第6話

 午前七時三〇分、中学時代から愛用の自転車に乗って本日の登校が幕を開ける。九月に入ったが世界の熱は未だ冷めず、エアコンの効いた楽園から外に出れば、五分後にはじんわりとした汗が制服の下で湧き始めた。

 今日はもう学校なんて行かなくてもいいんじゃないか。家に戻ればエアコンがある。少し遅い夏風邪とでもいって休みを取得してもバレないはずだ。

 頭のなかでは文句を垂れ流しながらも、両足は自転車のペダルを漕ぎ続けていた。きっと自分は将来、会社の忠実な犬になるだろうと想像する。それが大人になるということかもしれない。暑さにやられた思考は、普段は考えないような未来について脳内で反芻していた。

 真面目な問題に向き合っているが、実のところ殆ど頭の働いていない俺の視界に、思わぬ人物の後ろ姿が映った。脳内にあった小難しい話題は跡形もなく霧散して、代わりに目の前にいる人物のことで思考は満たされる。

 自転車を漕ぐスピードを上げて、前方の自転車の横に並んだ。自転車に跨っていた俺と同じ二川高校の制服を着た黒髪長髪の女子が、ちらりと横に目を向ける。丸い瞳に汗ばんだ俺の姿を映した彼女は一瞬だけ驚いた顔を作ったが、直後に苦々しい微妙な笑みを浮かべた。


「あ、隆志くん。おはよう。そっか。いつもこの時間に登校してるんだ」

「そういえば教えてなかったっけ。てか、今日は朝練ないの? この時間に樹理と会うとは思わなかった」

「あははは……それが、寝坊しちゃって。同じ部活の友達に『今日は朝練休む』って伝えてほしいってお願いしたから、私が来なくて大混乱! って感じにはなってないと思うけど」

「樹理でも寝坊とかするんだな。昔から勉強の成績も運動神経も優秀で完璧な奴だと思ってたけど、なんだかんだいっても人の子だったってわけか」

「そんな立派な人じゃないよ、私は。でも、いちおう私の名誉のためにいっとくけど、寝坊したのは今日が初めてなんだから。私を不良だと思わないでね?」

「そんなふうに思ったりしないって。昔から見てるんだから」

「昔……そうだよね。私達、昔からずっと近くに住んで、同じ学校に通ってきたもんね。……そっか。隆志くんは、私のことわかってくれてるんだ」


 肌にまとわりつく汗は、自転車を漕ぐ運動量と相まって先ほどよりも勢力を増していた。同じ気温を体感している樹理の頬も火照っている。いつまでこんな暑さが続くのかと辟易した。

 会話が途切れて、不意に沈黙が訪れる。自転車のペダルの回転する音だけが互いの耳に入る情報の全てだ。ペダルの音は二台分。俺と、彼女の分。不自然な空白は無理に埋めようとすると取り返しがつかなくなりそうで、俺は慎重に話題を探した。

 まっさきに浮かんだのは、二日前に転校してきた嵐のような女子に関する話だ。しかしこれは樹理に喋るべきでないと即断した。純真無垢な樹理にとって、あの変人はストレスでしかないはずだ。昨日は会話させてしまったが、樹理に悪影響がでないよう、ふたりが交わるのは俺が防がなければならない。


「――ハーイ、そこの美少女とイケてない男子~!」


 背後にいた原付に乗った人物が、樹理と並走する俺のさらに隣に並んで、急に声をかけてきた。

 この恋愛脳に支配されたご時勢に、「朝から熱くしてんじゃねぇよッ!」なんてイチャモンをつける奴はいない。そもそも俺と樹理は恋人同士ではないのだ。冷やかしをしたいなら相手を間違えている。

 どこの時代遅れのヤンキーだと訝しく思えば、原付に乗っている人物は我が高の制服を身につけていた。それも女子用だ。原付ではどうあっても暴れるスカートを抑えられないが、運転手は体操着の長ズボンをはいて対策していた。

 まだ運転手の顔は見ていなかったが、ご尊顔を拝む前からそいつの正体には勘付いていた。そして、恐らくはそいつが最初に語るであろうことも。

 さぁ、答え合わせだ。ペダルを漕ぐ脚を緩めぬまま、俺は隣の原付に跨る女子を見た。


「もしもあんたが『原付での登校って王道から外れてると思わない?』ってあたしに訊かれると予想したんなら、あんたの思考が王道から距離を取り始めた証拠よ。王道主人公なら、『お、お前、原付で登校してるのか……っ!?』なんてふうに確認するもの。あたしの登校手段を自然に受け入れてしまうあたり、早速変化が起きているようね」

「俺はまだ制服で原付を運転するお前を見た感想を語ってないし、質問してもいない。他人が何を訊こうとしていたか勝手に決めつけるな」

「あらそう。じゃああんたはとりあえずいいわ」


 玲奈は原付の速度を落として、いつの間にか俺の隣ではなく少し後ろを走っていた樹理の隣に移動した。

 樹理は原付の持ち主が玲奈だと気づいていなかったらしく、並走された瞬間には青ざめた顔を見せた。しかしそれがクラスメイトの転校生だと気づくと、今度は丸い瞳を大きく見開いた。


「枢木さん……ですよね?」

「そうよ。おはよう、樹理」

「あ、はい。おはようございます。枢木さん、原付で登校しているんですか?」

「二川高校は珍しく原付での登校を許可してるから、夏休みの間に免許取って親にお金借りて買ったの。中古のやっすいやつだけどね。でも、電動自転車を買うくらいならそう変わらないわよ」

「いわれてみると、そうかもしれません。バイクを運転できるなんて、かっこいいですね」

「こんなのバイクと比べたら玩具みたいなものよ。習えば誰だってすぐ運転できるようになるわ。樹理も免許取っちゃう? 冬休みに教習所行っちゃう?」

「い、いえっ! 私はいいです! なんだか怖いし、危ないし……それに、冬休みは部活があるから。私、まずは部活がんばりたいんです。……今日は寝坊して朝練を休んでしまいましたが」

「いつもは朝練で早い時間に登校してるのね。そうよね。部活って大抵は朝練があるものね。あたし朝弱いから、早く起きて朝食とか弁当とか作ってあげられないから、朝練のある部活に入るのはやめておいたほうがよさそうね」


 こいつはどれだけ世の中の物語に毒されているのか。背後の会話に耳を傾けていた俺は、たぶん物凄く呆れた顔をしていたことだろう。

 悪人から姿を隠すように、樹理が自転車の速度をあげて俺の隣に復帰した。

 玲奈もまた俺に並ぶ。

 彼女の口元のニヤけっぷりは、まさに悪人のそれだった。


「うふふ、これでまた王道から逸れたわね。どう? 隆志も原付通学にしてみない? ありがちな学園ドラマで原付通学の主人公なんて滅多にいないわよ?」

「お前がどこを目指そうと自由だが、王道じゃないから、なんて理由で原付を買ったりはしない」

「ふぅん、そう。すごい楽なのに」

「自転車以上の楽さは求めてないんだよ。家もそこまで遠くないしな」

「あたしだって、あんたと同じ小学校に通ってたんだから比較的近いわよ? それに、原付があれば休日は遠出だってできるし、やろうと思えば平日に夜逃げだってできるのよ? 夜逃げってありがちだから、あたしは絶対やらないけど」

「お前ほんとなんで原付買ったんだよ……」


 こいつは芸人気質なんだろう。話を聞いていると、こうやって初見を驚かすためだけに原付を買ったとしか思えない。そりゃあ誰だって、転校生のしかも女子が原付で登校してたら興味を持つ。そうして次に出る質問は「バイク好きなの?」「よく出かけるの?」だ。しかしこいつはその質問にこう答える。「原付通学って王道じゃないでしょ?」と。なんという奇人だ。

 玲奈、それだとあっという間に誰も近寄らなくなるぞ。近日中にその言葉をかけてやって、自分の生活を見つめ直してもらうべきだと、並走する奇人を眺めて俺は考えていた。


「じゃ、あたし先に行くわね。またあとで」


 別に俺達と一緒に登校したかったわけではないらしく、さっぱりとそれだけいって、玲奈は原付の速度をあげて颯爽と学校方面へ去っていった。

 昨日、一昨日、原付置き場に彼女の愛車があったか思い出そうとしたが、そもそも原付置き場を眺める習慣がなかったため、記憶を検索する作業は中止した。

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