The view of life and death

千里

第1話

当時私は24歳、男、独身、フリーター。やりたいこと、なし。

これ以上加筆することもない私のステータスが、私の人生を物語っていた。



私が一つのバッドエンドを見届ける前に、私の生い立ちを少しなぞる。



私には家族がいた。父は平凡なサラリーマン。毎日6時過ぎには起床し、出社。18時を過ぎる頃には家路に着き、家庭での時間を優先する、「ありがとう」をしばしば口にする優しい男。私から見れば父の生活ははっきり言って退屈で、『私は父のようにはならない』となんとなく心に書き留めていた。

母は保険会社のパートとして働き、家計を支えながら全ての家事をこなす。社交的で世話焼きな母には家族全員が頼りにしていた。

私の兄はすでに家を出て東京へ。何をしているのか、生きているのかさえ弟の私には判らない。何せ実家に帰ってくることも、連絡すら取ることもない。決して仲が悪いわけではないが、いわゆるそれが私たち兄弟の形だった。

姉は結婚し家庭を持つと自分の家を持った。私の甥にあたる存在が二人。私にとっても宝物のような存在で、くらむほどの眩しい笑顔を何度も見たくて笑わそうとするも、やりすぎて最後には泣くか怒るかの最悪の二択を引き当てる。

私はというと当時実家に住み、飲食店でフリーターとして働き、特にやりたいことも夢も趣味も持ち合わせていないごく普通の男。生きていれば、ある日突然生まれ変わるような出来事が勝手に起こり、なんだかんだあって幸せになるんだろう。そう思っていた。



多分そう思っていたのは、今が十分幸せだったから。満たされていたから。

そしてそれは普遍的なもので、終わりなどまだまだ先だと信じて疑わなかった。

いや、『信じる』という行為すら忘れるほど、私には当たり前になっていた。


故に、1人の結末を見届ける覚悟など私には微塵もなかった。



私は小学生の頃、アニメや戦隊モノの真似事で盛り上がる教室で、周りを見渡しながらこう思っていた。

『なぜ友達が必要なんだろう、どうせいつかみんな死ぬのに』

多くの初めてを経験し多感であるはずの幼少期は、立ちはだかるこの言葉によって世界から遮断されていた。

友人と呼べる存在は少しばかりいたが、心は孤独を愛していた。そのくせ、夜が来ると震えていた。私の心に『死』が忍び寄り蝕むには、夜という存在はあまりに好都合だった。それなのに漠然と、『明日が来る』ことを疑いもしなかった。『死』と『私』と『生』。川の字になり添い寝をしているような気分。

そういった思想は成長してからもさほど変わらなかった。『死はいずれ平等に訪れるもの』。深く根を張るその思考が、喜びや悲しみ、それらの感情の起伏をコントロールしていた。

自分や他人に死が訪れようと、喜ぶでも悲しむでもなく、ただそれを緩やかに受け入れるだけだと思っていた。


今から書いていくことは、私一人が経験した特別なものということではなく、誰しもが経験しうること。その可能性があること。それを踏まえて、願わくば自分と重ね合わせながら読んでもらえたらと思う。



私は24歳の夏、ワーキングホリデーという制度を知り、海外で働く事を視野に入れていた。当時働いていた場所で社員になることも考えていたが、いつ終わるやも分からないこの人生という名の旅に、少しのスパイスが欲しかった。

正直なんでも良かったが、その頃、今まで漫然と過ごしてきた人生とは全く違う環境で過ごすことに無性に惹かれていた。変化のない退屈な毎日を、根底から覆すような何かが欲しかった。



会社に辞職の意思を伝え、さあ次のステップへと心躍っていた8月の初旬、仕事終わりに携帯を開くと母から「話があるからなるべく早く帰って欲しい」と一文だけ届いていた。

勘というものは悪い時にばかり鋭いもので、その一文を見た瞬間、仕事が残っていないか探している自分がいた。良い話ではないことが文面から読み取れた。



少しでも先延ばししようと懸命に踏みとどまる足を引き摺りながら我が家へ辿り着き、玄関の扉に手を掛ける。扉がズシリと重く、握る手のひらにじっとりと汗がにじむ感覚があったが、それは夏のせいにした。

リビングにいた母は今まで当たり前のように日常にあった「おかえり」を言いたかっただろう。だがその声には不安が入り混じり、暗く冷たい感情が影を潜めていた。



「精密検査を受けた父さんがそのまま緊急入院になった。」



その時、父が1ヶ月ほど前から「お腹が痛い」と時折口にしていたことを思い出した。いくつか病院で検査を受けたが、異常なし。「大きい病院でしっかり診てもらったら?」と母が背中を押したこともあり、近くで一番大きな総合病院に検査を受けに行った矢先だった。

病魔の正体は、母にはまだ知らされていなかった。まだ何かが確定したわけではない。しかし私の中にあったその僅かばかりの希望は、今にも消え入りそうな母の震える声と、相反して激しさを増していく胸の鼓動によって霞みがかった。

何日か後、再度病院に行き検査結果を聞くこと、兄も数日後一度帰って来ること、その他いくつかの連絡事項を交わし、私は自室に戻った。

最悪のケースが頭をよぎり、漠然とした不安に胸を締めつけられながらも、『そんなはずはない』と無理矢理目を閉じた。



数日後、母と姉と私で病院に足を運んだ。父と面会する前に主治医から病名と今後の段取りを聞くとのことだった。

母は同席せず、まず私と姉が聞くことになった。「お兄ちゃんと一緒に聞くから」、母はそう言った。それとは別の理由があることは私も、恐らく姉も分かっていた。

私と姉は、普段何に使うのかよく分からない部屋に通された。机と椅子、少し古めかしいパソコンが1台と、何と読むのか分からない本が押し込められた本棚。主治医を待つ間、私と姉は取るに足らない言葉を交わした。少しでも変わらない日常を過ごすことに必死だった。だが、私と姉が作り上げた仮そめの日常は、主治医の告げる現実によって幕を下ろした。



「お父さんの病気はすい臓がん。ステージ4です。余命はおそらく半年ほどでしょう。」



むせび泣く姉の隣で私は平静を装いながらいくつかを質問した。弟ながらに、自分がしっかりしないとという思いがあった。ひとしきり聞いた後、何かがこみ上げてきたが、『今じゃない』と高ぶりそうな感情をねじ伏せた。

奇跡を信じて痛みを伴う治療をしていくか、それとも痛みを取りながらゆっくりと残りの時間を過ごすか。父に残された二択は、ほとんど二択にはなっていないことを感じながら、『家族で話し合う』とだけ残し、父の病室へと向かった。

母とは目を合わせぬまま、父の方に目を向けた。たった数日、その短い時間でさえ、病魔は父の身体を確実に蝕んでいた。それは何の医療知識を持たぬ私でも分かるように。父とも、目を合わせることはできなかった。



「ありがとう」。病室を出ていく私たちに父はそう声を掛けた。私はその言葉から逃げるように病室を後にした。

外に出ると、普段なら煩わしい蝉の声がその日はなぜかずっと遠くに聞こえ、代わりに父の声が私の頭の中をこだましていた。



その夜、私は思いのほか冷静で、職場にはいつ伝えるべきか、何をしておいた方がいいのかを頭でシチュエーションしていた。『死は平等に訪れるもの』。根底にあるそれが、私の理性を保たせた。

夜も更け、眠りにつこうと横になった時、いつものように『死』が這い寄ってきた。それは今まで枕を共にしていたものとは違い、絶対的な存在感を放ちながら、触れてしまえば何かが壊れてしまいそうなほど儚げに見えた。

『コレからは逃げられない』そう確信した時、溢れ出るものを止めることはできなかった。



それからまた数日後兄が帰省し、母と共に主治医から話を聞いた。私はその場にはいなかったが、恐らく兄が上手くやってくれたのだろう、大きく取り乱すといったことはなかったように見えた。

父には余命を伝えることはできなかった。父自身はどう思っていたのかは分からないが、その類を父から聞かれることはなかった。だが私は、主治医から余命を告げられたところで信じることなどできなかった。とっくの昔に『平等に訪れるもの』と受け入れていたはずだったが、突如として突きつけられた現実によって、その覚悟のようなものはいとも簡単に崩れ去っていた。



家族会議。という大層なものはなく、「どうする?」という誰かが発した言葉から話は始まった。

父を除いた家族の総意は『治療をしたい』だった。その年の5月に60歳になり定年退職し、第二の人生を過ごすこれからという時だった。そんな父を黙って見ていられるはずがなかった。何より私は「父がこんなところで死ぬはずがないだろう」と思っていた。

だが、治療をしていくには、私たちが想像もできない痛みを父に背負わせるだろうことも主治医から説明されていた。

家族の誰よりも優しい父。私たちが「治療をしよう」と言えば、必ず「そうしよう」と言うだろう。痛みを一身に背負い、闘うだろう。余命を知らずとも。たとえ明日死のうとも。そしてそれはきっと、自分のためではなく家族のために。

私たちはそれに気づいていながら、それでもやはり、父に生きていてほしかった。



治療を選んだ私たちは主治医にその旨を伝えた。それから父の闘病生活が始まった。

父に会う時間が欲しかった私は職場にも現状を伝えた。当時の店長に話すのが、初めて家族以外に父のことを話す瞬間だった。正直他人に話すつもりなどなかったが、いつどうなるか分からないこの状況では話さざるを得なかった。

店長に伝えた時、やはり他人に話すのはこれで最後にしようと思った。人に涙を見せるのは気持ちの良いものではなく、人前で泣くこともこれで最後にしようと決めた。



店長から事情を聞いたオーナーに掛けられた言葉は今でも覚えている。オーナーが高校生の時、彼の父は病気を患い二週間という短い闘病生活の末、亡くなったそうだ。

「事件や事故で突然命を奪われたわけじゃない。俺たちは別れを言う時間をもらったんだ。切り替えてそう思わないと、やってられないほど苦しい時間になってしまうからね。」

私に全てを推し量ることはできないが、その言葉にはオーナー自身の後悔が薄く滲んでいるように見えた。

きっと彼は、学生の頃その考えには至らなかっただろう。何年も何年も、あらゆる言葉を書いては消してを繰り返し、時間をかけて辿り着いた答えなのだろう。前を向くために。苦しいだけじゃなかった、必要な時間だったんだ。そう思い込むために。

現に私は、当時その言葉が受け入れ難かった。別れを言うのはまだ先だと、今であるはずがないと。その思いが、胸に刻んだはずのその言葉を気づかれぬようこっそりと消してしまった。



職場に伝えたものの、人員が急に都合がつくはずもなく、それほど父との時間も取れぬまま日々は過ぎていった。

その間父はあらゆる投薬を試したがどれも効果は薄く、日に日に衰弱していった。動くこともままならず痩せ細っていく手足、こけていく頬、反比例するように膨れていく腹(腹に水が溜まる腹水症状というものらしい)。休みの日に父の元へ行っても、私にできる事など何もなかった。ただただ同じ時間を過ごすだけ。

病室を出る時、父は当たり前のように「ありがとう」と言った。息も絶え絶えのかすれた声で。

もう言わないでくれと思った。本当にその言葉を言うべきなのは私の方だったから。だが私は言わなかった。言えなかった。元々私自身がその言葉を大切に使ってこなかったがために、私が言うとどうしても取ってつけたように感じた。

それに追い打ちをかけるように、何度頭でシミュレーションしても私が父に向けるその言葉には、終わりという影が潜んでいた。

それまでは両親に何かがあった時、自然と感謝の言葉が溢れ、余すことなく伝えられるものなんだろうと漠然と思っていた。だが現実は、父が病気を患ったその瞬間から、伝えるべき言葉であればあるほど、口にすることは許されなかった。『言えば、何かが終わってしまう』。この期に及んでまだ、終わりではないことを夢見ていた。



次第に病院でも打つ手はなくなり、二泊三日ほど父と母で関西方面にいる専門家に訪ねたこともあったが、結局成果を得ることはなく帰宅。

一度実家に父を連れて帰ることもあった。それは治療という側面よりも、『家で過ごす方が休まるのではないか』と言う父の心を慮ったものだった。だが数日の内にまた病院へ戻る形になった。

それらの行動は全て、父を除いた家族の総意だった。私たちが決めたことに父は「そうしよう」と優しく頷いた。

大阪や実家への移動。それら全てが無に帰したことで、母は自分を責めた。父の体力を削っただけになったのではないかと。そうではない、そんなはずはないと思いながらも、病室で日に日に悪化していく父を目にすると、胸が苦しくなった。

じんわりと、心に消えない何かが滲んでいく。せめてその何かを、父には見せまいと必死だった。

父からその何かを隠すように抱き抱え、病室を出ていく私や母の背中に、父は変わらず「ありがとう」と呟いた。変わらず、といってもその声は細く渇いていた。腹に水が溜まる腹水の症状を極力抑えるため、父は水を飲むことも極力制限されていた。



その腹水にもがん細胞が見つかり、全身へと転移していくだろうと、医者から告げられた。



病院から連絡があった。

「お父さんは今日の夜、もしくは明日が峠でしょう。」

母は前の晩から病院に泊まっていた。私は実家で帰省する兄を待ち、共に病院に向かった。

すでに姉も到着していて、しばらく家族4人で父を囲んで話をした。父はただ寝ているだけのように見えた。いつも私たち家族の会話をしずかに聞いて、たまに大袈裟なリアクションを見せる父を思い出す。

だが、幾度も穏やかな日常を思い描いてみても、身につけている大層な呼吸器と、いくら声を掛けようと目を覚さない父が、幾度も私たちを現実に引き戻した。



「一度家に帰って身支度をしてくる」

しばらく経ってから、母はそう言って姉と共に病室を後にした。病院から自宅まで5分とかからない道のり。恐らく所用を済まし往復しても30分ほどで戻ってこれるだろう。父と兄と私。男3人で過ごす時間はこれまで数えるほどしか記憶にない。ドラマで見るように、いつかお酒でも酌み交わすこともあるのだろうと思っていたが、こんなに早く、こんな形で迎えるとは思っていなかった。きっとそれは兄も同じように感じていただろう。



母が病室を出てから数分後、突然父が苦しみ始めた。慌てて兄がナースコールを押す。現れた看護師は慌てる様子もなく、細い管のようなものを父の鼻から通し、吸引を始めた。詰まった痰を取り除く処置を父は何度も繰り返しているであろうことを、看護師の落ち着いた様子から察した。痰を飲み込むことすら父には出来なくなっていた。

今、父には意識があるのだろうか。もしあるならば、どれほどの恐怖の中で一人戦っているのだろうか。

痛みが全身を襲い、動くことはおろか呼吸さえままならず、その中で突如訪れる息苦しさがどれほど父の心を暗い闇へ引きずりこんだだろうか。それを何度も、何度も。

代われるものなら代わりたかった。これから私が過ごすであろうロクでもない四十数年間と、これまで家族に尽くしてきた父が生きるはずだったであろう残りの二十数年間。私にとってはどちらが大事か言うまでもなかった。

父が入院してから、今日まで毎日願ってきた。神がいるならば、頼むから私にしてくれと。これほど家族に尽くしてくれた男の最期がこんな形だなんてあんまりだろう。せめてもう少し、あと少し。



信心浅く、こういう時に限って祈る私の言葉など神に届くはずもなく、再び父が苦しみ始めた。

それは先ほどのものとは違った。めいっぱいの力で強張り、震える身体によって激しく揺れるベッド。まるで呼吸器が酸素を奪っているかのように見えるほど、息苦しそうな父の呼吸音に、私と兄の鼓動も比例するように高鳴る。何かを察した兄が母に電話を掛ける。その間、私は父に呼びかけた。『待ってくれ、いかないで』、そう思いながら父の肩を握る。それが家族のため身を粉にして働き、病を患ってからも痛みと戦い続けてきた父に追い討ちをかける言葉だとしても、それでもまだ一緒に。もう少しだけ。


それからゆっくりと、身体の震えは収まり、父の呼吸の回数は減っていく。そして次第に、ゆっくりと、止まる。



その時の記憶は曖昧だが、父に異変が起きてから看護師と医者が駆けつけ何かしらの処置をしていた。しかし為す術なくといった様子だった。父の呼吸は止まったように見えたが、昔映画で見たような心電図の「ピーッ」という音はなく、父は静かに横たわっていた。私にはなんの時間なのか分からなかったが、「お母様はもう来られますか?」という、処置をやめた医者の言葉で、なんとなく察した。

母や姉、実家で共に暮らしていた毋方の祖父母が揃った頃、医者は再度脈拍を確認し、時計に目をやった。医者が告げる時刻が、私の父が逝った時刻となった。



父が最初に精密検査のために緊急入院をしてから、わずか1ヶ月半後のことだった。

父に残されていた時間はあの日から、たったそれだけだった。

まだ遠くの方で、蝉の声が聞こえていた。しかしもう、父の声は聞くことができなくなった。



父の最期の瞬間、母と姉はいなかった。兄の連絡で急いで駆けつけたが、間に合わなかった。

2人が病室に到着してすぐ、母は「なんで」と「ごめんね」を繰り返した。母が病室を出てから15分ほど。その間に父は死んだ。

「なんで傍にいない間に」「一緒に居れなくてごめんね」。今までずっと、傍にいた。なのに父は母を待たず、逝ってしまった。

母は恐らく最期を共に出来なかったことを後悔と捉えているだろう。私や兄は、毋や姉がそこに居なくて良かったと思った。

それほど、父の最期は苦しく辛いものだった。目を背けてしまいたい。そう思うほどだったが、決して背けてはならないような気がした。

「お母さんには見せたくないが、お前たちはしっかり看取ってくれ」

父がそう言っているように感じた。母に最期を見せなかったのは、父なりの優しさだったように思う。

もちろん、これは私の勝手な解釈だ。父が私たちの会話を聞いていたとは思えないし、死期を図ることなど父にできるはずはなかった。ただ、そう思えばいくらか救われる気がした。父らしい最期だと思えた。



父の亡骸に手を添えていた私の後ろで、祖父が呟いた。

「順番が違うだろう。」その声は震え、哀しみの中に少しの憤りを感じた。その言葉に気づかされた。『代われるものなら代わりたい』など、考える事すら父は許さないだろう。叶わないどころか、望まれもしない願いを私は毎晩のように願っていた。

哀しみや申し訳なさや、言い表すことができない感情が押し寄せ、涙を流しながら「ありがとう」と呟いた。



その日の夜、通夜を前日に控え慌ただしく準備が進む中、母が溢すように口にした。

「そういえば声を聞いたのは一昨日の夜病院を出る時が最後だから、お父さんの最後の言葉は『ありがとう』だったなぁ」

父は、最初からずっと覚悟を決めていたのだろうか。いつ喋れなくなっても後悔しないように、いつ最期の言葉になってもいいようにと、私たちに対して必ず「ありがとう。」を添えて見送っていたのだろうか。私たちには想像もできない痛みに耐えながら。

その覚悟に気づくことができなかったのは、父が普段からその言葉を口にしていたからだろう。父のその言葉はあまりにも自然で、違和感がなかった。だからこそ父は混じり気なく感謝を伝えることができた。

私は自分を恥じた。私自身が人生の中で「ありがとう」と口にすることを蔑ろにしてきたことで、一番伝えるべき時に何も伝えられなかったことにようやく気づいた。父の亡骸に呟いたその言葉は、絶対に父が生きている間に伝えるべきだった。どんな形でも、脈絡などなくとも、父に届けるべきだった。

父が最期まで伝え続けた感謝の気持ちとその言葉を、私は父に伝えることができなかった。

この時のために、最期の瞬間をその言葉で締め括るために、父はいつも日常にそっと添えていたのだろうか。



父亡き今、その真実を知る術はない。これも結局は私の都合の良い解釈だろう。

だが現実に父が最期に残した言葉は、最も伝えるべき最愛の人へ向けた、最も伝えるべき言葉だった。



「俺たちは別れを言う時間をもらったんだ」

消してしまっていたはずのその言葉が頭の中にじんわりと滲んで浮かぶ。私は別れを言うことはおろか、感謝も、何もかも。

父のように日々を過ごしていたら、いくらかマシだっただろうか。父のように言葉を大事にしていたら。

人前で泣くことは相手の悲しみも募るだけと泣かなかった。本当は毎日のように一人で泣いていた。素直に人前で「いやだ」と泣き喚いていれば、父にももっと素直に接することができただろうか。

どうしたって悔いは残るだろう。ただ、今抱える後悔を少しでも取り除くことができたのは、結局今まで過ごしてきた日常の中にあっただろうことを、私は全てが終わってから気付いた。



きっとその後悔は、これからずっと背負うことになるだろう。だがそれは全てをマイナスに捉え背負っていくものではなく、むしろこれからの人生をプラスに変えていくものとして。

『死はいずれ平等に訪れるもの』。それはやはり普遍的なものであり、私の中に深く根を張り私を私たらしめるものとして存在し続けるだろう。だが今は、いずれ訪れるからこそ、迎えるその日に後悔のないように。受動的ではなく能動的に、関わる人々を深く愛していけるように。

最期の瞬間まで病気と闘い、最期の瞬間まで人として在るべき姿を見せてくれた父という存在が、私の一つの目標となった。父のようになりたい。最期まで大切なことを伝えてくれた偉大な父のように。

『父のようにはならない』。そう心に書き留めていた言葉を綺麗に消し去り、胸を張って書き直した。



きっと、これを読んだところであなたの人生は変わらない。父の死を経験した私も、それ以降人生がガラッと変わったわけではなく、ほんの少し、後悔のない方向へ人生の舵を修正していくことで精一杯だ。

人生観や死生観が劇的に変わるような言葉や出来事など、きっとそれほどない。

ただ、どんな出来事や言葉も受け取り方や考え方次第で、あなたの人生は良い方向に傾いていくだろう。

私の言葉には力があるわけでもないが、ここまで読んでくれたあなたに少しだけ、私から伝えておきたいことがある。



一つは少し現実的な部分で、自身がもし不治の病に罹った時、どうしたいかを話しておく。ということ。

治療か、延命か、あるいは何も望まないのか。

私たちは父自身の望みは分からなかった。病を患ってからでは聞くことなどできなかった。私たちの行動は全て父を除いた家族の総意。少しでも長く生きていて欲しいという私たちと、父の思いが同じであることを願うしかなかった。

そうなってしまう前に、自分はどうしたいかを話しておくこと、親や子がどうしたいかを知っておくこと。

判断や決断の連続は、私たちの視界の外から唐突にやってくる。生きていて欲しいという願いは変わらないだろうが、その決断の一助となるだろう。



そしてもう一つは、『最期』とはあくまで、日常の延長線上にあるということ。

決して特別な時間ではない。人や自らの死を前に、特別優しくなれることも、特別素直になれることもない。それまでどう過ごしていたか、どう人と接していたか。それらが痛いほど如実に現れるだけだ。

それに加え、その時間は恐ろしく早く、私たちを置き去りにするかのように一瞬で過ぎ去っていく。

だからこそ、日常の中で感謝や思いをちゃんと伝えておくこと。きっとそれはその時の感情を伝えるだけでなく、誰しも平等に迎える最期の瞬間に、素直でいられる手助けをしてくれるだろう。



きっと、これを読んだところであなたの人生は変わらない。

ただそれでも私の経験や言葉が、ほんの少し、あなたが後悔のない方向へ人生の舵を切る手助けになることを願う。

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