3-2

 鐘之宮市には鐘がある。

 駅前の、待ち合わせ場所のシンボルくらいの存在感ではあるが。機械仕掛けの人形が飛び出す、小さな時計台。一駅離れた途端、耳をすまさなければかき消えてしまうほどの鐘を響かせる、地域住民にとっては日常風景のひとつ。

 その下で、馴染み深い声が張り上げられた。


「呼ばれて飛び出て堂々顕現! 悩める子羊兄妹が二匹、情状酌量じょじょうしゃくりょうの余地アリ! 友人のためならどこでも駆けつける、頭脳明晰キューピッドこそこのわたし、片勿月ィシオンッ!!」

「しおりちゃんは『会えて嬉しい』と言っています」


 世間はまだまだ炎天下、待ち合わせた駅前で出迎えるのは、騒々しさの化身とほんわかとした翻訳者だった。

 シオンはオレンジ色を基調としたワンピースを身に纏い、小ちゃいバッグを揺らしながら元気すぎる声を響かせる。新凪あらなぎさんは白いブラウスにジーンズで、落ち着いた印象。こうして並ぶと出来る姉と落ち着きのない妹にみえなくもない。

 対するこちらはというと、由乃は夏用のパーカーで眩しそうにふたりを眺めた。

 一応、バーベキューを経て顔見知りになったはずの妹だが、やはりげんなりとしてしまっている。うだるような気温のなかで立っていると、いつも以上にキンキンと響く。しかも通行人たちから視線を集めるものだから、他人のフリをして立ち去りたくなる。

 しかし幸か不幸か、一緒に誘った新凪さんのおかげて、俺たちは踏みとどまることができた。


「はじめまして。三上由乃さん、ですよね? 新凪舞といいます」

「あ、はい。お兄ぃがいつもお世話になってます」


 ぺこりと頭を下げあうふたり。ああ、このふたりはとても落ち着いている。耳にも優しい。なんだかんだいって、それなりに気が合うのではなかろうか。


「世話になってンのはこっちの方よ!」


 ……あとは口を挟むやつがいなければスムーズにいくのだが。



 とりあえず場所を移動しよう、という流れとなり、一行はさっそく目的地へ足先を向けた。

 目的地とはいうものの、そう遠くはない。駅前から徒歩数分程度で着けてしまうほど、本日の行き先は近くにあった。

 学生の長期休暇も折り返しを過ぎ、駅周辺の人通りは心なしか同世代が増えた気もする。知り合いにみられませんように、と静かに祈りながら、俺は女子三人のうしろをついていった。

 今日集まったのは、木陰から美術用具の買い足しを頼まれた──という体だ。「なんなら私たちも行きましょうか!!」などと参加した二人組も、実は俺が頼み込んだ経緯がある。

 声の大きいシオンは知り合いのだれよりも機微を捉えるのが上手い。

 ステンドグラス職人と繋がりを持つ新凪さんはそれなりに美術の知識があるという。

 河川敷の出来事に立ち会わなかった第三者という意味では、それなりに合った人選だと思う。

 ともかく、ふたりには事情を説明してある。基本的には一緒にショッピングに行き、その後は辺りをぶらぶらと歩くだけの予定。由乃を気晴らしに散歩させて、どこかで話し合う時間をいただきたいのである。

 すこしでも俺への距離感が縮まれば幸いだ。


 謝るだけなら、自宅でもいいじゃないか。

 事情を知ったふたりは、内心でそんなことを思ったかもしれない。

 だけど、ヒトはそれほど器用ではないのが現実だ。時間、空間、その他諸々。些細なきっかけで言葉を躊躇ってしまうくらい、ヒトは不器用だ。

 魔法使いが俺の立場ならスパッと「悪かったわね」で済ませられるかもしれないが、難しく考えてしまう人間ほど、上手くはいかない。

 難しく考えてしまうという点では、由乃も言わずもがな。

 こうしてなんとなく微妙な空気ができてしまっているのが、何よりの証拠である。

 考えごとを繰り返していると、ほどなくして目的地へ到着した。俺は意識を目前にもどした。

 ショッピングモールとまではいかないまでも、それなりに大きな建物。

 入り口の自動ドアの向こうにレディースの洋服を扱うテナントが構えており、男の俺にとっては入りにくさがある。がしかし、二階から上の階は洒落た雑貨屋をはじめ、楽器を取り揃えた店やちょっとしたレストラン、もちろん画材メインの店も名を連ねており、それなりに役立つことを知っている。

 美術部員のころに数回足を運んだことがあった。


 透明な自動ドアをくぐり、我先にとフロアマップを見上げるシオン。それからメモ書き代わりの携帯でラインナップへ目を落とした。


「ええと? 頼まれたのはー……『褪せない虹』、『白地の主』、『夢』、『希望』!」

「アクリル絵の具とデッサン用消しゴム、夢と希望だそうです」

「あとなにこれ。腕まくら? 昼寝でもしたいのアイツ?」

「腕まくらではなく腕枕わんちんですね。紙面を袖で擦ってしまわないように支える道具です」


 新凪さんを呼んでよかったと、俺は心から感謝した。ありがとうみどり先生、ありがとう数日前の自分。

 ともかく頼まれた物は把握した。エスカレーターで上がり、件の画材屋に入る。半年も在籍していなかった美術部員時以来、約一年越しの来店となる。

 意気揚々と入店していく三人の後方で、俺は一度店構えを眺めた。

 やはり他のテナントと毛色が異なる。インテリア雑貨店よりも狭く並べられた品々、文具をはじめとした様々なツールの放つ、芸術の匂い。ガラス張りの壁面にはデッサン用の模型や球体関節人形などがうかがえ、独特の雰囲気を醸しだしている。


「お兄ぃ?」

「ん……いや、行くよ」


 些細な感傷を押しやって、俺は由乃のあとを追いかけた。



 しばらく一緒に見回ったあと、俺たちはそれぞれ単独で店内を巡っていた。

 結論として、木陰から注文されたラインナップはすぐさまカゴに放り込まれてしまった。そうなれば、あとは個人の時間がやってくる。俺以外の三人が「すこし見て回りたい」と意見を口にして、流れでカゴ持ちは自分となる。

 右腕にはり金で造られたカゴをさげ、俺は再度絵の具コーナーへと立ち寄っている。


 絵の具コーナーは棚が高い。

 他のコーナーよりも迷宮を思わせるエリアとなっているのは、絵の具の種類の豊富さに起因していた。

 絵の具にも水彩にアクリル、油絵の具と分かれているし、それぞれに色彩がある。

 画材屋となれば必然、棚は埋め尽くされる。踏み台が備え付けられた棚は数にして三つで、両面をチューブのセットやバラ売りが値札を抱えていた。

 それらを流し目にみていく。

 時刻は十一時半過ぎ、もうすぐ昼に突入するからか、客足の隙間で眺めることができていた。

 ──単独行動になってここへやってきたのには理由がある。さきほどアクリル絵の具を選んだときにも目は通したが、一番奥の棚だけは踏み入らなかった。そこは定番の絵の具ではなく、ちょっと特殊な種類の絵の具が揃っていたから。

 俺はそれが少し気になって、こうして真っ先に足を運んでいるのであった。


「……おや」


 手前の棚を曲がったところで、意外──でもない人物と鉢合わせた。

 新凪さんだ。

 後ろ手に手を組んで、悠々とした雰囲気で楽しんでいた彼女に「どうも」と会釈する。


「あなたも、ここへきたんですね」


 そう呟く彼女のらとなりに立ち、俺は棚を見上げた。


「新凪さんも絵を描くんだ」

「まさか」

「じゃあ、なぜここへ?」

「『描く』と言えるほど、私の描く絵は『絵』ではない、です。でも絵の具は必要とするので……」

「?」


 イマイチ要領をつかめない。

 彼女が立つ目の前には――ああ、そんなモノもあるのか。


「木陰さんの描く絵は、きっと綺麗なのでしょうね。いつも神林かんばやしさんがベタ褒めしてます」

「シスターは木陰自身にぞっこんだからな。贔屓ひいき目もないとは言えない。けれど、確かにあいつの絵は繊細で不思議な魅力があるよ」

「それに比べれば、『ステンドグラスアート』というのは単調な画風です。もちろんそれなりに細かく、鮮やかに絵を創ることも可能ですが」


 どこか自嘲的に笑って、新凪さんが絵の具をひとつ手に取った。

 アクリル絵の具より大きいチューブで、値段もそれなり。『red』のラベルの下に、『ガラス絵の具』と表記されていた。


「ガラスに描くのか」

「そうですよ。興味あります?」

「……とても」


 新凪さんは教会のステンドグラスの作家と知り合いである。そういう関係からか、彼女自身も芸術に身を置く立場のようだ。

 すこしだけ嬉しそうに、新凪さんは語る。


「いいですよね、ガラス……私が描くときは、透明でなんの装飾もないモノを選ぶんです。例えばカップとソーサーなんか。そういうのに色を付け足していくと、独自の存在へと変わっていく」

「へぇ、俄然興味が湧いてきた。ガラス専用の絵の具があるなんて知らなかったよ。やっぱり楽しいかい?」

「はい、楽しいです。ガラスに色彩を乗せるということは、ある意味、作品自体を塗り替える──壊すものだと思うんです。白い紙にはじめて足跡を残すのとはワケが違う。ガラス製品という完成したものに色を付け足していくのは、ガラス絵の具の取り柄のひとつと言えます」


 色をふたつみっつ手に取った新凪さんは、にこりと微笑みながら問いかけてきた。


「三上さんは、どう……思います?」

「どう、というのは?」

「ガラス絵の具。他人の創り上げたガラス細工に独自の世界を描く……ある種、犠牲の上に成り立つ芸術です」

「そんな言い方をされると、君は罪深いと感じているように聞こえるな」

「ま、まぁ。罪悪感はあります。人の捉え方にもよりますが」


 立ち上がって、俺の持つカゴに絵の具を入れる新凪さん。


「でも、私の数少ない趣味であることは確か、です」


 そんな芸術を、貴方はどう思うのか。

 彼女の問いかけは、仲間を探している風にも感じられた。

 ガラス絵の具でアートを生み出す自分は、悪い存在なのではないだろうか。などと彼女が考えているのかどうかはわからない。

 極端な思考ではあるが、ヒトは幾度となく自分を定義し、その度に自責する生き物だ。彼女にとっての自責のカタチにして、綺麗な核。それこそが『ガラス絵の具』という世界なのだろう。


 否定も肯定もせず、俺は手を伸ばした。


「俺もガラスは好きだよ」

「そう、なんですか?」


 紺色と黄色、そして白のガラス絵の具を選ぶ。


「とても不純な理由だけどね」


 魔法使いがガラスの魔女だったから、なんて明かしたら、激昂するだろうか。想像はできない。

 代わりに、俺は切り替えるように話題を持ちだした。


「なぁ新凪さん。ひとつ、取引しないか。君のほしい絵の具は俺がお金を出す。その代わり、教えてほしいことがあるんだ」


 彼女の選んだ絵の具。

 俺の選んだ絵の具。

 完成されたガラスを壊す、俺たちをして、罪深き芸術のもと

 持ちかけた取引を、彼女は快く引き受けてくれた。



◇◇◇



 買い物袋を持って店をあとにする。

 外に出た俺たちは、その辺を散歩がてら歩くことになった。

 駅周辺はそれなりの店が集っている。

 雑貨屋に服屋に百均に本屋に。食事どころだってもちろんのこと。

 腕時計に目を落とすと、針は昼過ぎを示していた。どこかでランチが理想の動きといえる。

 が、一行のうち二人がここで提案する。


「中央公園に往くわよ!」

「出店のポッドドッグが食べたいそうです」


 夏休みで感覚が麻痺しているが、今日は土曜日らしい。鐘之宮市の中心に位置する公園には出店が出現する。

 決して種類豊富というわけではないが、飲食店に入らず公園でゆっくり食べるという選択肢もなしではない。


「お兄ぃはいいの?」


 由乃が訊くので、頷きを返す。

 中央公園であれば東屋もあるはずだ。頭上には変わらぬ太陽。しかしときたま雲が遮って、体感温度はいつもより控えめだ。ともかく、日差しを避けて過ごせるのてあれば問題はない。

 方針が定まり移動を開始した一行。

 その最後尾に続きながら、俺はまた考え込んでしまう。

 『三上春間』から妹へ送る謝罪はふたつある。

 これまでと、これからについてだ。


 中央公園は思いのほかがらんとしていた。

 街行く人々は、熱量を抑えた太陽といえど怖いらしい。外気に身を晒すことを恐れるように、公園には客足が少ない。三つある東屋のうちふたつに老人が座っていたくらいで、あとは突っ切っていくだけである。

 公園、と名付けられてはいるが、遊具らしい遊具もない。楽しむ子供も望めない。鐘之宮市の休憩所、という感覚の方がしっくりきた。

 俺たちは東屋のひとつに陣取り、ホットドッグとドリンクを味わったのだが……楽しい時間というのはあっという間で。

 気づけば昼の時間はとっくに過ぎていた。ホットドッグの味がよくわからないまま、三人の会話を聞き流してしまっていた。

 日陰となった東屋から一歩出れば、そこは太陽が照らす芝と整備されたコンクリートの道。視線をあげ、眩しさに目を細めてしまう自分がいた。

 相槌を打って応じたものの、俺だけがぽっかり空いた穴のようで、疎外感は抜けきらない。

 妹とふたりはそれなりに仲を深められたようでよかったと、頭のすみで胸を撫で下ろしていたところで、不意にシオンが声をあげた。


「じゃ、今日はこれくらいにしときましょうか!」


 締めの空気を漂わせた彼女に倣って、新凪さんも「そうですね」と首肯する。


「神林さんには私から渡しておきますので、おふたりはお気になさらず」

「だってよ、お兄ぃ。よかったじゃん」

「……正直助かるよ。今は取り付く島もないから」


 小さく笑い、腰を持ち上げるふたり。シオンは「寄り道するわよ! アイス!」と持ちかけ東屋を出て行った。その背中に呆れながら、新凪さんは俺たちに頭をさげる。


「おふたりとも、あとはごゆっくり」

「やっぱり、そういうコトなんだ」


 由乃にじろりと睨まれたので、俺はすこしだけ目を背ける。「まぁいいけど」とお許しをいただけたのは、やはり彼女らふたりの協力のお陰かもしれない。


「ふふ、最初から気づいてましたよ、由乃さん」

「……すまん巻き込んで」

「いえ。こちらはこちらで楽しかったですから。あとはあなた方の時間です、頑張ってくださいね」


 向こうから急かされ、仕方ないとばかりに応じる新凪さん。買い物袋を持って、ぱたぱたと日向へ飛び出していった。


「……」

「……」


 夏に浮かんだ日陰島。東屋に俺たちだけが取り残される。

 あれだけ騒がしいシオンがいないだけで、あたりはとんでもなく静かになった気がする。彼女の存在は頭痛を引き起こすが、それでもどこかで助けられていたのだと再認識した。

 街の喧騒が流れてくる。

 公園を取り囲むように並んだ木々からはセミの声がするが、この場所までの距離が和らげてくれていた。

 無言は苦痛ではなかった。

 ずっと同じ家で過ごしてきた妹だ。空気に慣れ、他人に対するような苦痛はないに等しい。ある意味で、由乃は最も俺を理解している存在かもしれない。だから、どう切り出したものかと悩むこの感覚は、別の要因によるものであった。

 どちらからも何も言わず、ただ無言で椅子に並んでいると、由乃がビニール袋をがさごそと漁った。さきほどホットドッグを買いに向かった際、ついでに立ち寄ったコンビニの袋だ。


「はい」


 おもむろに渡された缶をみて、俺はきょとんとする。

 握られていたのは、蒼矢サイダーだった。


「……ありがとう」

「ペットボトルじゃなくて申し訳ないけど」

「いや。構わないよ。むしろ食後にはちょうどいい」


 カシュ、とプルタブを持ち上げた音がする。

 俺のものではない。となりを見やると、由乃も同じ缶をあけ、口をつけていた。

 同じように缶を開け、爽やかな甘さで喉を潤す。

 買い物を終えてからこっち、徐々に蓄積してきていた身体の熱を、炭酸が奪ってくれるような感覚があった。

 これは個人的な感覚だが、しゅわしゅわとはじけるこの喉ごしは、秋や冬となると強すぎる。反して、夏はまさに独壇場だ。暑苦しさ、むさ苦しさを、サイダーは押し流してくれる。

 今日は比較的穏やかだし、この空気だ。そうごくごくと流し込む気にはなれないけれど。


「……なんだかなぁ」


 ちびちびと味わっていると、由乃が何気なく呟いた。


「どうした」


 由乃は東屋の天井を見上げながら言う。


「あたしの家庭も普通じゃないな、とアンニュイに浸ってた」

「……そっか」

「他人事みたいに考えてる? お兄ぃのことだからね。わざわざこんな時間のために手伝ってくれたふたりには感謝しないと」


 ああ、それはたしかに。

 今度、なにかお返しでもしなければ、と俺は心の片隅に置いた。

 また太陽が雲に隠れたようだ。

 東屋の周辺、日向の色が薄くなる。こんな天気の良い日の公園は、身体を動かす場に最適だ。お昼どきも超えたことで、見渡せる広場の向こうでサッカーをする小学生たちがみえた。

 ありふれた日常。

 その喧騒から外れたここは、今なお静かな空気に包まれていた。

 目につく範囲に時計はなく、握った缶からは酸の抜けるぱちぱちとした音。また訪れた沈黙を破り、本題に入るのは、俺の役目だった。



「……父さんのこと、怒ってるか?」



 ひたり、と。

 今まで閉ざされていた扉に手をかける気配がする。三上家の根幹にあった過去の歪み、それを気付きながらも知らないフリをして過ごしてきた互いのデリケートな部分を、ゆっくりと開いていく。

 さながら、硬いアルバムを開けるように。


「怒りなんか、とっくに通り越したよ」


 妹が間を置いて答えた。


「それこそが、魔女さんのかけた魔法なんでしょ。多分、お父さんのいない生活に慣れきったあたしだからこそ、こうして現実を受け入れられている。彼女を頼ったお兄ぃの所業は、たしかに怒るべき部分もあると思う」

「……そうだよ。由乃は俺に怒る権利がある」


 真剣に、そう答える。

 妹には罰することができる。むしろそうすべきであって、俺自身もどこかでそれを望んでいる。

 家族を歪めた。関係を歪めた。父親の死を辱めた。身勝手な理由で。

 脳裏に焼き付いて離れないんだ。風鈴にみせられた、あの日の病室が。苦しんで、『記憶を奪わないで』と訴える由乃の表情が。

 なのに、妹は怒るどころか、優しく微笑む。


「怒らない。魔女さんとお兄ぃの行いは正しかったんだと、あたしは思う」

「……どうして、そこまで信じられる」

「おかしいことを悟ったとき、すべてに合点がいったよ。普通に生活していればすぐに見つかりそうなのに、全く気づかなかった仏壇。異様なほどに取り繕うお母さん。昔はそれなりに仲がよかったはずなのに、冷たくなったお兄ぃ。そしてどうしてか覚えている『魔女』……思い出すのに、そう時間はかからなかった。同時に、なぜそんなことになったのかもわかっちゃった」


 由乃はくい、と炭酸を飲み干すと、コト、と傍らに置く。それから俺の目を見返して、迷いなく口にした。


「お兄ぃが、まもってくれたんでしょ?」


 核心を突く言葉。

 そんなことない。俺の自己満足だ。魔法使いを利用した汚いヤツだ。言い返す言葉はいくつも浮かんだのに、どうしてか声にすることはできなかった。

 それでも認めることはできず、俺は自分の缶に目を落とした。


「でも俺は」

「怒らない。何であれふたりが救ってくれたことを、あたしはわかってるから。……だから、避けてるのは別の理由」


 ……そうか。

 別の理由。それすらも俺は察してしまう。

 胸の奥で痛みが増す。罪悪感という苦々しさが増していく。

 謝罪はふたつある。これまでと、これからの謝罪だ。前者が果たされたのであれば、残すはひとつ。より重々しくのし掛かる、由乃の懸念に通ずる未来の話だ。この時間を有意義なものにできるかどうかは、ここからにかかっていた。

 由乃が息を吸い、ゆっくりと整える。そして、河川敷の出来事以来、ずっと仕舞い込んでいたであろう内心を、ゆっくりと吐露してくれた。


「……最近のお兄ぃは、昔にもどったみたいで、怖いの」


 怖い。

 その響きを反復して、どこか納得のいく自分に気づく。


「もちろんお兄ぃは悪くない。わかってる、覚悟の表れだってこと。でも、そう簡単に割り切れるほどあたしは柔軟じゃない、から」

「いや、遠慮しなくていい。由乃の感覚は正しいよ。俺は昔に戻ってるんだと思う。意識して戻そうとしてるだけじゃなく、無意識なところでも」


 きっとそれは、記憶を取り戻したことに起因する。良くも悪くも、俺は過去の自分を取り戻しているのだろう。

 特に河川敷でみた過去の光景は、大きく自分が変わっていく実感があった。

 例えるならば。

 再び日常の外側へ向かうような、自らレールから一歩ズレるような、そんな感覚。


「言葉にし難いけど……もしかしたら、とか。いつか、とか。そんな風に考えていた予想が当たっただけなんだよ。やっぱり実際に見せられるとクるものがあるの」

「それは、ごめん」

「最近のお兄ぃが名前で呼んでくれるのもそう。嬉しいよ。すごく嬉しいけど、でも不安になる」

「……ごめん」


 ああ、魔女の気持ちがよくわかる。

 俺は、ただ「ごめん」としか言えなくなる。謝罪をすればするほど言葉の重みは消えてしまうと、どこかで聞いたことがあるけれど。その実、俺たちにとっての「ごめん」は複雑だ。

 本当はもっと色々と言えることがあるのだと思う。だけど、いざこうして対面すると、用意していた謝罪の数々は霧散してしまう。葛藤に遮られる本心が多い。

 魔法使いも俺も、どうやら不器用らしい。妹の反応が物語っていた。


「お兄ぃのやろうとしてること、よくわかんないけど、応援はしてる。それでも思うところはあるっていうか……」


 視線を落として、憂慮の表情を浮かべる由乃。

 みどり先生の推察は的中していた。由乃は家族ゆえに兄の変化を敏感に捉えていた。

 魔女の復活を目指す兄。そいつの変化がどれほど普通から外れているのか、俺自身にはわからない。けれど先生も由乃も、シスターや木陰だって気づいている。

 ──宝石を手にしたあの日から、止まった歯車は動き出していたのだろう。


「あたし、意外と泣き虫だったみたいで。お兄ぃをみてると、泣きたくなる」

「……それは、どうして」

「遠くに行っちゃったな、って。本音を言うと、魔女さんのことは置いといて、危ないことも非日常的な事象に身を投じることも、やめてほしい」


 由乃は首を振った。


「でも、お兄ぃはやめられない。それがわかってる。だからこれは、きっとあたしの弱さが悪い」

「そんなことは」

「ある。あたしがそう感じてる。魔女さんとお兄ぃ、それにお父さんにも、護られてばかりだし」

「……」


 そんな感情を抱かせてしまうことが不甲斐ない。最近泣かせてしまったばかりだ、今でさえ平静を保っているが、妹のなんとも言えない表情をみると、胸を掻きむしりたくなる。これまでおざなりにしてきた分がまとめて襲いかかってきたようだ。巧妙に隠されていただけで、きっと俺は傷つけていたのだと自覚させられる。

 ……東屋のまわりは、依然として人がいない。喧騒は相変わらずで、日常は俺たちの葛藤や悩みを気にすることなく回っていく。

 缶を持つ腕、その半袖が弱々しい指で摘まれた。日陰の中、由乃の縋るような嗚咽が胸を突き刺した。空っぽでもいい、なにか慰めてやるのが、


「ねぇ、お兄ぃ。あたし、お兄ぃが居てくれればそれでいいよ」

「──、」


 開きかけた口が、とじる。

 『君がいてくれればそれでいい』。

 俺が魔法使いに対して抱いている感情と同種のものを、妹からぶつけられる。よく似た鏡がそこにあって、本心が反射して返ってきた気分になる。こぼされた声にどれだけ願いが詰まっているのか、俺はよく知っていた。

 ……こういう感覚だったのかな、魔法使いも。

 わずかな逡巡を飲み込んで、俺は答えた。


「大丈夫。そばにいるよ」

「……ほんとに?」

「ああ。でも由乃を助けてくれた魔女はどうしても生き返らせないといけない。夜の学校で背中を押されたし、夜の教会では夢として託された。他のだれにもできない役目を、俺は果たさないと」

「お兄ぃじゃないと、できない……」

「そう。父さんの件だけじゃない。彼女は俺にとっての唯一無二なんだ。だれかに替わりが務まる訳もないし、欠けたままの人生なんて息が詰まりそうだ。俺が求めていて、向こうも求めている。その役目を認め任せてくれた友人もいる。だから、」

「また、風鈴を探すんだ」

「悪いとは、思ってる。ほら、河川敷ではひどい有り様だったろ? 次にどうなるか、最終的にどうなってしまうか、正直なところははっきりしない。いつ何が起こるかわからない。今まで避けてきた分、できることはやっておきたいんだ。だからもし許されるなら、俺は前みたいに名前で呼びたい。いいか?」


 これから、自分がどんな道を辿ることになるのか。薄らとだがわかる気がする。それを口にできるほど俺はできていないし、それ以前に勇気もない。

 情けない自分に嫌気が差すけれど、譲れないもののために自らの首をしめていく。都合の良い解釈を紡いで嘯く。

 ガラスの魔女を復活させる──そんな途方もなく困難な達成を、俺は成さなければならないのだから。


「わかった。ちゃんとふたりで戻ってくると約束して。それならあたしは認める。許すよ」


 そう言付けて、由乃は頷いてくれた。不安は消えていないけれど、納得はしてくれた顔だった。

 俺は感謝を込めて「ありがとう」と返した。

 それを聞き届けた由乃は、気を晴らすようにすくっと立ち上がり、背伸びをする。さきほどまでの空気から一転、明るく振る舞って、優しく微笑んだ。


「じゃ、この話はおしまい。一区切りつけられてよかった」

「ついた、のかな」

「ついたんだよ。今はこれでいい。お兄ぃは悪いことをしたと思っていて、あたしはそれを許してる。お兄ぃはこれから悪いことをしようとしていて、あたしはそれも許した。互いの認識を合わせるだけで、この時間には意味があるんじゃない?」


 まぁ、妹がそれで良しとするならいいか。

 由乃に習い気分を切り替え、残りの炭酸を流し込んだ。


「魔女さんとまた会えたら、あたしにも紹介してね。今度はちゃんと、お礼したいから」

「ああ、ちゃんと守るよ。最後には戻ってくる」


 心から感謝を告げて、罪を自覚する。手のひらを強く握りしめて、痛みに耐えた。


 東屋の外。

 雲に遮られていた日光は、再び地面を明るくしていた。

 夜が恋しい。炭酸の味を飲み込みながら、得も言われぬやるせなさを感じていた。

 これでいいんだ、と言い聞かせるもうひとりの自分がいた。


 ──漠然とあるひとつの予感。

 きっと自分は、みんなを悲しませる。

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