三章 互いの執念を誰も知らない。
3-1
ガタン! と大きく衝撃が響く。
空を遮った屋根のした、俺は氷の詰まったプラスチックコップで冷気を感じながら、呆然と頭上を見上げていた。
古めかしいモニターに、紫色の四角が映っていた。スコアボードである枠内には、自分ともうひとりの獲得点数が表示されている。
硬いベンチは背もたれが低い。なのに床は滑りそうなほどピカピカで、ワックスが照明を反射する。傍らにはボブスレーの乗り物を思わせる機械があり、ボウリングの球がガコンと装填された。
ふぅ、とやりきったような笑みで席へもどってくる女性に、俺は呆れ顔を向けた。
「みどりセンセ、上手いですね」
「ふふふ、そうでしょうそうでしょう」
休日の先生は、清潔感のある白い服にジーパンというラフなスタイルだった。俺の素直な賞賛に対する反応は、平日にはみせないあどけなさを感じさせた。
なんだかんだ、先生も若い。こういうところをみせれば、彼氏のひとりくらいすぐにでも出来そうなものだが。教え子である自分を躊躇いなく連れてくるあたり、依然としてそういった影はなさそうだ。
「ここにはよく来るんですか?」
「ええ」
みどり先生は向かいのベンチへ腰をおろし、ジンジャーエールで喉を潤しつつ答える。
クーラーも効いているようで、室内は快適だった。
「嫌なことがあった日、デカい仕事を終わらせたときなど、ちょくちょく来ますよ。幸いなことに、学生が帰り道に利用するボウリング場はべつのところにありますから」
「なるほど。だから二駅遠いこちらに連れてこられたわけですか」
周囲を見渡すと、他のレーンは真剣に高スコアを狙っていそうな男性や大人のカップルくらいしか見当たらない。
鐘之宮市にはふたつのボウリング場がある。俺たちが利用しているここは小さいほうで、ドリンク一杯も学生の財布には高く感じてしまう。聞けば、もう一つの大きいボウリング場はドリンクバー付きのセットなんかがあるとかないとか。なるほどそりゃああっちの方が人気だろう。
まぁ、そういった
「それにしても。いいんですかね、こんなことで。俺は返礼どころか施しを受けているような」
「いいんですよ。たまにはだれかと競ってみたくもなるのです。ボウリングをずっと独りでというのは、些か寂しいですし」
「まあ、そう言うなら……」
もとより、俺は先生に借りがあった。昨年末のクリスマス、どうしても美術室に入る予定があった俺は、夜半に電話をかけ続けた。
それに応えてくれた先生も先生だが、お陰であのときは助かった。木陰のパレットと筆がなければ、あの夜はただ打ちのめされていたことだろう。木陰の命を救ったのは、他でもないみどり先生なのである。
今日のふたりボウリングのきっかけは、そのお返しの意味もあった。美術室をあけてくれたお礼。木陰を救ってくれたお礼。俺の意地を貫き通させてくれたお礼。だがそのどれも話すつもりはない。その点は暗黙の了解のように、どちらも話題には挙げずにいる。
先生は短くため息をついた。日頃の苦労を感じさせる。
それだけに、こうして肩の力を抜けるのならなによりだと思った。
「それにしても、お返しを『なんでもいい』と言われたときは驚きましたが……大人として、これくらいがちょうどよかった、と今は安堵しています。後悔はありませんね」
「知り合いに目撃されれば新たな火種にもなりかねませんが」
「そこはそれ、これはこれ。あとで悩み相談の一環ですと言い訳しておきます」
その言葉に、俺は苦笑してしまった。
「……先生、今日は軽いですね」
「休日ですから」
にこりと微笑む先生が、どうぞと次の手番を促した。
コップを置き、腰をあげる。
紫の球を持ち、慣れないながらも先生のフォームを真似た。腕は振り子を意識して、真っ直ぐ伸ばすイメージだ。
すべりやすい床に、タイミングを見計らい放った球は──ピンを二本だけ残してしまった。
想像の動きをなぞることは、やはり難しい。
こうして一投ごとに、ベンチで休みながら会話を重ね。俺と先生は、かれこれ二十分は楽しんでいた。
「ボウリングは苦手ですか?」
唐突に、そんなことを先生が問いかける。
きょとんとすると、「いえ」と首を横に振られる。
「違いましたね。なにか思い詰めているようでしたので」
「はは、なんなら常に思い悩んでいる気がしますけどね、自分」
「以前はもっと上手に隠せていたのですよ。入学したてのころはとくに不気味でした。何気ない顔で集団に紛れ込んでおきながら、裏で暗躍でもしてそうな雰囲気で」
「今はどうなんです?」
「そうですね……今も怪しいといえば怪しいですが。それとは別に、貴方なりの正義といいますか、決意といいますか、心に決めた在り方というものを感じます。良い意味で、ようやく人間らしくなったな、と」
そうですか、と俺は呟く。
そうですよ、と先生は立ち上がった。
彼女の一投は力加減も絶妙で、すー、と綺麗な直線を描き、そしてピンを一本残らず倒した。綺麗な一投を眺めながら、俺は思案する。
──思い詰めている、か。
原因は明確だ。
河川敷での目覚め以来、由乃と顔を合わせるたび微妙な空気が流れるようになってしまった。
非は自分にある。
それは誰からみても疑いようがなく、けれどどうしようもないのもまた事実だった。
しかしどうしたものか。
目を覚ました瞬間の三人の顔は、一週間経った今でさえ鮮明に思い出せる。ただひとつの疑問を投げかけただけで、彼女らは傷ついた表情をした。
今は、自身の一挙手一投足がナイフと化しているのを、肌で感じていた。
それでも、何もしない選択肢は選べない。ガラスの魔女のために。魔法使いのために。俺は応える必要がある。
できれば確執はなくしておきたいのだが、シスター……は難しそうだ。あれから何度か教会へ赴いた。しかし彼女は「ガラスは渡しません」の一点張りで、取り付く暇もなく追い出されていた。どうやら、ことあるごとに狙っていると勘違いしているらしい。最悪、木陰に協力してもらうしかない。
戻ってきた先生は、物思いに耽る俺に優しく語りかける。まるで、最初からそれが目的だったかのように。
「よければ、相談に乗りますよ」
本当に、生徒思いな教師だ。休日といえど、立場を損なうことなく振る舞う彼女は理想の在り方だと俺は思う。無差別に男子を落とし女子の反感を買う点を除けば。
悩み、といえば相談したいことは山ほどある。いつだって、自分を惑わせるのは魔法使いだ。どんなときだって、自分に道を示すのは魔法使いだ。これまでも、これからも、ガラスの魔女は悩みのタネである。彼女が生きていない今、本音を言えば泣いて縋りたいくらい。
けれど、素直に頼るのはなんだか癪でもあり、自分の使命を怠慢で放棄してしまいそうな怖さがある。
だから。今日も俺は直接的な悩みを隅へ置くことを決めた。
「実は、妹に避けられてまして」
「ほう。妹さんがいたのですね、これまた新たな発見です」
「……続けますよ。詳細は省きますが、俺のとある言動による結果です。たとえば最近は名前すら呼ばなかったのに、突然幼いころと同じ風に名前呼びをしたり、たとえば趣味……のようなものに没頭しすぎるあまり、家族とのコミュニケーションを
ふむふむ、と先生はあごに手を添えた。
難しい表情から、真剣に考えてくれているのが伝わってくる。もはや互いのボウリング対決は止まっていた。
彼女はカウンセラーのように要点を噛み砕き、整理する。
「つまり、さきほど私が述べたように、あなたに起こった些細な変化を家族も感じ取っていて。それが原因で微妙な距離ができてしまっている、ということでよろしいですか?」
「概ねは」
実際はもっと複雑なのだけど、ほとんどその通りである。
過去に刻まれた妹との確執。それは仮染めの平穏をもたらし、命を支えた。数年を経たことで妹は事実を受け入れられるほどまでまだ成長し、今では父親の死を正しく理解している。
……自身を責めていない、ということはないだろうが、少なくとも自殺に走ってしまうほど取り乱したりはしていない。
盛大なウソが築いた今という時間が、たしかに存在する。三上家が三上家として瓦解せずにいられた功績は、間違いなく魔女によるもの。過去の自分の決断と、魔法使いの優しさの賜物である。
だがそれでも、俺の選んだ道が罪であることは確かだ。魔法使いを利用し記憶を捻じ曲げたのだから言い逃れできない。
風鈴に導かれるまま見せられた、魔法使いの過去。白に染め上げられた思い出の空白は、過去に身を浸す覚悟をもたらしてくれた。
その覚悟こそが──先生の言う変化なのだろう。
先生は驚きはすれど、変わらず接してくれる。でも由乃は血のつながった兄妹だ、不可解な現象を通して違和感が浮上すれば、そりゃあ混乱するというもの。
どうにかして、由乃に謝罪がしたかった。
先生はわずかに考えを巡らせたあと、ひとつの提案をした。
「そういうときは、外堀りから埋めるのが鉄則では?」
「外堀り」
「そうです。恋愛でもそういうアプローチをかけることがありますが、要領は同じです。モノで吊るというよりは、第三者の協力を得る」
「得る、と言われても。具体的にどうすればいいんですか」
「デートに行くんです。知り合いを交えて」
「言ってることめちゃくちゃですよ、妹相手に迫れって言うんですか?」
「ちっ、違いますから! お出かけでもして自然と接する時間をつくれって言っているんです! ていうか二人きりじゃないんですからデートが比喩ってことくらい分かるでしょう!? 頭ピンクですか!」
なんだそういうことか。
俺は咳払いをして、提案されたことについて考えてみた。
第三者、第三者……この状況において、妹を刺激せずほどよく間を取り持ってくれそうな第三者……。
「あ」
ふと浮かび上がった面子に、俺はこれだと手を叩いた。
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