山の神

鈴音

山の神

小さい頃、山に入るなと母に口酸っぱく言われて、何も知らなかった私は大人しく従っていた。


違和感を感じ始めたのは、高校生の頃、山の近くを通る度に、がさがさ、どしどしと物音が聞こえるようになった。そこで、この山には獣がいると私は思うようになった。


そして、大学を卒業して、特にやりたいことも見つけられず、小さい頃から有り余るほどあった体力でせめてもの孝行と、地元に帰ってきて家業の畑作を手伝い始めた去年から、違和感はどんどん強くなっていった。


最初の違和感は、この山はどう見ても餌が足りないのに、獣は降りてくる気配がないこと。


次に、音はするのに、目に見える範囲に足跡がないこと。


そして何より、この山にぐるりと張られたロープが、ただ立入禁止を示しているのではなく、明らかに神社にあるような注連縄としての要素が強いこと。


私はそのことを踏まえて、山に入ることを決めてしまった。父は地元の会合で、母は既に母屋で眠っていた。


小さくて頼りない懐中電灯と、気持ちばかりのスタンガン、いざとなったら走れるようにスニーカーを履き、ロープをくぐった。


瞬間、ばちりと頭に何か電気のようなものが走った。はっきりと感じ取れたその感覚がなにかわからない。けど、明らかに普通じゃないそれに、私の体はすくみ、震え始めた。


まだ山に入ったばかりなのに、視界がぶれて、尋常じゃない動悸と吐き気が襲う。ふらふらと誘い込まれるように足は動き、山の中へ入っていった。


ふと、視界の端を何かが過ぎ去った。明らかに異質な、大きな影。生ぬるい風と、じろじろと睨めつけるような視線。


浅くなる呼吸の中、無理やり目を閉じて、意識を整えようとした。その時に、ぺきゃり。と、何かが砕けるような軽い音と、生臭い匂い。べちゃべちゃと粘り気のある液体が地面に落ちる音。それから、ゆっくりと身体が傾いて、湿った地面に頭から落ちた。


その視線の先には、7本の足で歩く、気持ちの悪いナニカがいた。かろうじて口だとわかるそこには、細い棒のようなものがあって、その棒からぽたぽたと滴る何かを理解しようとした所で、意識が途切れた。


…目が覚めたのは、自分の部屋の、布団の上。いつもと変わらない天井と、いつもより遅れた時間。もう、仕事の時間だと起き上がろうとしたその時に、気づいた。


私の足が無い。右足があったところは、痛々しい傷がそのままに、布団も服も、全部が血まみれだった。


そして、枕元には真っ黒な獣の体毛があって、昨日のことが嘘でも、夢でもなかったことを伝えていた。


声も出ず、あれが何かを知ることも出来ず私はただただ自分のした事を悔いた。母の言う通りにすれば、こんなにことにはならなかったと。


ひとしきり泣いて、もうとっくに仕事が終わる時間になった頃、母がやってきた。


あれは、あの山に住む神様。優しくて、何でもするけど、勝手に山に入った悪い子にはお仕置をするんだとか。


それだけで、納得も理解もできなかった。けど、受け入れた。いや、受け入れるしか無かった。


振り返った母の小さな背中には大きな穴があって、その中身が見えていた。そこにあるべき内臓が欠けていた。


母も同じだったのか、聞くことは出来なかったけれど、少なくとも、あの神様は本当に優しいらしい。内臓を取っても、母を殺すことは無かったのだから。


そう思って私は毎日神様に祈った。あの7本足の、この山の神に

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山の神 鈴音 @mesolem

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