第03回:萩焼と守破離の心
■『一楽二萩三唐津』と言われるように、萩焼は茶道で高く評価される陶器です。日用雑器も生産しましたが、高く評価されるのは茶碗・茶入・水指などの茶陶です。枇杷釉調と呼ばれる薄橙色や、白萩釉とも呼ばれる、藁灰釉の灰白色の釉肌が特徴。茶道に用いられる陶器ですから、初期の物には派手な造形や彩色は少なく、絵柄もシンプルな物が多いです。
■また、『
■この時の高台は『ベタ底』と呼ばれる中身が詰まった状態。数日間の陰干しの後、中の余分な土を削り(高台削り)、一般的な茶碗などで見られる円筒形の高台にします。萩焼は高台の二〜三箇所を半円形に削ったり、ベタ底に十文字の切れ込みを入れたりします。なぜこのような高台が発達したかといえば、そこには朝鮮の磁器の影響が色濃くあります。
■そもそも萩焼は豊臣秀吉の『文禄の役』の折、毛利輝元が朝鮮人陶工の李勺光と李敬の兄弟を連れ帰り、『関ヶ原の戦い』後の慶長年間(一五九六〜一六一五)に開窯したのが始まりです。李勺光は松本村中ノ倉(現萩市松本)に窯を築き、松本萩と呼ばれます。弟の李敬は大津郡深川村(現長門市深川湯本)に窯を築き、こちらは深川萩と呼ばれます。
■ただし、この伝承は資料によって複数の説に分かれており、相互に矛盾や混乱があります。李勺光は没年も墓所も正確にはわからず、子孫が藩に提出した系図や略歴は、彼らの死後百年以上たってから書かれた物です。それはともかく、萩焼への朝鮮陶器の影響は、開祖が朝鮮人陶工であったという点がまず上げられるでしょう。
■これに加えて、簡素静寂の境地を重んじた『侘茶』が、桃山時代の茶道の主流となったという、時代背景もあります。それまでは、中国の
■この結果、本来は茶道用ではない高麗茶碗を茶会に使用するという初期の段階から、日本人の美意識と用途により合致した茶碗を、朝鮮半島に注文するようになります。さらに進んで、高麗茶碗を日本の陶工がまねて作陶するようになります。陶芸の世界ではこれを『写し』と呼びます。初期の萩焼では、高麗茶碗の写しが盛んにおこなわれました。
■萩焼の割高台は、中国の青銅祭器の代用として使用された李氏朝鮮の磁器の高台を、簡略化してまねた物です。安土桃山から江戸初期は、日本の陶芸が陶磁器の先進地域である中国や朝鮮半島の技術吸収に務めた時代です。磁器に必要な技術や材料がないにも関わらず、白い粘土に白い長石釉かけたりして、磁器の白さを模した陶器が生まれています。
■日本の芸能には、最初は徹底的な模倣から入り、基礎ができたらそこに自分の工夫や個性を加え、最後は独自性を生みだす『
■江戸中期に、松本の御用窯の生産強化のために、
■置物のモチーフは唐獅子や仙人像など、従来からある物ですが、定型にはない躍動感や人間味豊かな表現は、茶陶の萩焼というイメージを超えた芸術性を備えています。明治維新後は御用窯という後ろ盾がなくなり、萩焼は一時衰退しますが、三輪家十代休雪(隠居して休和)が藁灰釉に改良を加え、『休雪白』と呼ばれる暖かみのある純白釉を新たに生みだします。
■この十代休雪が一九七〇年に、弟でもある十一代休雪が一九八三年に、それぞれ重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されます。近年は現代アート的な表現を萩焼で試みる陶芸家や、絵付けや窯変など既存の萩焼のイメージにとらわれない作陶に取り組む陶芸家も、多くいます。伝統を守りながらも革新する、萩焼の伝統は今日でも息づいているのです。
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