お隣さん

増田朋美

お隣さん

その日もとても寒い日で、何でも10年に一度のすごい寒さがやってくるということで、みんな不要な外出は控え、家にずっといた。それでも仕事をする人は、しなければならないのである。なんだか政府の言うことは、いつの時代もおかしなもので、ピントがずれている。

その日、ブッチャーは、いつもどおりに、通信販売を手掛けている商品の発送を行うため宅配便の営業所へ行き、さて、一休みするか、と思いながら自宅へ戻ると、自宅にはうまそうな匂いが充満していた。

「ただいまあ。」

と言いながら、ブッチャーが自宅に入ると、聞こえてきたのは包丁で何かを切っている音であった。台所に行ってみると、姉の有希が一生懸命なかおをして、人参を切っていた。

「どうしたんだよ姉ちゃん。何を作っているんだ?」

ブッチャーが尋ねると、

「おかえり聰。今ね、チャーハン作ってるのよ。もうすぐできるから、一緒に食べよう。」

ブッチャーは姉の一言に、そんな事はしなくていいと言おうとしたが、どう言っていいか迷った。姉は、自主的になにかしてくれるのはありがたいが、もし失敗すると、大変なことになるのは、ブッチャーも知っていた。

「姉ちゃんどうもすまんな。」

とりあえず、そう言っておく。有希はどうもありがとうと言って、ご飯を炒め始めた。ブッチャーは姉の行動を観察する。姉はチャーハンを作ると言っても、それは、冷凍の炒めればいいだけのチャーハンで、前に失敗したときのような、ご飯そのものを炒めているわけではない。それに、細かく切った人参を、具材として炒めているのだった。はあなるほどとブッチャーは思う。あのとき、柱に頭をぶつけたりして、怪我をしそうになった姉を、ブッチャーは必死で止めたのだった。原因はチャーハンを作ろうとして、ご飯を炒めすぎてしまい、フライパンを真っ黒にしてしまったことだった。そんな失敗は誰でもあるからと、ブッチャーは姉に言ったのであるが、それではだめだ、自分は働いていない、働いていない人間は罰が必要だと言って、有希は包丁を振り回した。そんな姉には、正直参ってしまったのである。でも、今有希はそうならないように、今回はちゃんと炒めるだけの冷凍チャーハンを使っている。味や栄養面ではだめなのかもしれないが、でも暴れないで作れるほうが、ずっと良いのだった。

「ほらできたわよ。早く食べてよ。」

テーブルの上にお皿が乗せられた。ちゃんと、チャーハンが乗っていた。

「早く食べて。みたいテレビが始まっちゃうわよ。」

有希はにこやかに言っている。

「あ、ありがとう。」

ブッチャーはそう言って、お皿の中身を食べてみた。まだ十分に炒めていなかったらしく、人参はとても硬かったが、ブッチャーは、姉が失敗せずにチャーハンを作ったとして、褒めてやるべきだと考え直した。

「姉ちゃんありがとうな。とても美味しかったよ。」

とりあえずそう言っておく。

「無理に言わなくていいわ。やっぱりまずかったわね。私、やっぱり、普通の人と同じ事しようとすると、だめなのかな。」

有希は、そんなことを言い始めた。

「そんな事無いよ。今日の料理はとても美味かった。それに普通の人とは、切り離して考えろって、病院の先生が言ってたじゃないか。」

ブッチャーがとりあえずそう言うと、

「でも世間が私の事をどう見るかしら。怠け者とか、甘えてるとか、そういうふうにしか見ないと思う。それでは行けないでしょ。なにかしなければ。」

有希は逼迫した顔で言い始めた。

「そんなことはないよ。姉ちゃんはよくやってるよ。毎日毎日食事を作ってくれて、すごいよ。」

ブッチャーがそう言うと、

「わざと褒めなくてもいいわ。」

有希は強く言った。

「別にわざとじゃない。俺は、本気でそう言っているんだ。」

ブッチャーはそう言うけれど、有希は一度感じ取ると、それを撤回するということはまず無い。事実そういうことは無いとしても、有希は、そこへ執着してしまって、そこから離れるということは非常に難しいものである。

「本気じゃないわよね。わざと私が暴れるからとめたくて、私をおだてているんでしょう?それだけでも、本当に辛いのよ。それなら、まずかったって、正直に言ってくれればそれでいいわよ。」

ブッチャーは、そっちを言ったら、また自分はだめだと言って、暴れるじゃないかといいたかったが、それを言ったら更に、有希が物を投げたり壊したりする可能性があることを知っていた。こうなると、普通の親御さんとかであったら、なんとかして黙らせるか、それとも無理やり話題を変えるとか、何かしら対策を講じようとするだろう。それがうまくできないと、親御さんと、障害者との間で、怒鳴り合いが起きてしまう可能性もある。下手をすれば、警察を呼ぶ可能性もなくはない。

「おだててもいないし、姉ちゃんを特別扱いするわけでもない。だけど今日のチャーハンはとても美味しかった。姉ちゃん、あのときとは変わったな。暴れもしないように、ちゃんと出来合いのチャーハン買ってくるという対策をたてられるようになったじゃないか。それは、すごい進歩だぜ。だから、俺は、姉ちゃんのチャーハンはとても美味しかったと言うよ。」

ブッチャーは、とりあえず、事実に基づいて言った。とにかく、こういう有希のような障害者には、まずはじめに事実を話すのが手っ取り早いものである。そして、それに対して、自分がどう思っているのかを正直に話す。最後に、障害者がしたことを批判したりせず、褒めてやることが、大事である。話し方のコツとして、私はこうである、こうしてあげられると嬉しいと述べると良いという方法があるが、それも、使える人と使えない人がいる。だけど、ブッチャーは、褒めてやることが一番だと思っている。

「俺の言うことはそれだけだ。それ以外何もない。だから、姉ちゃんも世間のこととか、そういうことは気にしないで、また楽しく料理を作ってくれ。」

と、ブッチャーは、そういった。有希は、小さな声で。そうありがとうとだけ言った。そのような反応が帰ってきたのが、ブッチャーは意外だった。前の姉だったら、誰かに止めてもらわないと行けなかったのに、そういうふうにありがとうとだけいう、という態度にとどめてくれたのであれば、姉も、少し、病気から回復してきたのだと思う。姉のような病気の人には、年をとると言うことは、嫌なことではなく、薬の一つになるのではないかとブッチャーは思う。だいたい精神疾患というのは、若いときにかかりやすいが、それが年を取っていくにつれて、原因となるものの記憶が遠ざかっていくので、年を取ってくると落ち着いてくるようなのだ。

「もういいわ。それでは、またチャーハン作るから。よろしく頼むわね。」

有希は小さな声で言った。そのまま。二三日動けなくなるのかなとブッチャーは思ったが、玄関のインターフォンが音を立ててなった。

「誰かしら。」

有希がそういうと、

「俺、出てくるよ。姉ちゃんはそこにいて。」

姉を一人で部屋へおいておくのはちょっと困るのであるが、ブッチャーは、玄関先へ歩いて行った。

「はい、どちら様でしょうか?」

と、ブッチャーが玄関先に行くと、

「あの、私、三沢と申します。こちら、須藤さんのお宅で間違いありませんよね?」

中年の男性の声がした。

「はい、そのとおりですが、なにかありましたか?とりあえず寒いので、中に入ってください。」

と、ブッチャーがそう言うと、

「では入らせていただきます。」

と、三沢さんは、家の中にはいってきた。なんだか偉く疲れているようなそんな感じの男性だったけど、とりあえずブッチャーは、話をしなければならないと思った。

「初めまして。お隣に引っ越して参りました、三沢と申します。これから、お世話になると思いますが、宜しくおねがいします。」

「そういえば、隣のお宅は空き家になってましたね。新しい方がはいってきたのか。俺は、須藤聰、寺尾聰と同じ名前です。周りの人には、プロレスラーのブッチャーと似ているらしくて、ブッチャーと呼ばれています。」

三沢さんがそう自己紹介すると、ブッチャーも、そう自己紹介した。

「ありがとうございます。これから、どうぞ宜しくおねがいします。」

三沢さんが頭を下げたのと同時に、

「どうしたの聰。誰かいらしたの?」

と、有希が急いでやってきた。

「ああいやこちらの方は、三沢さんと言うそうで、お隣に引っ越してきたんだって。これからよろしくおねがいしますってさ。」

ブッチャーがそう紹介すると、

「三沢と申します。宜しくおねがいします。」

と、三沢さんが言った。

「随分美人なお姉さんがいるものですね。」

有希のことを、誰もが美人だという。でも、ブッチャーは、姉のことを、そういうふうには見えなかった。美人だとか、きれいな人というか、そう言われても、ブッチャーは、何も嬉しいとは思えない。

「宜しくおねがいします。私は、須藤有希です。」

有希はいつもと変わらない感じで、三沢さんに挨拶した。そういうふうに普段と変わらないでいるのも、姉の有希の特徴でもあった。家族には、パニックしたり、暴れたりするのに対し、外では普段と変わらないということも、不思議なところである。

「それでは、宜しくおねがいします。なにかありましたら、仰っていただければ。近所同士、よろしくおねがいしますね。」

そういうふうに、普通の人が言わないような言葉を言うのも有希だった。

「はい、ありがとうございます。宜しくおねがいします。」

と、三沢さんは、ブッチャーに、タオルを一枚渡した。大体の人は、引っ越してくると、タオルや石鹸などを渡すことが多い。その挨拶の意味はよくわからないけれど、それが、日本のご挨拶でもある。

「ありがとうございます。近所同士、助け合いましょう。」

有希にそう言われて、三沢さんは、

「どうもありがとうございます。そんなことを仰って頂いて、とても心強いです。宜しくおねがいします。」

と、二人に言って、御免遊ばせといい、ブッチャーの家を出ていった。

「はあ。引っ越しのご挨拶にしては、馬鹿に丁寧だな。こんなものまでくれるなんて。」

ブッチャーはもらったタオルを広げた。そこら変の店に売っているタオルではなくて、どこか高級な百貨店にでも売っているのではないかと思われるタオルだった。こんなものをもらってもいいのだろうかと思われるくらい高級品だ。

「そうね。なにかわけがあるんじゃないかしらね。」

有希が、そのタオルを眺めて、そういうことを言った。

「なにか訳ってなんだよ。」

ブッチャーがそう言うと、

「だから、そういうことよ。具体的にどんな理由かはわからないけど、あの三沢さんという方は、必ずなにかわけがあるわ。私は、そう見たわ。きっとそういうことよ。」

と、有希はいった。なんで姉ちゃんは、そういうふうに、直感的に感じ取ってしまうのかな。とブッチャーは思った。それは有希の勘と言うより、特殊な能力というべきかもしれなかった。有希には、そういう重大なことを見抜いてしまう能力があるようである。

「三沢さんという人は、一人暮らしなのかしら?」

有希は突然そんなことをいい始めた。

「姉ちゃん。他人の家族構成に、何でも嗅ぎ回るのは良くないよ。」

ブッチャーはそういったのだが、

「いいえ、近所同士ですもの。知っておく必要があるのよ。一人で、暮らしているのかしらね?それとも、奥さんか、他の家族がいるのかな?」

と、有希はそういうのである。

「まあ姉ちゃん。そういうことをいうよりも、ご飯をうまく作ることを考えてくれ。」

ブッチャーはそう言ったが、有希はまだ気になる様子だった。

「そうかなあ。まだ腑に落ちないところがあるわ。ああして、丁寧に高級タオル持ってくるだけでも今の時代にしては丁寧だし。それに、顔を見たとき、えらく疲れているような感じの顔だったわ。」

そんな事、ブッチャーは気が付かなかった。もしかしたら、それは有希にしか気付け無いことなのかもしれない。

「まあ、そういうことでもあるんだけどね。人の家についてあんまりコソコソ嗅ぎ回るのは、よくないそ。姉ちゃん、あんまり人の家の事を気にしすぎないほうがいい。」

と言っても、有希は、まだなにか気になっている様子だった。どうして有希のような人は、なんでも気になってしまうんだろうなと思う。ブッチャーがなんとか姉を止めなければと考えていると、

「これ、誰のかしらね。」

と、有希が不意に言った。有希の手には、キーホルダーが握られていた。

「今、玄関扉の近くに落ちていたのよ。あの三沢さんという人が落としていったんじゃないかしら。これ、女性ものよね?じゃあ、あの三沢さんという人は、一人暮らしじゃないことになるわね。私、ちょっと届けに行ってくるから、聰は留守番しててね。」

と、有希は出かける支度を始めた。ブッチャーは、流石に有希が一人で出かけるのは、まずいと思ったので、

「だったら俺も行くよ。」

と言って姉に着いて隣の家に行った。隣の家は、たしかにブッチャーの家とさほど変わらない作りの一軒家だけど、確かに、どこか普通の家と違うような、そんな気がした。

有希は迷わず、インターフォンを押した。

「あの、お隣の須藤と申しますが、三沢さんいらっしゃいますでしょうか。あの、こちらのカタクリの花のキーホルダー、落としていかれたんじゃありませんか?」

なんで姉はこういうときにはちゃんと要件を伝えられるのかな、と思いながら、ブッチャーはそれを聞いていた。もう一度、インターフォンを押して見るが、返事はない。

「変ねえ。どこかにでかけているのかしら。それにしては、車もあるし、電車ででかけたわけでもなさそうだわ。それともバス停にでも行ったのかしら?車があるのに鍵がかかってるわ。どうしたのかしら?」

有希はもう一回インターフォンを押すと、

「待て!待ちなさい!」

という声が聞こえてきた。そして、ドドドッという音がして、ドアに向かって走って一人の女性が走って来た。女性は、一生懸命ドアを開けようと、めちゃくちゃにドアノブを動かしている。

「待ちなさい。確かに、お前の言うことは、わかったから、薬を飲んで少し休もう。」

そういう三沢さんの声も聞こえてくる。有希は、何が起きたのかわかってしまったらしく、

「三沢さん!お願いだから開けてください!大丈夫です。なにがあったか、私が聞きます!」

というのだった。ブッチャーには何が起きたのかわからなかったけれど、有希には何があったのかわかってしまったようである。

「お願いします!開けてください!悪いようにはしません、三沢さん!」

有希がもう一度いうと、ガチャンとドアが開いた。有希が無理やりドアを開けると、一人の女性がドアの前にうずくまっている。多分、20代から、30代くらいの女性だと思われる。

「もしかして、このキーホルダーはあなたのではありませんか?」

有希は、持っていたキーホルダーを、女性に見せた。

「ああ、そう、これ!」

女性は、すぐにそれを受け取った。

「やっぱり、あなたのだったんだ。良かった、持ち主が見つかって嬉しいわ。」

有希はにこやかに言った。ブッチャーもその家の中を見渡すことができた。家の中は確かにまだ引っ越してきたばかりということもあるのだろうが、ものが散乱している。ということは、その女性が、なにかしたに違いない。なにか恐怖に揉まれるようなことでもあったのか、それとも、感情が高ぶってしまったのか。

「一体なにかあったんですか?私、聞きましたよ。待ちなさいと言ってたの。あなた、もしかしたら、外へ飛び出そうとしたのではありませんか?」

有希は優しく彼女に聞いた。その言い方は、警察官が尋問するようなきつい言い方ではなかった。むしろ、有希のような人間でないとできないのではないかと思われる。

「いえ、大した事ありません。ただ、キーホルダーを付け替えようと思っていたんですが、それを、ひろ子が反対しまして、こういう言い合いになってしまっただけのことです。」

と、三沢さんが言った。どういうわけか、親というのは、あったことを、小さなことにしようとしてしまう。特に他人に説明しようとするときは、できるだけ大したことがなかったみたいに装う。

「ただの言い合いだけじゃ、ここまで騒動にはなりませんよ。それに、いつも鍵をかけているというところからも、娘さんはなにか病気何じゃないでしょうか?」

とブッチャーが思わずそう言うと、

「いえ、そんな事ありません!絶対にそんな事ありません!」

と、三沢さんは言うのである。

「いえ、隠さなくてもいいんですよ。」

と、ブッチャーは言った。続いて、俺の姉も心が病んでいると言おうとしたところ、有希が、こういい出した。

「あたしも、娘さんと同じように、精神疾患と診断されています。だから、悩んでいるのは、三沢さんだけではありません。あたしも、普通の人がする以上に感じてしまって、何度もつらい思いをしましたけど、今は、ここにいる弟聰の支えでなんとか生きてます。もし、大変なことがありましたら、私で良ければお役に立てるかもしれないですし、何でも頼ってきてください。」

はあ、姉ちゃんは、こんなセリフを言えるようになったのかとブッチャーは予想外だった。いつの間にこんなこと、姉が言うのだろうか。ブッチャーは、不思議な顔をした。

「きっと、精神障害のある人にとって一番心強いのは、同じ当事者の話だと思うんです。ましてや私達はお隣さんでもある。だから、きっとなにか縁があると思うんです。仏法でもそう言っていますけど。それを大事に生きることじゃないのかな。お隣同士、助け合いましょう。」

有希はひろ子さんにそう言っている。そういえば、姉は、今年から学問したいって言って、観音講に通い始めたことをブッチャーは思い出した。それによって姉も少しづつ変わり始めているのかもしれなかった。きっと、何度も季節を数えていくうちに、姉も変わってきたのだろうなと、ブッチャーは考え直したのだった。

姉は、まだ泣いているひろ子さんを、大丈夫と言ってなだめていた。


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お隣さん 増田朋美 @masubuchi4996

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