愛慾の罪―黒い花の咲く場所で
僕は黒に惹かれる。
自分の中の性癖と呼べるようなものに気が付いたのはいつからだろうか。性というものを意識し始めた十代も前半の頃だったようにも思えるし、そんなこととは関係なく、最初から知っていたようにも思える。
黒とは、異質な色だ。
厳密には色ですらないらしい。光を呑み、錐体細胞に小さく孔を空けるようにして世界に落とされた、空白のような一滴の染みとも言えるものであり、僕たちの色覚は、それを色とは認識できないのだ。
最も死に近く。
最も死に浸る色。
だからこそ僕たちは弔いのためにそれを纏うこともあるし、安直に死の不浄と結びつけることもあるのだろう。
たったの一言を伝えるために。
それ以前の数万字を要する、僕らにとっては、それが精一杯なのだ。
「好きなものに、そんな風に理由をつけないといけないなんて、哀れね」
いつもの屋上。彼女は柵に凭れるようにして、僕には目すらも合わせず、そう口にした。
夕暮れに焼けた世界の焦げ臭さも、ここまでは届かない。四方を切り落とされた舞台の上を、スポットライトのように照らすばかりだ。
「好きなものを言語化するのは、大切なことですよ」
僕は意地になって返す。からかわれているのだろうということは、言葉にしなくてもわかっていた。
「そう? 私は言葉というものを信じていないわ。言葉は、人よりも後に生まれたものだもの」
「必要だから、言葉を作ったんじゃないですか」
「違うわね、あなたと同じ。言語未満の気持ちを抱えていては潰れてしまうから、先んじて吐き出せるように作られたのが言葉なのよ」
「まさか」僕は肩をすくめた。
「何を根拠にそんなことを。第一、あなただって言葉を使っているじゃないですか」
「ええ、使うわ。私にはよく、言葉が似合うもの」
さらり、と髪を指で梳く。オレンジ色の空に広がる髪はひどく艶やかで、まるで、画面の向こうの景色のようだった。
世界をパッケージングすることが許されるのなら、僕は今を切り取るだろう。この臨場感が損なわれてしまったとしても、ドライフラワーのように愛でることはできるのだろうから。
「……言葉にするとね」彼女は遠くを見ながら続ける。
「わかった気になってしまうの。名詞も、動詞も、なにもかも。本当は何ひとつだってわかっていないはずなのに、手のひらに包んだつもりになってしまう」
「……それの、何が悪いんですか」
「秘すれば花、なのよ。この世の全てを言語化し、詳らかにしてしまえば、そこに人間の居場所はなくなってしまうわ」
「そんなに、あなたにとってのヒトってのは悪いものなんですか」
「訊いてばかりね。でも、そう。この体で生まれたことを憎んでしまうくらいには、ヒトとは悪性の生き物だと思うわ」
空が赤く染まって。
海が青く輝いて。
地を緑が覆って。
そんな中で生きる人々は、何色なのだろう。
「黒よ」彼女は吐き捨てるように言った。柵を背に、スラリと長い脚を苛立たしげに交差させた彼女は、まるで磔になっているかのように見える。
だとすれば、彼女の罪は何だったのか。
あるいは、本来ならば、僕らみんなが罰されるべきなのか。
彼女はそれに、気が付いてしまったのか。
「僕は黒が好きです」
「そうな、なら、ちゃんと好きって言えばよかったんじゃないの?」
「……言葉にするなって言ったじゃないですか」
「伝えるのは悪いことじゃないのよ、あなたが悪いのは、酷い回り道をしていること。好きって言うだけでいいのに、そのために何行も何行も重ねて、相手にわかってもらおうとしている」
「難しいんですよ、素直になるのは。僕は捻じ曲がってしまったから」
心を吐き出す金管は、すっかり捻れてしまった。僕がトランペットなら、そこからまだマシな音が出るのだろうが、当然のように僕は人間だ。
人間であることしかできない。
悟ったふりをしても、この肉の器からは逃げられない。
「……それなら、行動で示せばいいじゃない。言葉なんかなくたって、愛を囁くことはできるはずよ」
「そっちの方がよっぽど難しいんです。触れれば、壊してしまいそうで」
「でも、あなた、手触りのない相手を信用することができるの?」
「できますよ」僕は自嘲気味に言った。
「救いようのない、馬鹿なもんでして」
じわり、じわり。
夜の色が、少しずつオレンジの空に混ざり始める。
ここぞとばかりに輝き始めた一番星は、どこか肩を落としているようだった。そんな調子では、夜が萎んでしまうというのに、ここから声を届けるには、あの星は遠すぎる。
影が伸び、黒が迫る。世界は黒く飲み込まれて、その暗幕の中で、僕らは眠りに落ちるのだろう。
そんな終わり。
誰もが目覚めた時に、定められているゴール。
それにどんな名前をつけるのかは、僕たちの自由だ。なんと呼んだとしても変わることなく、僕らは終わる。息絶える。潰える。
「それを認められるのは、美徳でもなんでもないわよ」
彼女は悲しそうに言った。いつの間にか靴は脱いでおり、爪先までを包む厚手のタイツが、背景と溶け合っていた。
「わかってますよ、僕だって死にたいわけじゃない。できるだけ長生きしたいし、自分が死ぬことを受け入れられるほど、大人じゃない」
「それなら、ここに来たのはどうして?」
「口実がいるんですか、愛ってやつに」
「あなたは、誰も愛してはいないでしょう。色に酔って、自分に酔っているだけ」
「なら、酔っ払ったままいきますよ。現実だの何だのが文句を言ってくる前に、帰り支度を整えることにします」
このやり取りにすら、きっともう意味はないのだろう。
既に僕らの立っているこの舞台は、すっかり闇に包囲されきってしまった。この帳の向こうには、もう何も存在しない。ひどく虚ろで寂しい、さざ波の音が響くばかりだろう。
手遅れなのだ、もう、何もかもが。
けれど、それでもいいと選んだのもまた、僕自身だった。
「……もう、何を言っても無駄なのね」
彼女はひとつ、息を吐いた。呆れてもおらず、かといって、侮蔑でもなく。ただただ安堵の息を、静かに漏らした。
ゆるり、ゆらり。
揺らぐ輪郭をそのままに、彼女は黒に溶けてゆく。かろうじて残った指先が、嫋やかに僕の肩に触れて、小さな潰瘍を残した。
その手を取って、僕も落ちてゆく。二人きり、9.8の加速度に従い、溶けて、混ざり合ってゆく。
どちらがどちらかもわからなくなった後で、ようやく、僕らは咲くことができるのだろう。
その色が濡れた羽のような漆黒であればいいと、ただ、そう願いながら。
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