢木さんと一緒に?」


 俺に顔を向けたまま、樹理は控えめに顎を引いて視線だけを玲奈に注いだ。

 教室に急遽戻ってきた樹理には、玲奈も注目していた。当然彼女の注意が自分に向けられていることにも気づいたらしく、玲奈は腕を組んで大袈裟なため息を返した。


「樹理ちゃん、あんた、昨日のあたしの挨拶を聞いてなかったのかしら?」

「メインヒロインが嫌い、っていってたやつですか?」

「そう。そうよそれよ。ちゃんと聴いてくれてたようで嬉しいわ。でもそれなら、あたしが唐突にため息をした理由に想像がつかないかしら? 自分のやったことを振り返ってみなさい」


 遠慮のない口調に気圧されたのか、樹理は荷物を置くこともしないまま俯いてしまった。

 暗い影を顔に落として、垂れた長髪の隙間から彼女はいった。


「……隆志くんとふたりきりでいるところを邪魔したから、枢木さんは怒ってるんですね」

「は、はぁ!? あ、あんたなにわけわかんないこといってんのよ! そ、そんなんじゃないわよっ!

 ……とでもいうと思った? 悪いけど、あたしはあんたが考えてるようなテンプレヒロインじゃないわよ。あんたと違ってね」

「テンプレヒロイン? テンプレヒロインってなんですか?」

「空想の物語でメインヒロインを張りがちな女子のことよ! もう少し詳しくいうと、黒髪で長髪で顔が整ってて、胸が大きくて痩せてて脚が綺麗で、性格は優しくて真面目だけど、どこか気の抜けている部分があったりして、主人公の男子とは幼馴染で好意を抱いてるけど、事情があって告白はできずにいる女子のことよ! ――なによこれ! まんまあんたのことじゃないのッ!」


 早口で捲し立てていた玲奈が逆ギレして、樹理の眉間に右手の人差し指を突きつけた。

 勝手に興奮して勝手にキレはじめて、樹理もさぞ迷惑だと感じているはずだ。そもそも彼女はこれから部活があるのだ。玲奈のわけのわからん話に付きあわせて遅刻させるわけにはいかない。

 樹理を無駄な時間から解放するため、俺は女子ふたりの会話に割って入ろうとした。

 だが、玲奈に責められている樹理の表情を見て、俺の身体は一息に強張って動かなくなった。

 樹理の顔は、陳腐な表現だが熟れた赤い林檎のような色に染まっていた。


「そ、そんな……っ! 私、隆志くんとは幼馴染ですけど、それだけですっ!」

「あら、誰が隆志の名前を出したかしら? あたしは『主人公』としかいってないはずよ? でも、いいんじゃないかしら。あんたにとっての主人公は、隆志以外にありえないってことよね」

「卑怯ですよ枢木さんっ! 私にこんな恥ずかしいことをいわせるような質問をしてっ!」

「どう答えるかはあんたの自由でしょ? あんたが勝手に勘違いしたんじゃない。というか、そもそも勘違いなの? 樹理ちゃんにとっての主人公は隆志じゃ駄目なわけ?」


 よくも隣に本人がいる状況で、こんなにも尖った話題を続けられるものだ。

 樹理が恥ずかしがっているのは明白だが、玲奈は口元を歪めて至極楽しそうにしている。見るからに性格の悪そうな笑顔だった。


「ふふふっ、どうどう? ほぼ初対面のくせに、こんなに他人の恋愛事情に首を突っ込んでくる転校生って珍しいでしょ? 転校生といったらミステリアスだものね~。なんか特殊な職業についてたり、どっかのお嬢様だったりするのが王道じゃない。で、そういう奴らって人と関わりたがらないわけよ。だからあたしは図々しいくらい攻めてこうって決めたの。あたしは特殊な属性を持ってメインヒロインになるくらいなら、周りの恋愛事情に興味津々なモブJKになりたいと願ってたからね。世にある作品のヒロイン達は大抵周りの恋愛事情に無関心だもの。これであたしは王道の転校生キャラから脱却できるわけよ。樹理ちゃんもそう思うでしょ?」

「お、思うってなんの話ですか?」

「あたしがメインヒロインっぽくないってことよ。転校生としてやってきた少女は、実は同じクラスのある男子の元同級生だった! ……なーんて、使い古されたメインヒロインみたいに思われるのは癪なのよ」

「は、はあ。だけど枢木さんかわいいし、メインヒロインにぴったりだと思うけど……」

「ちがーうッ!」


 そういって玲奈が両手で机を叩いた音は、教室中に響いた。室内に残っていた数人のクラスメイトが俺達のほうに奇異な視線を送ってきたので、眼光とジェスチャーで俺は彼らの興味を宥めた。

 驚いて身を引いた樹理に、玲奈は食いかかるような勢いで畳み掛ける。


「あんたあたしの話聞いてなかったわけ? ああ、いいわいいわ。絵に描いたようなメインヒロインのあんたは当たり前のように天然属性を持ってるわけね。上等上等。おかしな話よね。天然属性なんてマイナス要素でしかないはずなのに、なぜか異性からは受けがいいわけ。狙ってやってるなら大したものだけど、そうじゃないのが恐ろしいとこよね。こればっかりは天性のものと考えていいのかしら。あたしにはないものだわ。そう。だからあたしはメインヒロインにはなれない。もともとなるつもりもないんだけど、〝ならない〟と〝なれない〟は違う。あんたを見てると、いずれにしてもあたしは〝なれない〟側だったんだって痛感させられるわ。

 でも、いいわ。あたしはメインヒロインにはならない。メインヒロインになるために最も重要な条件は、転校する前に捨ててきたの」

「重要な、条件……?」

「そう。あんた、好きな人がいるんでしょ?」

「えっ!? い、いや、そんな、いきなり、こんなところで……っ!」


 あからさますぎる動揺をみせて、樹理はちらちらと俺を見る。頬を赤らめる彼女の姿に恥ずかしくなって、俺は彼女から視線を逸らさずにはいられなかった。


「……はぁ。いいたいことがあるけど、面倒だからいいわ。じゃあ、仮にあんたに好きな人がいるとして、それが物語にとってどれだけ重要かわかるかしら?」

「あたしのことが、お話と関係あるの……?」

「当然よ。あんた、好きな人はいても、その人は彼氏じゃないんでしょ?」

「え……えと…………はい……」


 視界の端に、申し訳なさそうに顔を俯ける樹理が映った。


「それだから、あんたはメインヒロインなのよ。よくある学校を舞台にした物語を思い浮かべてみなさい。メインヒロインに最初から恋人のいる作品がどれほどあるかしら? あたしも世の作品を全部知ってるわけじゃなくて、むしろほんの一部分しか知らないけど、その条件に当てはまる作品が少なくて、非王道のストーリーだってことは想像できるわ。つまり、物語のヒロインには恋人がいてはいけないの。

 そういった点も含めて、樹理、あんたは最高のメインヒロインといっていいわ。脇役に過ぎないあたしが嫉妬するほどにね」

「……枢木さんには、好きな人がいないんですか?」

「あたしは東京に彼氏がいるの。だからあたしは物語の主役にはなれない。樹理ちゃんと違ってね」


 弱々しかった樹理の瞳が、元の色を取り戻した。玲奈の発言に嘘がないことを確かめるように、樹理はまっすぐに彼女の顔を見つめる。

 このあと、どういう展開になるのだろう。

 胸は高鳴る。男らしく、ここは俺からいったほうが良いのだろうか。きっとそうだろう。いまこそ決断の時。時は満ちたのだ。

 樹理に注目すると、彼女は俺に目を合わせてくれたが、すぐに横に逸らされた。しかし俺は耐える。過去の偉人には耐えて成功してきた者が多いのだ。つまり耐えることは正しい。英雄に学び、俺は彼女が再び目を合わせてくるのを待った。

 そして、樹理の瞳がゆっくりと俺のほうに戻った。


「――あ、樹理ちゃん部活はいいの? もうあれから一〇分くらい経ってるわよ?」

「えっ――! ああっ! 完全に遅刻かもっ! 私行かなくちゃっ!」

「部活がんばってね」

「うん。ありがとう、枢木さん。部活に入りたくなったらバドミントン部も見にきてね」

「もちろん、そうさせてもらうわ」


 樹理は慌てた足取りで教室を出て行こうとした。よほど先輩が怖いのか。まだ一年であるため、遅刻によって印象が悪くなるのを恐れているのかもしれない。

 俺は一歩を踏み出すチャンスが潰れて意気消沈していたが、彼女と変わらない関係で過ごせることに安堵する気持ちもあった。どちらが本音かはさておいて、なにか彼女に声をかけなければと思い、口を開いた。


「樹理、あとでメールするよ」

「あ、うんっ!」


 そうして伝えたのは、問題の先送りだ。明朗な笑顔で応えてくれただけに、なんとも名状しがたい感情が胸の奥底から湧きあがってきた。

 隣にいた玲奈が、ニヤけた顔を浮かべて俺の横腹を肘でつついた。


「やるじゃない。今夜メールで告白するつもり?」

「メールで告白するのは、お前的にはアリなのかよ」

「アリよ。ドラマチックじゃないもの。それで物語が終幕しちゃうのは寂しいけど、非王道を求める以上はしかたないわ」

「まさか、割り込んで樹理を部活に行かせたのは、ドラマチックな告白を防ぐためだったんじゃないよな?」

「そんなつもりは毛頭なかったわ。というか、あんたさっき告白しようとしてたの? だったら教えてくれても良かったのに。一対一の状況下での告白が王道だから、周りに他人がいる状況での告白はあたし的にもオーケーだったのに」

「うるさいな。お前が邪魔しなければ、告白できてたかもしれないんだぞ」

「でも、あたしがいなかったらこんなチャンスは巡ってこなかったし、あんたがその気になることもなかったはずよね」


 口の減らない女だな、といおうと思って止めた。こいつには口論で勝てる自信がなかったのと、彼女の主張にも一理あると思ってしまったからだ。

 声には出さず深呼吸して、俺は玲奈を見た。


「お前といれば、今日みたいなチャンスがこれからも巡ってくるのか?」

「もちろんよ。あたしは人々が無意識につくってしまう王道の状況を拒絶する。だからあたしがつくる状況は意識的なもので、そこで抱く感情は雰囲気に流されたものじゃなく、自分の内側にある本物の気持ちなの。あたしのサポートを受ければ、間違いないわ」

「随分な自信家になったな。俺の記憶にある枢木玲奈は、そんな目立つ奴じゃなかったのに」

「東京で中学時代を過ごした経験は伊達じゃないってわけ。十四歳前後は多感で性格が変わる時期っていわれてるもの。小学校時代のあたしと同じだと思ってもらっちゃあ困るわ」

「俺は玲奈と違って、小学校の頃から変われてる自覚はないけどな」

「昔からテンプレ主人公だったってわけね。それなのに未だに誰ともくっついてない点は、王道なのか非王道なのか意見が綺麗に分かれそうなところね」


 相変わらず玲奈は人を物語の登場人物に置き換えて妄想している。四六時中、王道だとか非王道だとか、主人公だとかメインヒロインだとかを考えているのだとしたら、これはもう病気というより他にない。思春期に陥るという明確な治療法のない病だ。

 こんな変わり者にも彼氏がいるのだから、やはり現代は恋愛の難易度が著しく低いのだと実感する。まあ玲奈は容姿に関しては平均以上あるため、美貌だけで選ばれたのかもしれない。もっとも、そんな男を玲奈が彼氏に選ぶとは想像もできないが。

 この変人の彼氏が務まるとは、いったいどんな男なのだろう。多いに興味があるが、玲奈とはまともに話すようになってまだ二日。踏み込んだ質問をする気にはなれなかった。


「ねぇ隆志。あんたはたぶん、これまで王道の人生を歩んできたわ。でも、それだとあんたの思い通りの人生にはならなかったのよね」

「王道かどうかは知らないけど、これまでの人生が求めていたものじゃなかったのは確かかもな。俺は作られたような環境じゃなくて、本物がほしい。そのためには、お前のいう『王道』のような、どこにでもありがちなドラマじゃ満足できないのかもしれんな」

「変わってるわね、あんた。散々王道のテンプレ主人公だなんていったけど、あたしの勘違いだったかもしれないわ。国の施行した恋愛活動支援制度がうまくはまったように、みんな深く考えずに誰かの主人公、誰かのメインヒロインになれることを求めてた。だから王道は王道として成立して、それを嫌う人はいないはずなの。なのに、あんたは王道を拒絶してる。その一点だけで、充分に非王道の主人公を名乗る資格があるわ」

「王道とか非王道とか、悪いけどそんなのはどうでもいい。俺はただ、周りに流されたくはないってだけだ」

「かっこいいわね。そのへんは、まさに王道って感じだわ」

「茶化すな。真面目に答えてやってるのに」

「ふふふ、そうね。あんたは真面目だものね」


 くすくすと笑って、彼女はゆっくりと教室の出口に向かい歩き出した。


「なんだ、帰るのか?」


 なんとなく、状況的に一緒に帰る流れだと思っていた。帰り道でも、彼女が胸に抱く様々な価値観を聞かされるのだと想像していた。

 玲奈は足を止めて振り返った。俺に見せた表情は、変わらずにまだ緩んでいた。


「ええ。今日はおとなしく帰るわ。あんたも帰っておきなさい。バイトだってあるんでしょ?」

「あ、ああ。そりゃあ、帰るには帰るが」

「今日という日を噛み締めておきなさい。王道としてのあんたの人生は今日で終わり。あたしが、あんたが欲しがっているものをプレゼントしてあげる」


 そういって、口角に笑みを残したまま彼女はいった。


「明日から、あんたは非王道ストーリーの主人公よっ!」


 決め台詞のようにビシッと言い放たれたが、俺はまだ、玲奈の脳内に広がる大宇宙を欠片も理解できている気がしない。

 当惑で動けずにいる俺を教室に残して、枢木玲奈は軽やかなスキップで放課後の教室から出ていった。

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