第04回:変化する信楽焼
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■しかし、現在の滋賀県甲賀市信楽町と知多半島の常滑市では、地理的に少し距離があります。伊賀焼の三重県伊賀市は信楽に近く、また雰囲気も似ているので、影響が指摘されます。伊賀を中継して常滑焼が信楽に伝播したのかもしれません。伊賀と甲賀と言えば、共に有力な忍者集団が存在しましたから、文化的に交流もあったと考えると、面白いですね。
■信楽は奈良時代に、聖武天皇が離宮として紫香楽宮を造営した地でもあります。そのため、紫香楽宮の瓦を焼いたことが、信楽焼の発祥という伝承もあります。楽焼の開祖の長次郎が元は瓦職人で、豊臣秀吉の聚楽第建設の時にあまった粘土を使い、千利休の指導の元に、作陶したそうですから、瓦作りから陶器に移行するのは、さほど難しくないのでしょうか。
■室町時代に茶の湯が流行し、利休の
■茶人に愛用された信楽焼ですが、焼締陶として備前焼や丹波焼、常滑焼、越前焼などの同じ系統の陶器が多くあり、茶器としては次第に衰退し、日用雑器の生産が主流になります。しかし明治時代の中頃になると、信楽焼は火鉢の生産で全国に知られるようになります。これには、
■海鼠釉は釉薬を二重に掛けて焼き上げるため、光沢はあるけれど透明ではない、柔らかい感じの表面になります。火鉢は暖房器具ですから、冷たい感じがする透明な釉薬による仕上がりよりも、海鼠釉の柔らかな感じが、いかにも温かな印象を与えたのでしょう。大正から昭和にかけて、全国の火鉢の九割が信楽で生産された時期もありました。
■現在の信楽焼といえば、なんと言っても
■手に持っているのは大福帳と勘違いされますが、これは通い帳です。大福帳は商家が取引の記録を付ける物ですが、通い帳は買い手の側が何時に何を幾ら買ったかを記録して、月末などにまとめて支払う時の覚え書きです。現在でも地方の商店では、信頼の置ける相手には通い帳を渡し、給料日や仕事でまとまった金が入った時に決済する事があります。
■狸の置き物は明治時代に、
■信楽焼の狸が全国的に有名になったのは、昭和二十五年に昭和天皇が信楽に行幸されたのがきっかけです。日の丸の旗を持った狸の置き物を沿道に並べたそうです。その姿に感銘を受けた昭和天皇が、
幼なとき 集めしからに 懐かしも
しがらき焼の 狸をみれば
という和歌を詠み、そのことが新聞で報じられて、一気に有名になりました。
■狸は『タヌキ=他抜き』という語呂合わせで、商売繁盛に繋がると喜ばれ、現在では信楽焼といえば狸の置き物が代名詞となるほどになりました。昭和天皇の和歌は歌碑となり、信楽町の新宮神社の鳥居の横あります。もっとも狸の置き物は昔から日本各地で作られており、萩焼の六代目・三輪喜楽も江戸時代に、ユーモラスな狸の置き物を残しています。
■狸の持つ徳利には、丸に八の字の丸八印が描かれていますが、これは尾張八部を支配していた徳川家の裏家紋であり、狸の置き物は常滑焼が発祥という説もあります。もっとも、陶芸研究家の調査ではそういう事実は確認できないそうですから、常滑焼と信楽焼の伝播や、徳川家康の狸親父という徒名から、常滑発祥説が
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