第2話
暖かい光で満たされた店内。呼吸するだけで幸せになるパンの匂い。お客さんがいなくなって静かになった空間。
この最高の組み合わせが朝食後の私を夢の中へと誘おうとしている。
店番中に寝るなんてママにバレたら大変なことになる。まあいいか。バレなきゃいいだけだし。それに今日は2人ともどこか行ってるし。こんな気持ちいい環境で寝ないのは逆に罪だ。
「と言うわけで、おやすみー」
そう言ってカウンターに突っ伏そうとしたとき、視界の端に変なものをとらえた。その異様さは寝る気満々だった私の脳を目覚めさせてしまった。
黒いローブを身にまとった長身の女性がガラスに手をついて中をじっと見ていた。心が苦しくなるような暗い青色の髪に命を感じさせない白い肌。頬は痩せこけていて年齢が分かりにくい。すぐに忘れてしまいたいけど、一瞬しか見ていないのに脳裏から離れない。
どうしよう⁈ 見回りをしている騎士の人を呼ぼうかな? でも、あの人が扉の所にいる限り変な動きは出来ない。それに、もし、もしもお客さんだったら……もう、何でこんな時に限ってお客さんいないの! 誰か助けてよ!
しかし祈った所で誰かが来るわけもなく、互いに微動だにしないまま時間が過ぎる。ずっと目をつぶったまま突っ伏しているのに気配だけでそこにいるのが分かる。
ドサッ!
どれくらい時間が経ったのだろう。店の外で何か物音がした。警戒しながら少しずつ顔を上げる。するとさっきまでガラスに手をついていた女性の姿がない。
「……行ったのかな?」
ゆっくりと椅子から立ち上がり厨房へと向かう。そして調理台の上に置いてあった綿棒を手に取り、慎重に店の外へと向かう。
一歩進むたびにギシギシ床がきしむ。普段はそんなの気にならないのに、今日はその音が大きく聞こえる。それでも着実に足を進め、遂にドアの前にたどり着いた。
ドアノブに手をかけたところで動きを止めゆっくりと深呼吸をする。
……大丈夫、怖くない。きっとあの人はどこかに行ってしまったはず。それにこっちを覗いていたのもパンが美味しそうに見えたからだと思うし。大丈夫……大丈夫だから
必死に自分に言い聞かせ心を落ち着ける。そして覚悟を決めた私は一気にドアを開けた。
すると地面に横たわる人の足が見えた。恐る恐る一歩外に踏み出し全身を確認する。ローブを着た長身の女性。顔は髪の毛で隠れて見えないけど間違いない。さっきの音はこの人が倒れた音か。
「……あ、あの」
勇気を出して声をかけてみる。しかし、一切反応がない。仕方なく手に持っていた綿棒で軽く突いてみる。
「う……」
あ、反応した。とりあえず、生きてるみたい。でも、どうしよう? このまま、店に戻るわけもいかないし。
「……いた」
「え?」
横たわる黒い塊から微かな声が聞こえた。無意識に一歩近づき、少し腰をかがめる。
「……お腹すいた」
今度ははっきり聞こえた。でも、お腹すいたと言われても売り物のパンあげて大丈夫かな? 多分だけどこの人お金持っていなさそうだし。あ、そうだ。あれあげよう。
慌てて店に戻り、カウンターの下から『ネム』と書かれた袋を取り出す。
この袋にはいらなくなったパンの耳が大量に入っている。他のパン屋さんではこれに手を加えて商品にしたり、動物のエサとして売ったりしている。でも、私たちのお店ではおやつとして私とママの胃袋の中に取り込まれる。
持ち出した袋を倒れている女性の顔近くにそっと置く。目を開けているのか分からないけど、袋を置いた途端クンクンとあたりを嗅ぎ始めた。
よく分からないけど、これだったら放置してても大丈夫と思う。
音を立てないようにゆっくり一歩後ろに下がる。それからドアの方へと進む。
「ねえ、これ食べてもいいの?」
店に戻ろうとしたその時、後ろから声をかけられた。振り返るとさっきまで倒れていた女性が体を起こしキラキラした目で私を見ていた。
「あ、はい。いいで――」
「ありがとう!!」
私が言い終わらないうちに女性は礼を言いながら袋を開けた。そしてパンの耳を鷲掴みして次から次へと口に運んでいく。
「ここ最近、何も食べてなくて、#$%&@¥」
「話すのは後でいいですよ。あ、飲み物持ってきますね」
「ふぁいふぉー」
『ありがとう』らしき言葉を受け取って店に戻る。
「いやー、食った食った! お、牛乳じゃん! 気が利くねー。っぷはー! 美味しー!」
私が持ってきた牛乳を美味しそうに飲む女性。ふと下を見るとさっきまでパンの耳が入っていた袋がくしゃくしゃに丸められている。
嘘でしょ⁈ 結構量あったはずなのに……まあ、これで問題が全部解決するならいいか。
「ありがとう。えっと……名前は?」
「あ、私ネムって言います」
「いい名前だね。ところでネム」
私の名前を読んだ瞬間、周囲の空気が変わった。街の音がぴたりと止み、少し冷たい風が頬を撫でる。
「私の名前はカルネド。あ・な・た・の・願・い・を・一・つ・叶・え・て・あ・げ・る・よ・」
長く綺麗な人差し指を立てていたずらっ子の様に笑う。どことなく不気味で、でも引き込まれるような。そんな不思議な彼女から目を離せないでいた。
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