kill count.2
叫びながら目覚めた俺を、肋骨じみたアーチの天井が見下ろしていた。
全てが無彩色でできているような、寒々しく見慣れた教団の寝室だった。汗が染み込んで病人の匂いがする硬い寝台もいつものことだ。ここの布団が干されているのを見たことがない。
窓の外では、鈍色の空を掠めるように黒い煤塵が舞っている。
「目覚めましたか、"煤払い"」
女の冷たい声がした。
「惰眠を貪るのは怠惰の罪ですよ」
ひび割れたステンドグラスを背に立つシスター・ザインが首を振る。
ウィンプルがずれ、右半分が火傷で爛れた顔が露わになった。
「嘆かわしい。鏡をご覧なさい。"煤"が溜まっています。懺悔室に籠り、許しを乞いなさい」
俺は自分の手を見下ろした。痩せこけた腕が微かに褐色を帯びている。俺は寝台を降り、シスターに導かれながら暗い廊下に出た。
棺桶じみた懺悔室には曇った鏡だけがある。虚像の中の俺は砂色の髪が更に色褪せ、燻んだ肌の色が一段濃くなっていた。
「まだ戦ってもいないのにその有様とは」
扉の向こうでシスターの声が反響した。
「戦った。夢の中でな」
呆れを示す嘆息が返る。当然だ。生まれたときから響く声も、幾度となく見る悪夢も、俺の頭の中にしかない。
「侮りはおやめなさい。孤児で癲狂病みのお前が我らが教団の戦士となれたのは偏にその才故です。神はお前に使命を与えられました。それを全うせずどうします」
俺は手を組んで祈りの印を結んだ。神を思い浮かべはしなかったが、肌の色が薄くなるのがわかった。
門を潜ると、教団の上空を鴉が飛んでいた。
"煤"との戦いで傷ついた僧兵たちが放つ血膿の匂いに誘われたのだろう。
「不吉な」
シスター・ザインが眉を顰めた。
「教団の中にも神の教えに疑いを持つ者が現れています。"煤"に対抗する唯一の術は信仰だというのに」
「知ってるさ。信仰を失った者から"煤"になる。髪は白く、肌は黒くなり、やがて預言の書にある化け物に。そうだろ」
「ええ。預言にある最も忌むべき"煤"は十三体。既に九体は我らが討伐しました。全て討ち滅ぼしたとき、真の安寧が訪れるでしょう」
石段を降りようと踏み出した俺に、シスターの声が突き刺さる。
「第十の"煤"は極めて強大と言われます。慢心はないでしょうね」
「わかってる。もう夢で見た」
溜息が冷たい空気に絡んだ。
「灰は灰に。"煤払い"よ。為すべきことを成しなさい」
郊外のぬかるんだ泥道を踏み締める。
崩れた露店の残骸に、死人と死にゆく者が折り重なって倒れ、野良犬がその足の指を舐めていた。
黙示録の終末の光景だ。
俺が生まれたときから、世界は滅びかけていた。"煤"と呼ばれる化け物が跋扈し、街は戦火で焼かれ、最後にひとが縋ったのは信仰だった。
俺が神を信じているのは、救いを求めるからでも、教団で育ったからでもない。ただ見えて、聞こえるからだ。
俺には探す前から"煤"の居場所がわかる。
戦いの最中の一瞬で最善の手が選べる。
そして、万策尽きて確かに死んだと思ったとき、全てが夢になり、教団の寝室で目覚めている。
神が操っているのでなければ説明がつかない。神に選ばれた者というのも、あながち間違いじゃないんだろう。それでも。
「何で俺なんだ……」
廃都に塵が一斉に舞い散った。視界が暗転し、黒い靄の中から蠢く何かが現れる。耳の奥がざわつく。神託の合図だ。
––––"渇きの防布"。
俺は考えるより早く、教団の制服に隠した襤褸を広げる。
足元の泥が巻き上がり、怒涛のように押し寄せる巨大な触手を弾いた。"渇きの防布"は接した物の水分を奪い、即時的な盾に変える防具だ。
泥の壁は脆く崩れ落ち、追劇が虚空を切る。砂塵に紛れて俺は一歩後退した。
––––"猛る火筒"。
俺は肘ほどの長さの火筒を取り出し、照準を定める。炸裂した火炎が塵を巻き込んで誘爆を起こし、触手の軌道を全て逸らした。
預言にある"煤"を打ち倒すと、人智を超えた業を成す武器が残る。その全てへの適性を持つのが"煤払い"だ。俺は携えた九つの武器を思い返しながら、靄の中の敵を見定める。かつて俺が持つ九つの武器のうち四つを持っていた敵を。
触手が煙の名残りを払い、異形が現れる。
骸骨のような面を覆う黒外套。俺と同じ"煤払い"が纏う教団の制服だ。
俺が持つ武器を負っていた背からは悪魔の魚じみた無数の触手が突き出している。全て夢で見たのと同じだった。
「先生、何でだよ……」
骸骨の奥の空洞のような目が俺を見返した。ざらついた音が鼓膜を舐る。
––––"第十の煤、"痛み"のヴァンダが現れた。穢れを祓え"。
「俺は戦いに来たんじゃねえ。今ならまだ間に合う。教団に……」
頭上を影が掠めた。
畝る触手が上空から襲い掛かる。身を屈めて避けた俺を下方からの衝撃が弾いた。受け身を取る間もなく空中に跳ね上げられる。鈍痛は遅れて響いた。
空に投げ出された俺の下で、花のように触手の群れが広がる。
––––"嘆きの縄"。
俺は麻縄を自分に向けて放った。独りでに敵を捕らえる罠は俺の腹に絡みつき、近くの尖塔に縫い止める。獲物を捉え損ねた触手が収縮し、螺旋を描いて塔を穿った。石壁が砕け、瓦礫が霧散する。
俺は縄を解き、壁を蹴って飛ぶ。傾いだ尖塔はそのまま崩落し、触手の上に注いだ。
––––"戒めの釘打機"。
引鉄を引くと、針の雨が降る。着地までの時間稼ぎに過ぎない。怪物は既に旋回し、俺に迫っている。これでいい。
––––"焦がれる傀儡"。
一瞬だけ自己の姿を投影する囮のための傀儡。俺は這うように触手を掻い潜り、次の武器に手を伸ばす。
––––"恐れの槍"。
刺突を目視不可能な速度で延長し、間合いを狂わす槍が閃いた。
怪物が巨躯からは想像できない速さで回避した。眼前に黒い旋風が渦巻く。俺は思わず槍を構えたまま片足を浮かせた。
巨樹のような触手が柄を砕き、俺の腹を貫通した。
背から突き出した触手に内臓を引き摺り出される。酸が喉を駆け上がり、黒い血が口から溢れる。空になった腹を触手がかき混ぜ、細切れになった血肉で満ちていく。激痛に意識が遠のいた。
怪物が俺を見下ろしていた。
"煤"が外套を払い退け、骸骨の面が左右に割れた。
「軸足を浮かすな。踏み込みが甘い」
懐かしい声が鼓膜を揺らした。力を振り絞って俺は顔を上げる。
髪は白く肌は褐色に染まっていたが、太い眉と鋭い眼と頬の傷はそのままだった。
「何度も教えたはずだ」
視界が闇に包まれた。
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