2-3

「良いガラスを買えたわね」


 魔法使いはそう言って、ゆったりと歩いていた。

 その左斜めうしろを、歩調を合わせるように三上春間が続く。

 タンスの奥に仕舞い込んでいるパーカーを、このときの自分はまだ身につけていた。ベージュ色の清潔感があり、袖のところで二重三重に折っている。それなりの暑さだろうに、ポケットに手を突っ込んで。交わされる話題の重さを、紛らわすように。

 魔法使いはというと、黒を基調としていた普段とは異なり、白のブラウスにグレーのロングスカートという装いだった。

 しかし魔女帽子は外せないらしい。いつか言っていたように、ムダにでかいツバは日除けになっていた。今日も目深くかぶり、背中で組んだ手には紙袋を引っ掛けている。

 これが麦わら帽子だったなら、より絵になっただろうに。

 なんて思いつつも、やはり俺は、魔法使いのこういうところが好きだったらしい。どうしても感傷に浸ってしまう自分がいた。


「お父様は、どんな人だった?」


 傍観者の俺はゆっくりと、ふたりのあとをついていく。方向としては逆で、俺がさっき歩いてきた道を引き返していた。向こうに、小さく赤い十字架がみえていた。

 ちら、と視線を投げ、魔法使いが三上春間へ問いかける。


「とても、優しい人だったと思う」

「ありきたりな感想ね」

「息子として失格かもな」


 混じる苦笑。

 その心情はよくわかる。俺自身のことだから。まるで代弁者のように、記憶の彼は内心を吐露していく。


「もう葬式から一週間だ。だというのに、実感が湧かない」


 魔法使いは首を傾げて、「実感?」とつぶやいた。


「日常を生きていた人が、ぱったりと姿を消す。物言わぬ骸になる。その現実を、俺は悲しむべきなんだ。なのに、『悲しまなければ』なんて取り繕おうとする俺がいる。母さんにも、どんな顔をしていいのか迷うことが多い」

「……なるほど」


 数秒の無言。

 木々のトンネルは終わりへさしかかった。

 足並みを、さらにゆったりとさせて。魔法使いはさらりと口にする。


「なら、私が死んでも大丈夫じゃない?」


 足音がひとつ、ぴたりと止まる。

 日陰のなか、胸を抉られたかのような表情の三上春間がいた。

 一歩日向へ出たところで振り向いた魔法使いは、「あ」と声をもらした。


「あー……いや。今のナシ。忘れなさい」


 帽子の位置をわざとらしくなおして、申し訳なさそうに撤回する魔法使い。


「……いや」


 そして相変わらず涼しげな顔で歩みを進めたが、しかしふたりの間にはいたたまれない空気が流れた。

 たしか、この日は魔法使いの寿命について知らされてからそう経っていない出来事だ。冗談でも『死』をほのめかされるのは、中々につらい。

 中学二年目の夏となれば、俺はもう周囲との違いに慣れきっていたと言える。

 もとより他人から距離をおいて生きて、仲の深い人間関係だろうとすぐに断ち切ることができるような、薄情なヤツだ。きっと三上春間にとって、魔法使いは唯一、心の奥底から想うことができる相手なのだろう。でなければ、死後もこうして追いかけたりしない。


 無言の数秒に痺れをきらしたのか、魔法使いはおもむろに立ち止まり、帽子を脱いだ。中からいつもの炭酸を取り出したかと思うと、三上春間へ放り投げる。


「開けて。手がふさがってるから」


 なら紙袋の方を預ければいいのに。

 なんて顔をしながらも、受け取った過去の俺はキャップを捻った。

 開封。

 プシュ、と空気が抜ける。

 同時に、シュワシュワと気泡の音が奏でられる。


 魔法使いは自分の失敗を消し去る勢いで、蒼矢サイダーを煽り飲んだ。




 そこは、『鐘之宮中央病院』という名前に反し、市の真ん中からすこしズレた場所に位置していた。

 河川敷からはほどなくしてたどり着く。気晴らしのように交わされる言葉も、数度のやりとりでこと足りる。

 この日は、三上春間と魔法使いのふたりだけで面会に訪れたようだ。

 受付で面会記録票を記入し、目的の病室へとむかう。

 その間、先導するのは俺で、魔法使いはその背後をついていく形となる。病院という場所ではさすがに気が引けたのか、彼女の頭から魔女帽子は消えていた。お陰でいつもより素顔をまじまじ観察できるが、感情を読み取ることは難しい。

 晒された視線も、冷静に病院という場所を観察するのみである。


 『三上 由乃よしの』の名前を確認し、病室へ入る。

 四人部屋。しかし、他のベッドは空いていた。

 右奥の区画だけカーテンで仕切られており、そこが妹の眠るベッドだ。部屋はどこかひんやりとしていて、時間が止まったように錯覚する。スリッパの音が大きくきこえる。

 病室の扉を閉めれば、喧騒は瞬く間に遠ざかった。無地のカーテンのまえまでやってきたことで、いよいよという空気が漂う。

 無機質な部屋のなか、滞在する人数は三。眺めている俺自身でさえ、どうしてか息を潜めてしまう。

 三上春間が魔法使いと目を合わせた。

 「本当にいいのか」と、そう問いかけていた。

 彼女が静かに頷いたことで、彼はゆっくりとカーテンをひく。

 奥に、妹がいた。

 ベッドの上、上体を起こし、ぼんやりと手元の写真をみつめていた。しかし片方の腕はギプスで覆われている。布団で隠されているが、持ち上げられた右脚も同じ様相だ。

 来訪者が現れたことで、ゆっくりとこちらに注意が向く。

 おぼろげだった視点が定まって、こちらの像を捉えた。


「……お兄ちゃん?」


 か細い声が、空気を震わせた。数年越しに音を奏でた楽器みたいだった。

 まるで生きる意味を見失ったかのように、喪失感で溢れた存在。事故にあった傷はもちろん痛々しいが、それ以上に精神的な傷の方が大きい。力なくふたりをみつめる目が、絶望に染まっていた。

 いくら経験済みとはいえ、過去の妹をみるのは辛いものがある。幽霊のごとく眺める俺は、誰にも見られないのをいいことに、顔をしかめてしまう。

 しかし、過去の自分は努めて冷静に応じていた。

 感情を殺した機械みたいだと、俺は思った。


「元気か?」

「……」


 尋ねられ、妹は俯いてしまう。

 これのどこが元気と言えるんだ? そんなことはわかっている。三上春間は戸惑いながら言葉を選んでいる。不器用なやつだ。

 写真には父親が写っていた。

 葬式にも出席できなかったが、妹はだれよりも悲しんでいる。その哀しみが大きいほどに、きっと自責の念も膨れあがる。

 このときの俺は、ひそかに感じていたものだ。

 「治ったときが怖い」と。

 これほどの傷心。退院して、普通の生活に戻れるかどうか。そんなのは二の次だ。それよりも、妹が自殺に走らないかの方が懸念としては大きい。

 もしも脚が自由に動いたのなら。妹は屋上まで登って、柵を乗り越えてしまうかもしれない。もしも腕が自由に動いていたのなら。妹は自らの首を絞め命を絶っていたかもしれない。妹が巻き込まれた事故は、に終わったのだった。

 わるい想像をはじめてしまえば、止まらなくなる。

 無言の時間が過ぎたところで、魔法使いが紙袋を傍に置いた。そして、いつも通りの声の高さで、名前を呼ぶ。


「はじめまして。三上由乃」

「……あなたは?」

「私は魔女。あなたのお兄さんのトモダチ」

「魔女……」

「先に言っておくけど。父親を生き返すとか、都合の良い期待はやめてね。今日来たのはただの見舞いよ」

「そう、ですか」

「……ソレ、いい写真ね?」


 一瞬、うつろな瞳が魔法使いを捉えたものの。すぐさま手元の写真に戻されてしまう。


「……でも、あたしのせいで……死んじゃった」

「あなたのせい?」

「道路のあたしを抱えて、一緒にねられた」


 車に。

 お陰で妹は手脚一本ずつの骨折で済んだが、庇った父親は亡くなってしまった。三上家の欠員の裏にはひとりの勇敢な行動があり、それが妹を死から守ってくれた。

 身代わり。

 犠牲。

 父親の選択は、きっと間違っていなかった。父親のかがみともいえよう。それでも、失われた事実は容赦なく現実を突き付ける。

 妹にとっては、道路で立ち止まってしまったこと自体が罪である。「二人喪うところを一人で済ませた」とはならない。本来誰も死ぬべきではなかったのに、妹は自身が死神を呼び込んだと考えている。

 魔法使いは数度のやりとりだけでソレを読み取り、けれど、「災難だったわね」で済ませた。それから、足下に置いた袋から梱包されたなにかを取り出し、差し出す。


「これ、あげる」


 妹は物体と魔法使いの顔を交互にみて、おそるおそるといった風に、絆創膏の貼られた右手で受け取った。

 膝の上にそれを置いて、梱包を解いていくと──


「……花、瓶?」

「あなたの部屋、花はないのね。だからどんよりしている。別に私はそれでもいいと思うけど」

「……」


 普通は花の方を持ってくるんじゃないのか、と俺は思う。

 ベッド脇の棚には、すでに花を活けるための花瓶が備え付けられているのだから。


「ありがとう、ございます……」

「感謝は不要。これから私、あなたに酷いことをするから」

「え……?」


 妹が、今度こそ魔法使いを見あげた。自分に害を為す存在として、不安げな瞳が立ち姿を映し出す。

 対する三上春間は魔女を横目に、一歩さがった。任せると言わんばかりに。

 ふたりの視線を受けた魔法使いは、屹然きつぜんとした態度をかえず妹を見下ろしていた。

 嗚呼──罪を再び、みせられる。


「私はね。私の使いたいように魔法を使うの。あなたの兄が頼み込んだとかじゃないから、勘違いはしないように」

「ちょっと待って、どういう、」

「あなたはかけられる側。こちらが意見を聞くつもりはないわ」

「やめてよ! 酷いことってなにっ!?」

「私は私の意志で、彼の時間を奪う可能性を排除する」

「ねえってば!」


 そのとき、異変に気づいた。

 妹の抱える花瓶──さっきまで空だったはず──に、みるみる水が溜まりはじめているではないか。

 後方で成り行きを見守る三上春間も、拝むのは二度目である自分も、そして花瓶を抱える妹も、ソレに驚く。

 水はとても透明だ。

 花瓶は過度な装飾もなく、注がれるうねりを鮮明に伝える。満たされた底の部分からはガラスと水の区別がつかない。重みを増すごとに、妹が支える花瓶は水そのもののように存在感を変えていった。


「なに、これ、なにしようとしてるのっ!?」

「……」


 魔法使いはただ立っているのみ。わずかに覗かせた憂いの感情に反し、細めた視線は無慈悲に妹と花瓶を見つめている。数秒が花瓶の冷たさを高めていく。ベッドを中心に、病室に風が吹く。

 カーテンが揺れた。

 妹の前髪が流れた。

 魔法使いのスカートがなびいた。

 魔法使いは俺たち以外のだれにも異変を悟らせず、無慈悲な佇まいを維持した。人々が想像する魔女がいたとしたら、きっとこういう横顔をする。

 秒針がひとつ刻まれるごと、ガラスは透明さを深め、世界がざわめく。

 そして非現実的な現象はより苛烈になっていき、


「待っ……! ぅ、これ……ッ、」


 水が器を三分の二ほど埋めたところで、妹が苦悶の声をあげた。嗚咽まじりの声に、傍観者たる自分は表情を固くしている。

 妹は花瓶の水面を覗き込むように顔を俯かせて、息を荒くしている。苦しげな声が病室に響く。肩を揺らして、背中を丸めて、縋るように魔法使いを見上げて、表情で「やめて」と叫んだ。小さい身体から大事なモノが抜け落ち、器に流れ込んでいるみたいだった。

 二度目の俺にはわかる。きっと、その感覚は正しかったのだと。

 俺は動かない三上春間へと目を向けた。

 覚悟の表れか、大層な外面そとづらだ。

 ああ、知っているとも。

 俺は、俺が今すぐにでも止めたい衝動に駆られていることを、知っている。

 もちろん、それを押しとどめる魔法使いへの信頼すらも。


「……ッ、」

「死にはしないわ。私とちがってね」


 その一言を皮切りに。魔法は峠を越えたらしい。

 小さい身体から、ぷつりと糸が切れたように力が抜けた。

 風が和らいでいく。

 呼吸の音が短くなって、次第にかすれていった。

 束の間の騒がしさを急激になりを潜めていき、聞こえなくなるころには、妹は意識を失っていた。

 俯かせた頭を横に倒すみたいに脱力して、同時──


 ビシリ。


 花瓶の悲鳴が耳に届く。

 抱えられたソレは、重量に耐えきれず亀裂を走らせた。隙間から流れ出た水が布団に染みていく。

 思ったより少ないのは、魔法による産物だからだろうか。素人の俺たちにはわからない。

 だけど、その現象がひとつの区切りであることは明白だった。


「はぁ──もがくから痛いのよ。バカね」


 目を閉じ、吐息を漏らす魔法使い。そのとなりに、過去の自分が並んだ。

 視線の先には、眠るように気絶する妹が。


「終わったのか」

「……ええ。でもよかったの? これであなたの父は、嫌われ者になるわよ」

「構わないさ。身体を張って守った命だ。死後も守り続けることができるなら、本望だと思う」

「なら、いいけど」


 割れた花瓶を片付けて、新聞紙にくるむ。濡れてしまった掛け布団なども看護師に変えてもらうよう伝えて、俺たちは病室をあとにした。


 場面が切り替わる。




 ふたりはエレベーターで一階まで降りて、出口へ向かっていた。

 この病院は出入り口がいくつかあって、入ってきたのは人通りの少ない方だった。

 玄関近くまでくると、記録票を記入した受付がみえてくる。

 しかし、どちらかというと鐘之宮中学の受付を思い出すほど小さくて、面会者向けの出入り口であると再認識できる。

 病室が並ぶ棟に比べれば細めの幅、手すりの上には名も知らぬ絵画が等間隔で並んでいた。

 反対側の壁には食堂の入り口がみえたが、今日は定休日のようで暗い。

 人通りのない廊下。

 人で溢れる病院のなか、ここまで人の気配から隔絶されることは珍しい。

 いや。これはきっと偶然ではなく。

 そう気付いたところで、唐突に魔法使いが立ち止まった。

 遅れて気づいた過去の自分も、彼女を振り返る。

 それまで会話がなかった時間を取り返す風に、魔法使いは口をひらく。


「……ハルマは、どう思う」


 考えを巡らせていた自分は、その一言に納得した。

 病室での一部始終と、三上家の秘密。その真実は、しっかりと覚えていた。

 であるならば、ここからは俺の知らない記憶なのだ。


「なにを?」

「さっきの魔法」


 帰りは彼の方が紙袋をもっている。そのためか魔法使いの両手は手持ち無沙汰で、いつもより、優しく、弱々しく握り込まれていた。

 魔法使いはまっすぐに見つめていた。些細な反応から見抜こうしている節があった。

 すこし考える素振りをして、三上春間は見つめ返した。視線を合わせ、互いに心を共有しあっているような光景だった。

 幽霊のように眺める俺の、知らない時間が流れる。リノリウムの廊下。束の間のふたりの空間。記憶の隙間時間は、とても静かだ。

 やがて、彼は魔法使いの訊きたいことを理解したようだ。

 ……人は結果を求める。

 良いことか悪いことかはさておき、いち家族の在り方を歪めた事実はたしかに刻まれた。

 そんな現実をねじ曲げる魔法は、怖かっただろうか? 妹を苦しめ冷酷に振る舞う自分は恐ろしかっただろうか?

 彼女の曖昧な問いかけの裏には、そういった不安が見え隠れしていた。


 過去の自分は、なにを答えたのか。

 俺は静かに、彼の返答を待ち、耳を澄ませた。


「綺麗だと、思ったよ」

「お世辞で言ってない?」


 素直に受け取ればいいのに、そうできない。それが魔法使いの気質だった。

 困ったように、彼は苦笑いする。


「本気なんだけどな」


 その毒気のない反応に、魔法使いはすこしム、とした。

 今なら理解できる。

 きっと、妹の記憶を弄ったあの魔法は、魔女として嫌うたぐいだったのだろう。彼女は他人の人生をめちゃくちゃにする魔法は構わず実行する。相手が調子に乗っていれば躊躇なく。相手が突っかかってくればくるほど喜んで。

 だが、どちらかといえば妹は頂点よりどん底に近い。一歩踏み外せば自殺に走ってしまう危うさを秘めていた。

 ゆえに。魔法使いは息巻いて行使したものの、実際やってみると……やはり気分が良い魔法ではないのだ。

 だが、それでもこいつは──三上春間は、綺麗だと言う。それが妙に気に食わない。本当にそうみえるのか不安で仕方ないし、はなはだ疑問。

 なればこそ、彼女はムキになろうというもの。

 魔法使いは距離を縮め、詰め寄った。


「妹をあれだけ苦しめておいて、文句のひとつもないワケ? だとしたら、あなたは相当に薄情な人間か、救いようのないお人好しね」

「ならたぶん後者だ。俺はお人好しだよ。君が思うよりずっとね。……いや、『魔女好し』の方が近いか」

「そんな言葉は存在しない。じゃあなに? 私が『死んで』って言ったら従うの?」


 冗談混じりにそんなことを口走る魔法使い。

 果たして返答は、迷いなくもたらされ──。


「構わないよ」


 時間を、とめた。


「──、」


 ……そうか。

 そんなことまで口走ったのか、俺は。

 恐ろしく軽い承諾に、魔法使いが絶句している。意味の重さと吊り合っているとは言えなかった。

 魔法使いがぎゅ、とさらに手のひらを握り込む。すこしだけ目線をさげて、どこか寂しそうな顔をした。


「どうして、あなたはそうやって……」


 ああ、そうだ。

 お前はそうだった。すでに決めていた。魔法使いのために人生を捧げると心に誓っていた。

 きっと、彼女の近すぎる『死』を知った、そのときから。いや。もしかしたら、夕暮れの教室で出逢ったその瞬間に心のどこかで決めていたかもしれない。

 その真剣な目をみれば嫌でも察する。俺はとうに覚悟を決めている。一度通ったはずの感情とひたむきさが、こちらの『三上春間』にも染み込んでくる。

 じわり、じわり。

 俯瞰すれば、困ったように微笑む自分が立っていた。

 反して、トゲが刺さったみたいに顔を歪める彼女がいた。

 やがて魔法使いは──悩んだ末、とある選択をすくい上げたように、彼の顔を見あげる。

 華奢な指を持ち上げる動作と、一緒に。


「……? 魔法つか、」

「――ッ、」


 彼女を呼ぶ声を遮る。

 ひゅ、と横一文字になぞられる軌跡。さながら紙面を撫でるみたいに、優しく、軽く。


 途端、とさ、と衣擦れがした。


 三上春間の身体が、膝から崩れ落ちる。

 それを抱き止めて、魔法使いが口元を引き結んだ。他人が排除された、現実の隙間時間を、耳が痛くなるほどの無言に支配される。

 風通しのいい廊下のはずが、空気が凝り固まって霧散したような感覚を覚える。小石を飲み込んでしまったような眩暈めまいに襲われる。

 楽譜を切ったみたいな一瞬だった。

 魔法使いの行いに、幽霊がごとく眺める自分は言葉を失い、立ち尽くしていた。数秒経ってから、その光景の意味を悟った。


 ──、りん──


「……ごめんね」


 り、──ちりん──


「……私だって、ッ」


 ちりりん──。


 聴き慣れた彼女の声音。

 透明で涼やか、反して儚さが詰め込まれた声音が、風鈴に流されていく。


 魔法使い。

 そう叫んだ言葉は、音にもならない。ただ虚空から響く囁きにかき消されていく。

 つぶやきの先がどうしようもなく読み取れない。彼女の本心が知りたい。魔法使いを俯かせる自分が怖い。

 魔法使いは秘密が多すぎる。できるなら今すぐにでも問いただしたい。引き寄せて、この孤独な日々の辛さを訴えたい。

 教えてくれよ。

 君は『三上春間』という存在をどう捉え、どう感じていた?

 なぜ、記憶を消した?

 俺のなにが君にそうさせた。

 俺のなにが君を苦しめた。


 なにが。


 なにが。




 なに、が──。

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