2-2

 木陰とシオンが相談に乗ってくれた二日後。

 居間に顔をみせて、家族の姿がないことに気づいた。そういえば、昨夜の妹はシスターに会いに行くと言っていた気がする。となると、祝日の自宅は母親と俺だけになるわけだ。

 しかし、その母親の姿がみえない。買い物バッグは玄関にあるし、外出する旨を書き記したメモも見当たらない。もちろんそれらしいメールも受け取っていない。

 いつもならソファでテレビを眺めているかキッチンにいるか……何の気なしに探してその背中を発見したとき、俺はずきりと胸の奥に痛みを覚えた。


 三上家の居間は、となりの部屋と隣接している。普段は駆動式の壁で仕切られ、さらに棚が境を厚くしているため踏み入る人がいない。

 とある理由で妹は近寄らない。妹にみられないよう、俺も近寄らない。きっと母親でさえも、この一室から距離を置いていた。

 だが、今は妹が不在である。

 であるのならば、俺も母親も、近寄らない理由はなくなったと言えよう。


「ああハル。いたの」


 線香の匂いが鼻をかすめた。

 フローリングが、戸の境から畳に変わっている。

 年月に置いてかれたみたく静まり返り、懐古的な気分に陥る。仏壇のまえで正座をしていた母は、どことなく昔にもどったかのように虚空を見つめ向かい合っていた。が、こちらの気配に気づくとすぐに柔和な顔をする。物寂しさをひた隠しにして、親を演じる。

 俺は言葉にできないやるせなさを覚えつつも、適当な言葉を述べた。


「コンビニでも行ってこようかと思って」

「あらいいじゃん。アイス買ってきてくれない? ジャリジャリくんソーダ味」

「……母さん、青春みたいな味が好きだな」

「あっはは、あんたには負けるけどねぇ」


 チラ、と仏壇の写真を一瞥した。その一瞬を見逃すほど、母は優しくない。普段はこちらの理解を示してくれる親であれば、まず間違いなくこちらの心情を読み取っていることだろう。

 こと息子に関しては揺るぎない親っぷりをみせる。


「気にしてる?」

「すこし、……いや、別に。気にしてないよ」

「あんたは強いねえ」


 そう言って、母はまた父の写真を眺めた。横顔も、丸めた背中も、哀愁を帯びている。


「強くない。父さんには負ける」

「……そうね。ヨシノを守ってくれたんだもの、あんたとは比べ物にならないくらい良いおとこよね」

「……」


 俺は今、どんな表情をしているのだろうか。ああ、鏡をみなくともわかる。罪悪感に苛まれ、顔を歪めて。三年前に自分が望んだ結末だというのに、性懲りも無く引きずって生きる無気力な姿。

 息子の無責任な決断に、時を経て苦しめられる様を母はどう思う?

 「ほら、だから言ったでしょう」と力なく責める母の幻聴。ソレはきっと母の本音だ。父の死を貶めるなどの骨頂。こんな有り様を晒して申し訳なく思う。『死』をウソで塗り固めてしまった自分を消してしまいたい。

 親の追悼の心さえ奪っている気がして、消えたくなる。


「ああするしかなかった」


 落ち着き払った声を絞りだすことができたのは、魔法使いのお陰だった。

 逃げ出したくなる肩を支えられている気がして、でもやっぱり話すのは怖くて。口を突いて出た言葉は、言い訳がましくなってしまう。

 母は幻聴を裏切り、とんでもなく優しい声音が答える。


「あんたはちゃんとしてるわ。さすが父さんの血を引いてる」

「そんなことない」

「いいや。ちゃんとしてる。誇らしいよ、父さんとは全然方向性が違うのに、根本にある意志と手段は似通ってる。パッと消えそうで危なっかしいけど、ちゃんとお兄ちゃんしてる」


 褒められるほど惨めに思えてしまう。歪んだ思考を自覚しながら、俺は話題を変えた。


、もう気づいてたよ」


 ずき、とノドの奥がひり付く。

 何が「お兄ちゃんをしてる」だ。ちゃんと兄をやってるなら、名前を呼ぶだけでこんな罪悪感は感じないはずだ。

 強引に意識の片隅へ追いやって、俺は続ける。


「父さんのこと、もう隠さなくていいんだ。妹は受け入れてる。家族を放って蒸発した薄情な父親だなんて、微塵も思っちゃいない。だから隠れて線香をあげなくていい。きっと真実を話しても、今なら大丈夫だと思う」

「へぇ。親としては……ちょっぴり淋しいけどっ!」


 よいしょ、と年齢を感じさせる呟きをして、母は立ち上がった。そして、しんみりとした空気を取り払うように振り向く。


「お母さんも行こっかな、コンビニ!」




 母の運転で出かけるのは、ずいぶんと久しぶりだ。

 助手席に座るのが常識なのだろうが、俺は幼い頃と同じように後部座席を陣取る。

 緩やかに発進した車は、家を出て目的地へと走った。住宅地を抜け、盛んな通りを行く。そのころには、真夏のサウナと化した車内もいくらか快適な温度へとなっていた。文明の素晴らしさをしばらくぶりに体感した。

 家から十分もかからず、最寄りのコンビニへ入店。母さんは今夜の献立をラクすべく、レトルトのカレーや惣菜をカゴへ放り込んだ。

 シスターが教会へ戻ってからは、三上家の食卓は以前の状態へと戻っている。母は仕事の疲れを背負いながらも俺たち学生を支えてくれている。

 変わったことといえば、怠惰な俺とは対照的に、妹が手伝うようになったくらいか。

 そんな母も、やはりたまには手を抜きたいらしい。値段としては気分でピザを頼むよりは良心的な商品を入れていく。訊いてもないのに「クーラーボックス持ってきてるから」なんて呟いて。


「で、あんたは? なに買うの?」


 あらかた見回った母が俺に尋ねる。

 実のところ、俺の「ちょっとコンビニ行こうかな」は逃げ出すための口実だった。即時に脱出できる予防線みたいなもの。ゆえに、特にほしいものはない。


「強いていえば、ノドが──」

「はい、そう言うと思って」


 しれっと手に持っていたボトルを、母がカゴに追加する。ちゃんとジャリジャリくんのアイスも入っていた。



 特に会話もなく、駐車場を車が出る。

 しかし、ウインカーをあげたのは自宅とは真逆の方向。そのまま帰路とは異なる車線に入ったことで、俺は眉をひそめた。


「……家、反対だけど?」

「そうねー」

「近道があるなんて話は聞いたことがない」

「いいからいいから。ちょっと付き合いなさい」


 それきり、流れるのはまた無言の時間。走行音を耳にしながら、俺はバックミラーを一瞥するが、母の表情は窺えない。しかしハンドルを握る背中がなにかを語りたがっているのは明白だった。


 しばしの移動。思えばクーラーボックスを持参していたのもこのためだったのだろう。

 到着したのは、とある公園の駐車場。小学校と市役所を通り抜け、踏切り手前を右折。通なりに五分ほどの場所だ。

 青々とした葉を纏う木々、日光に熱されたアスファルト。区切られた白線に陣取る車は、三上家の軽自動車含めても二台だけだ。代わりに、隅っこに設けられた駐輪場は自転車で埋められている。サドルの低さから、おそらく小学生の集団が訪れているようだ。

 その風景を目にして、なぜか懐かしい感覚をおぼえた。

 エンジンを切って、母が「クーラーボックスからアイスをだせ」と言う。

 こんなところで説教だろうか、なんて思いながら手渡すと、母は意外なことを口にした。


「散歩、いってきたら?」

「は、」


 ぽかんと、俺はみつめた。


「公園を? なんで、この気温のなかを? 今日も熱波だって、今朝の天気予報が……」


 窓の外をみれば、そこは夏という地獄が広がっている。コンビニでだって、すこし車からでるだけでめまいがする暑さだった。できれば冷房の恩恵下にいたいのが本音である。

 しかし、母は袋をあけながらあっけらかんに答える。


「まぁこういうのも必要でしょ。あ、別に怒ってるだとか、反省してきなさいって言ってるわけじゃないわよ?」

「じゃあなおさら理由を教えてほしい。なぜこの公園なんだよ? 散歩できるほど広くないし」

「なぜって……忘れたの? 昔、一度あったじゃない。『散歩に行きたい』なんていうあんたを、あの日もお母さんが送ったっけね」


 しゃり、とアイスを口に含んで、母はそう言う。俺が散歩して戻ってくるあいだ、ここで涼んでいるつもりらしい。

 しかしそんなことはどうでもよく、俺は母さんの言葉に眉をひそめていた。

 ――初めてじゃない?


「それにね。べつに公園を散歩しろだなんて言ってないよお母さん。あんたが行くのはあっち」


 母の指が、公園の向こう側を指す。

 それを目で追い、俺はぽつんと佇む看板に目を奪われた。


「ほら。さっき買ってあげた炭酸持っていきな。好きなんでしょ?」

「え……あ、ああ……うん」


 母親には、色々と見透かされている。

 もしかしたら蒼矢サイダーが好きなのは俺でないことすらも、母親は気づいていそうだった。




 セミの声がけたたましい。

 夏の音が激しい。

 この場所は夏という季節がこれでもかと凝縮されていて、だれかに急かされている風に感じてしまう。あるいは、自身の焦燥が浮き足立てているような。

 そんな辟易してしまうほどの地獄日和だが、胸中は別のなにかで埋め尽くされていた。無意識の欲求に反し、三上春間という人間は何度も何度も、その文字を視線でなぞってしまう。

 茹であげるような地面に、足をつけたまま。

 『葉鈴はすず河川敷』

 淡く掠れた字体で、そう書かれている。ガラスの魔女に消されず残された記憶。そいつが未だに燻っている。俺はこの場所を覚えていた。まさかこの河川敷に駐車場があったなんて。いや、忘れているだけか?

 背後の車から手をふる母親を一瞥して、俺は数段しかない階段に足をかけた。わずかな斜面をのぼりきると、さっきよりも照りつける日光が濃くなった気がする。開けた視界の眩しさに目を細め、その原因が視界の先を流れる水であると気づいた。


「──、」


 向こう岸まで数十メートルはありそうな川。

 けれど深くはない。駐輪場に停められていた自転車たちの主だろう、小学生の集団が、岸の近くで水鉄砲をかけあっていた。笑い声と、水を弾ませる音。そのたびに光が透明に反射され、チカチカと輝きを生む。

 懐かしい。

 やはり、俺はここを訪れたことがある。

 何の気なしに、俺は歩き出した。土手の下で遊ぶ集団から目線を移動して、設けられた散歩道をゆっくりと踏み出す。

 どこかふわふわとした、安心感にも似た、不思議な感覚に包まれて。

 この熱波ということもあってか、散歩道をつかう人もあまりいない。熱中症を恐れてだろうか。視界にはいるのは、自転車で遠ざかっていく女子高生の背中だけだった。おそらく部活動に励む青春真っ只中の存在だろう。

 うしろへ流れていく騒がしい声。入れ替わるように、今度は河のせせらぎが聞こえてくる。疎外感が過ぎていく。

 額の汗をぬぐい、光の反射を感じる。足取りは緩やかに。

 環境音が心を落ち着けていく。


 しばらく歩くと、並木道へとさしかかった。この河川敷ではそこだけ木々が生い茂っていて、時代に取り残された自然の跡だった。周りは伐採されたか枯れたか……ヒトの手で整えられ、土手となっている。

 雑木林の影が創り出すトンネルの入り口へたどり着く。細く黒い幹が折り重なって、日光を遮っていた。

 入り口で立ち止まったまま、呆然と先を眺めた。

 短い避暑地。ここはとりわけ魔法使いを思い出させる。

 肌に汗とは異なる冷たさが走った気がして、携帯を取り出した。駐車場で待っているであろう母宛に、メールを送る。

 ――『しばらく、戻れないかも』

 送信完了の画面を最後に、俺は携帯をしまった。


「……墓参りみたいなことをやってるな、俺」


 右手の蒼矢サイダーをみやった。

 温度差で水滴のできたそれを握り、キャップへ手を添えた。魔法使いの死後、幾度となく開けてきたペットボトル。相も変わらず、ラベルの中心には金色の輪っかが描かれており、蒼色の矢が貫いたマークとなっている。

 ボトルに刻まれるはひし形の模様。それを水色と無色の不規則なラベルが飾るように色彩づけ、昔ながらの不変な在り方を形づくっている。魔法使いに「ガラスみたいで綺麗」と言わしめるバランスが、この炭酸の良いところだ。

 開封。

 プシュ、と空気が抜ける。

 同時に、シュワシュワと気泡の音が奏でられる。


「……、」


 唐突に、目の奥が熱くなってきた。

 魔法使いの生前にも、俺はここで同じ音を聴かされたのだ。魔女帽子をかぶって、尊大な態度で物事を語り、強引に連れ回して――そんな日々の一片だ。

 こんな情けないところは誰にもみられたくない。俺は自分に「堪えろ、堪えろ」と言い聞かせ、炭酸を煽った。

 葉影に揺れる斜光を睨む。

 ごきゅ、ごきゅ、とノドを鳴らす。

 ダイヤカットが反射して、チカチカと過去を浮かばせていく。

 

 思い出の中の魔女が、「いい飲みっぷりね」と笑った。


「ッ、はあ」


 三分の一ほどを減らして、歩き出す。

 思い出の道。

 かつて斜め先を歩いた魔法使いを思い浮かべながら。つまさきに影法師を想像しながら。

 彼女の『死』という事実に、耐えながら。

 ゆっくり、ゆっくりと、歩いた。


 りん――、と、風が囁く。


 さらり流れる木の葉のさえずり、揺れては誘う翠の天蓋。

 一瞬目が眩み、瞬きをすれば、いつかのふたりが目の前を通り過ぎた。


 ──りん、ちりん──。


 見慣れた面影。頬を撫でる微風。ザア、と刻を告げる木々。


 振り返った途端に、

 みえる世界は姿をかえる。

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