2-4

「そうですか。またあの子は、彼を苦しめているのですね」


 静寂そのものである教会。

 最前列の席において、通路側の端に座るのがこだわりだった。口裏を合わせたわけでもないのに、木陰さんは通路を挟んだ反対側に腰を落ち着ける。

 彼がなにかを話したいとき。私がなにかを話したいとき。こうして位置を決めつけ言葉を交わすのが、互いの共通認識となっている。


「いなくなって四日。三上のお母さんはずいぶんと冷静だよ。そう思わないかい、ミノリ?」

「母親という立場のヒトは、血縁に対してとてもさとい。妹さんの記憶を書き換えられていることも、おそらく気づいているのでしょうね」


 ステンドグラスをみあげる。

 昨年に割られた色彩はすでにもとの姿を取り戻し、鮮やかな光柱を差し込ませていた。

 壁と屋根の向こうは夏の騒がしさで覆われている。くぐもったシャワシャワという環境音が入り込むのは、後方の開け放たれた玄関のみだ。時おり入り込む風のお陰か、そこまでの暑苦しさはない。

 私と木陰さんは、避暑地でもある教会のなかで、緩やかな会話を続ける。


「木陰さんは、心配ではないのですか?」

「もちろん心配だとも。僕は彼の親友だからね。心配すぎて気が気でないね」

「そう言いながら、筆はノっていますが?」

「これは別腹。好きな人の絵を描く時間は、とても心地が良いんだ」


 歯の浮くようなセリフに、不覚にもどきりとしてしまった。

 となりをみやる。

 スラスラと、音を立てて鉛筆を走らせる木陰さんがいた。微笑みを携えて、穏やかな目つきを紙面へと落としている。中性的な横顔はしかし、こうして見つめていると「男の子だ」と思い知らされる。佇まいから、一見あどけなさを感じさせるけれど。覗き込めば最後、確立された力強さが私を惹き込む。


「……っ、」


 ふとこちらを一瞥する彼の目が奥底まで見透しているようで、思わず前を向いてしまう。これほどまでに、私は落ちていたようだ。

 彼が夢を諦めて以降、こういう瞬間は多い。それはきっと気のせいなどではなく、彼も私も生き方を吹っ切れた証拠なのだろう。あの冬を越えた今、木陰さんは直接的にものを言う。その変化が嬉しくもあり、恥ずかしくもあり。

 私は顔の火照りを早急に消すため、話題を切り替えた。


「ま、魔女のこと、木陰さんはどう考えているのでしょう?」

「僕? 僕は……そうだなぁ、恐ろしいヒトだ、と思うよ」

「恐ろしい、ですか」


 感想を反復する自分に、彼は小さく笑った。


「わかりきってる返答だって思ったでしょ。でも当然じゃないか。人智の及ばぬ奇跡を扱うんだ、魔女は恐怖の象徴さ」

「それは、確かに。でも木陰さんの仰っている『恐ろしい』は、」

「そう。違う。少なくとも去年の冬までは、僕も彼女に恐怖していたよ。人間が理解できない存在として。ヒトの外面をつけた化け物として。でも今は違う。今は……」


 鉛筆を止め、口を閉ざす彼。横目で伺えば、何とも言えない表情を浮かべていた。

 諦めた夢。手放した過去。

 思い馳せるように、彼は目を細めている。

 ああ、その先は。イヤでも察してしまう。

 ガラスの魔女は、たしかに魔女だ。ことわりを捻じ曲げる絶対の支配者だ。死してなお、ここまでヒトを悩ませる存在だ。

 だがその正体は、とても人間らしい。

 彼女はひとりのヒトとして生きていた。

 神出鬼没。

 自由気まま。

 涼しげな顔で世を俯瞰する佇まいで。達観した思考で物事をとらえていて。そしてなによりもひたむきに生きていた。彼女だけの揺るぎない正義を根幹に据えていた。

 私たちの生きる世界を、窓ガラス一枚隔てたすぐ横を歩いているような存在。

 その生き様は『魔女』を感じさせない。その気になれば世の中を混乱に貶めることもできるし、大胆に欲望を叶えることだってできた彼女だけれど。使う魔法はどれも些細な規模に収まっていた。

 言うなれば。

 彼女の魔法は、たったひとりのためだけに使われていたのだと、今更になって理解する。

 木陰さんも同じ感覚に陥ったのだろうか。さらさらと鉛筆の運びを再開させて、冷静につぶやく。


「きっと、三上だけが正しく魔女を捉えていた」

「そうですね。あるいは、三上さんだけに本当の自分を許していた」


 それが、恐ろしい。

 魔女としてではなく、ヒトとして恐ろしい。

 木陰さんの口にする恐怖とは、あの子の貫く生き方を指していた。

 三上さんのためならばどんなことでもしてしまう危うさを秘めていた。魔女の在るべき姿をひた隠す。身の丈にあった魔法の使い方を選ぶ。さらには──記憶だって、躊躇なく消してしまう。三上さんのために行動を起こし、三上さんのために強欲を押し殺し、三上さんのために世界を飾る。

 今も。際限なく透き通った在り方が、三上さんを呪っている。

 ひとりの友人として、彼女の比類なき生き方には驚かせられてばかりだ。いつかの教会でこぼしてしまった「化け物みたいなヒト」という揶揄やゆの裏には、無意識に感じていた恐怖があったに違いない。

 ……まったく。


「魔女には、何がみえているのでしょうね」


 私のつぶやきは、日陰に消えていく。真夏にぽっかり空いた教会に、むなしく。

 疑問に答えられるのは、魔女本人だけだろう。木陰さんの沈黙は、そんな返答に聞こえた。

 ――三上さん、あなたは気づくでしょうか。

 あの子が隠し持っている、身がすくむほどの執着を。

 見上げたステンドグラス。描かれた白い衣の女性が、運命を見つめている気がした。

 過去を知り、己を知り、魔女を知り──最後にどんな結末を辿るのだろうか。願わくば、ハッピーエンドであってほしい。

 そんなことを考えていると、ふいにプルルル──! という音が響き、私は肩を跳ねさせた。

 通話がかかってくるなんて珍しい。さして知人も多くない。ともすれば、相手の名前は絞られる。

 通知画面をみて、予想が的中していたことを悟った。受話器マークを押し、通話にでる。


『ミノリちゃん、お兄ぃが……!』




◇◇◇




 切羽詰まった声に導かれ、木陰さんと河川敷へ向かった。なるべく最短で着くために、電車を乗り継ぐ。

 こういうとき、地方の移動はとてもわずらわしかった。

 教会を出て見上げた空は晴天。

 地上を焼き付けるような蒼さが車窓の彼方を流れていく。ふたりで並び立ち眺めていると、得も言われぬ不安が膨れあがる。妹さんの悲痛な声が耳の奥で反響していた。

 心の中で、今は亡き魔女へ問いかける。届きもしない、無意味な疑問を。

 ──魔女。ガラスの魔女。あなたは、本当にこうなることを許容したのですか? 「知らなかった」で済ませていい問題ではない。あなたが残した不可思議な現象こそが、彼を、彼の家族を苦しめているのだから。知っていたのならなおさらのこと。あなたともあろう人が、どうしてこんな未来を創り上げた?

 流れゆく景色も、刻一刻と過ぎる時間も、答えてはくれなかった。


 時間にして三十分ほどだっただろうか。

 市民プールの建物と隣接するように通った駅で降車し、言われた場所へと急いだ。

 河川敷は、今日も夏のせせらぎを保っていた。

 土手を下ったさきに河原がみえ、ところどころに生い茂った草や大きめの岩が目につく。きらきらと光を反射する水面は、鬱陶しい気温を和らげる。

 視線をめぐらせて、それらしい場所を探した。

 この河川において、駅からもっともちかい場所だ。そこからほどなくして、くだんの場所はみえるはず。


「あった! あっちだ、橋を渡ろう!」


 発見した木陰さんが指で示して、走り出した。

 そのあとに続き、遠目に映るそこ──対岸の、雑木林で囲まれた土手を目指した。

 息を切らしてやってきた私たちは、探しまわるまえにふたりをみつけた。

 木々で覆われた、自然のトンネル。いや、トンネルと呼ぶには少々隙間が空きすぎだが、日差しを和らげるそこはとても印象的な一帯だった。明るい太陽の眩しさに抗うように浮かぶ、影の船であった。


「――、!」


 倒れ込んだ身体と寄り添う小柄な背中があったのは、そこから下方へ降りた先。灰色の幹と生い茂る雑草の土手を抜けた場所だった。


「三上さん!」


 急いで駆け下りる。

 気づいた妹さんがぐしゃぐしゃの顔で振り向く。抱えられた腕のなかへ視線を落とし、血の気がひいた。

 ぐったりと気を失う、見知った顔がそこにはあった。

 土手から転がり落ちでもしたのだろうか、頬に切り傷をつくり、土埃を服にかぶっている。目立った外傷はないが、姿をくらましていた四日間になにかあったのは明白である。まして、魔女などという不明瞭な存在が関わっているのだ。見た目だけで「無事でよかった」と楽観視できるほど、私たちは無知ではなかった。

 それくらい、ガラスの魔女は影響力がある。


「ミノリちゃん……お願い、助けて……目ぇ、覚さない」


 三上さんの妹が、鼻声で、縋るように見上げる。頬をぼろぼろとこぼれた涙が伝っていた。

 土手下の茂みから引きずり出したような跡が伸びていて、頭は状況を把握する。

 ……私は動けなかった。

 混乱が冷静さを塗りつぶしていく。

 彼がここまでの危険に見舞われることはないのだと、どこかで信頼している自分がいた。魔女といえど、さすがに危害を加えることはないと決めつけている自分がいた。

 しかしこれが、魔女の創りだした現実。


「──なん、で」


 それ以外、言葉にしようがない。やらなければならないことがあるはずなのに、それらが全て宙ぶらりんになってしまう。


 まわりのおとがとおくなる。

 あしもとのかんしょくがうすくなる。


 あの子は、私が思うより『魔女』だったということだろうか。

 一見眠りについているようにしか見えない彼が、どういう状態にあるのかわからない。下手に動かしていいのかもわからない。感知できない魔法が今なお働いていて、ひとつの行動が状況を悪化させないか気が気でならない。私は魔法を知らない。かといって何もしないのもどうなのだろう。ヒトが危機的状況に陥ったときは、数分が命を左右するものだ。もし行動を起こさないという判断が手遅れを生んだらどうしよう。すでに三十分以上が経っている。ここまできたら三十分も一時間も同じと考え、安静にさせておくべきか? いや、しかし。でも。

 わからない。

 わからない。

 わからない、わからない、わからないわからないわからないわからない。


 あの子の真意が、わからない──。


 脳裏によぎる彼女の面影。

 細めた視線、真っ黒な装いと特徴的なとんがり帽子。世を渡り歩く、孤高の存在。

 彼女との思い出はそう多くないが、それでも幾度か言葉を交わした友人だ。

 だというのに、途端にすべてが理解できなくなる。

 いや。ツユほどくらいは理解しているつもりで、その実……彼女の佇まいはいつだって、本性を煙に巻いていた気さえしてくる。


 と、動けずにいる私のよこを、彼が進みでた。


「大丈夫」


 目元を赤くして、妹さんがみつめる。

 木陰さんは横たわる身体の傍らにしゃがみ込み、安心させる。いつも通り、穏やかに。


「呼吸はある。腹に穴を開けられているわけでもない。なら、心配はいらないよ」

「で、でも! 魔法を、かけられてるかもしれなくて、そういうのとか、お兄ぃのやってることとか、魔女さんのこととか、あたし、あたし……全然、知らなくて……!」

「落ち着いて。君の兄はそんなにヤワじゃない。こと魔女に関してはエキスパートと言ってもいい。なんなら免疫力だって兼ね備えた逸材さ」

「お兄ぃぃ……!」

「すこしみせて」


 未だ不安の抜けきらない表情をして、妹さんがぐずぐずと涙を拭う。

 彼女と位置を替わり、木陰さんが三上さんの全身を観察していく。真剣な顔つきで確認しはじめた。

 その場が、緊張の無言に包まれる。固唾かたずを呑んで見守った。

 ……こういうときに限って、人通りはまったくない。頭上は雲一つない一色。まるで私たちのまわりからすべてが消え去って、容赦なき現実が牙を剥いている風に感じられる。そして同時に、悪い想像が迫り上がってくる。

 夏の気温は相変わらずで、だというのに、肝を冷やす数分がすべてを忘れさせた。


「……」


 彼は首筋や額に手を当てたあと、ポケットのなか、パーカーのフードと探っていった。

 そして、右手に移ったところで──ぴたりと動きをとめる。

 固く握り締められた右手。

 目を凝らすと、指の隙間からなにかが覗いていた。日陰になってよくみえないが、木陰さんがその指を一本ずつ摘み、剥がしていく。

 すると。


 ──肌色のなかから、一枚のガラスが現れた。


 開かれた手のひらの上に、緑色の光を乱反射させる破片。ペンダントほど綺麗ではないし、お守りにしても不恰好。それは本当に、そこらの窓を割ってできたようなガラス片。

 しかし、丁寧に穴があけられ、紐も通してある。

 一応は装飾品のていをしていることがみてとれる。

 この色、どこかで──?


「……、そうか」


 木陰さんは神妙な面持ちで、ひとりでに納得する。彼に説明を求めようとしたが、妹さんの声がさえぎった。


「お兄ぃ、助かる?」

「ああ、それは大丈夫だよ。三上はすぐにでも目覚めることができる」

「ほ、ほんと……?」

「うん。ほら、こうやって──」


 微笑むと、木陰さんはガラス片につながれた紐の先を掴んで、そっと持ち上げた。

 三上さんの手から、ガラスが離れる。


 次の瞬間。


「──ッ、は、ッ……はぁっ、はぁっ……!」


 栓が抜けたように呼吸を荒くさせ、三上さんが身体をよじった。

 木陰さんの右手に揺れる欠片がキィィン、と残響を放出し、静まっていく。


「げほっ……! はぁ、っ……!」


 咳こみ、上体を起こそうとして肩を震わせる。動作はとても心配になるものだが、同時にその光景は生きている証拠でもあって。


「お兄ぃ!」

「な、ん……?」


 感極まった妹さんに抱きつかれ、三上さんは呆気にとられている。

 まったく状況を掴めていないようだ。

 そのまま、ただそこにへたり込むふたり。妹は服の汚れをもはや気にもしておらず、対する三上さんはやがて鬱陶しそうな表情を浮かべた。

 その姿をみて、ようやくこちらも胸を撫でおろすことができた。木陰さんも安堵の色が濃くなっていた。

 切羽詰まっていた時間が遠のき、気づくと周囲の音が戻っていた。水のせせらぎと、遠くで鳴くセミの声。

 夏の音が、舞い戻ってきた。






 数分後。


「……そっか」


 首のうしろをさすって、三上さんはそう言った。どこか申し訳なさそうにしているのは、妹さんの泣き顔による結果だろう。

 彼女がここまで取り乱さなければ、三上さんはさらりと感謝だけを述べていた気がする。


「ごめん、由乃よしの。いつもいつも」

「え──」

「本当だよ。みてるこっちがハラハラするね」

「お前がいて助かった……のかな、木陰」

「ボクに感謝してほしいね。でないと、君は今頃熱中症だ」


 指で天を指す木陰さん。見上げた三上さんは「ありがとう」と苦笑いを返した。

 いつもどおりに見えて、どこかが食い違っている。会話は成り立っているのに、欠けてはならないモノが、目の前の彼から抜け落ちている気がした。

 探したところで、違和感の正体は不明だ。

 訝しげな私の視線を彼は受け流し──おそらく意図的──代わりに、キョロキョロと周囲を見渡した。

 未だに混乱している、というわけでもないようだ。

 河原沿いの空気、相変わらず鬱陶しいほどの空模様。そして消え去った余韻。

 彼はひとしきり状況把握に努めたのち──違和感の一端を吐き出した。


「ここに、ガラスはなかったかな」


 毒気のない声が、その場をさらにシン、とさせる。

 妹さんはツララで刺されたみたいな反応をする。私は顔を強ばらせて、バレないように隠す。木陰さんはというと、辛うじてポーカーフェイスを維持していた。

 きっと、彼の疑問に中身なんてないのだろう。

 そう、雑然とした部屋にテレビのリモコンが見当たらなくて、同居人を頼ることとおなじ感覚。片手間に訊ねるのが当たり前なくらい、染み付いた習慣。なんの気なしにこぼしてしまう口癖と相違ない。

 ……こんな場所にガラスなんて、ひとつだけだ。

 ちらり横目で伺えば、木陰さんのポケットからその紐がはみ出ていた。

 こういうとき、彼の勘は鋭い。

 三上さんは最初から気づいていたかのように木陰さんへ目を向けた。


「それ、返してくれ」


 先ほどみせた探す素振りは、こちらを騙すウソだったんじゃないか。そう思わせるほど、真っ直ぐな確信を彼から感じた。

 とてもじゃないが、理解に苦しむ。

 ヒトとして、兄としてそう口にできる時点で腑に落ちない。

 最初から、遠ざけることなど無理だったということか。心の中で「渡すな」と念を送るけれど、木陰さんはあっさりソレを晒してしまう。

 ゆら、と緑色の光が揺れた。

 世界に歪みを刻むがごとく弧を描き、表現のしようがない緊張が走った。

 三上さんの気絶の原因は、明らかに緑色のガラス片だ。

 手に持ったのが誰だろうと、反射的に隠してしまっていただろう。こんな危険な状況になり得るのなら、だれだって。

 それを知ってか知らずか、三上さんは穏やかに言う。ゆっくりと立ち上がって、木陰さんを呼ぶ。


「木陰」

「……」


 言い聞かせるかのような口調。

 もはやそこにいるのは、別人。

 判断を委ねようとでも考えたのか、木陰さんが私たちを一瞥した。妹さんも自分も、何も言えなかった。

 結局。彼らふたりの会話が私たちを置いていく。


「一応訊くけど。本気かい? 三上」

「本気でないとでも? そのガラスの出所はだれよりも知ってるだろ」

「ああ。苦いほど知ってるよ。痛いほどわかってるよ。だからこそでもある。君は魔女の魔法と、泡沫の人形に授けられたクリスマスプレゼントによって死にかけたんだ。理解しているかい?」

「しているさ。した上でお願いしてるんだ」

「もしもミノリが口をひらくとすれば、きっとこう言うね。『あなたは狂っています』」

「耳に痛いな。去年の春にも、俺は言われたよ」

「変わっていないね。いや、本領発揮といったところか」

「当事者だからな」

「全くだ。これは君と魔女の事情でしかない」


 じり、と踵が浮く。湧き上がる悪い予感を無視できない。三上さんの佇まいすべてにショックを受けている妹さんをみて、「それだけはいけない」と鼓舞する。

 それだけは。それだけは止めなければ。

 私が固まった一歩を踏み出す瞬間と、木陰さんがふっと笑ったのは、同時だった。


 ひゅお、と放られるガラスを、私は寸でのところで受け止めた。


「……おっと?」

「……」


 木陰さんの意外そうな声とともに、三上さんの注意がこちらへ傾いた。

 その、怪訝な表情に言ってやる。


「死ぬつもりですか!?」

「……。まさか。おおよその検討はついてる。シスターが思うほど危険じゃない」

「あなたがなによりも魔女を優先し、そのためなら友人だって欺くことを私は知っています! 信用できるものですか!」

「ちょっと深くだけさ。あっても、俺の目が覚めなくなるくらいじゃないかな」


 それのなにが問題?

 大問題だ。この人の頭はそこまで狂ってしまったのか。どうしてそんな至極当然の事実さえ悟れない。

 話すことも、触れることも、軽口を投げられることだってなくなってしまう。それがどれだけ哀しいことか。

 あなたには生きていてほしい。目をひらき、脚で歩き、言葉を話す存在でいてほしい。本当の意味で生きていてほしい。そんなすこやかな生を望んでいる人が、ここには少なくとも三人いるというのに。


「わかっているのですか!? 下手をしたら、永遠に、一度も光をみることなく沈んでいくかもしれないんですよ! 時おり動いて食事をするのとは勝手が違いすぎます!」

「はは、原因不明の植物状態ってか。たしかにそりゃあ笑えない」


 軽い調子で苦笑いする彼が、ひどく不気味にみえた。きっと私だけではなく。木陰さんも、妹さんも同じく。

 彼はもう、ここにはいない。

 魔女とおなじ場所まで行き着いている。底なしの寂しさが去来する。

 嫌でも思い知らされてしまう事実に、私は首を振った。受け入れてしまえるほど、私たちはつよくない。精一杯の虚勢を張って、こうであれと自身に言い聞かせて、私は声を張り上げた。


「とにかく! あなたがなんと言おうとこれは預かります! でないと、また人知れず気絶してしまいます! 今回は運がよかったものの、次に起こったらどうなるか……!」

「はぁ……由乃もなにか言ってやってくれ。シスターがご乱心なんだ」


 名前を呼ぶこと事態が異質であることを、彼は気づいているのだろうか。いや、違う。きっと気づいた上でそうあることを選んでいる。それが怖くて仕方がない。

 妹さんがびくりと肩をゆらし、口をどもらせる。


「え、ぁ、っ……あた、し……は……」


 いけない。

 今のあなたは、いるだけで彼女を傷つけてしまう。


「だ、ダメに決まっているでしょう! 誰がなんと言おうと譲りませんから! 妹さんも、ダメですよねッ!?」


 はっと我にかえりこくこく頷く姿に、やはりと決断を下す。

 私は紐とガラスを一緒くたにして、懐に突っ込んだ。絶対に渡すまいと、三上さんを睨んで。

 すると、あっさり彼は諦めて、土手を上り始めた。


「じゃあ、代わりに炭酸を買ってくれ。腹が減ってるんだ、ついでに何か飯も」


 なんて、生意気なことを言いながら。

 取り残された私たち三人は視線を交わし、すっきりしない空気に包まれていた。

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