隠匿の罪―身元不明遺体処理

「兄さま、兄さま。もう、雨が上がりましたよ」


 飲み物の中の氷が擦れる音によく似た涼やかな声に、僕の意識は引き上げられる。


 途端、鼻先に漂う据えた臭いが、重く感じていた目の奥から気だるさを取り払ってゆく。またこの吹き溜まりで目を覚ましてしまったのだと、そう自覚してしまう。


「……ああ、おはようニーナ。ごめんね、こんな時間まで寝てしまっていてさ」


 もごもごと、まだ少しだけ鈍さの残る舌を動かしながら、僕は形だけの謝罪を述べた。二つ結びの髪を跳ねさせながら彼女が応える前に、許されるとは知っていたのに。


「大丈夫ですよ、兄さま。兄さまはお仕事で忙しかったんですから、仕方ないです」


「ああ、そうか。悪いな、苦労をかけてさ」


「ううん、いいんですよ。今朝はパンが買えたんです。ほら、兄さまも」


 汗に濡れた右手で、彼女が差し出してきた黒パンを受け取る。混ざり物だらけで、正規品の小麦など片手分ほどしか入っていないであろうその食感は、ボソボソと乾ききっており、舌の奥の方で薬品めいた雑味を感じた。


 僕と妹は、物心ついたときからここで暮らしている。この星の中で、捨てられたものが最後に行き着く場所。


 腐乱しきった廃棄物の終着点で、息を潜めるようにして生きていた。


「それで、なんだが……」僕は、パンをもう一口齧る。

「あれは、しっかりと処理してくれたか?」


 僕の言葉に、妹は大きく頷く。


「はい、ちゃんと、言われた通りに燃やしておきました。残った灰は川に撒いてあります」


 首肯する。彼女は簡単そうに口にしたが、その手の平にいくつも火傷の痕があるあたり、彼女の小さな体では、随分と難儀したことだろう。


 苦労をかけていることはわかっている。今年で十三になる彼女の背が、これっぽっちも伸びないのも満足に食えていないからだ。


 ふと、前に叔父さんに言われた言葉を思い出す。


『全く、ニーナはともかく、お前さんを引き取るわけにゃいかねぇな』


 ゴミ山の向こうで鉄屑を拾って暮らしている叔父さんは、吐き捨てるようにそう言った。鉄は町で高く売れるようで、僕たちよりもずっと恰幅が良い。


『人を殺めてやがるし、何より、クセェ連中に顔が割れてやがる。可哀そうだが、ここで二人とも野垂れ死ぬしかねぇやな――』


「――兄さま、大丈夫ですか?」


 我に返る。少し呆けてたようだ。心配そうに覗き込むニーナに笑みを返すが、きっと、無理矢理に歪めた口元は引き攣っていたことだろう。


「あ、ああ、悪い。ぼうっとしていたよ。ちゃんとやってくれたんだな、ご苦労さん」


「……はい、でも、何だか顔色が優れないですよ?」


「僕が、か?」強がるように笑う。「大丈夫だよ、この通りピンピンしてるさ」


「本当ですか? だって、その傷……」


 彼女は僕の横腹を指差して、不安そうに眉を寄せた。その指の先では、青黒く変色した傷口が、今もじゅくじゅくと膿を吐き出している。


「……ああ、問題ないさ。昨日の仕事で、ちょっと刺されちゃっただけで、少し休んだら治るからさ」


「それなら、いいんですけれど……お医者様にかかったほうが、いいんじゃないですか?」


「そんなの、いくら取られるかわかったもんじゃないよ」


 僕は半ば拗ねるように、そう言った。


 仕事。なんて言えば聞こえはいいが、言ってしまえば、僕はただの人殺しだ。お金を持っている大人に頼まれて人を殺すのが僕の仕事。


 そして、ニーナは殺した人を燃やして、灰にするのが仕事だ。


 褒められた仕事ではないのはわかっている。それでも、やらなければならない。僕らが離れ離れにならずに生きていくには、こうするしかなかった。


 けれど、ようやく決心がついた。昨日の仕事の金で、やっと材料が揃ったのだ。


 あとは決行するだけ。心臓が縮むような感覚を抑え込みながら、僕は息を吸った。


「……とはいえ、流石に少しは痛むな。ニーナ、そこの薬を取ってくれないか?」


 と、鞄の中に入っている瓶を指した。

 このゴミ山では、医者などそう多くはない。捨てられた薬を拾ってきて、効果もわからないが、飲んでみるほかないのだ。


 だからだろうか。疑いもせず、ニーナは言われた通りに鞄を漁り――首を傾げた。


「兄さま、瓶が二つ入っています」


「そうかい、間違えないでおくれよ。片方は、イチイの毒だから。赤い錠剤のほうが薬だよ」


「兄さま、ニーナは色がわかりません」


「そうだったね。右手で握っているのが、薬の瓶だよ」


 そうなんですね、と。彼女はその瓶を差し出してくる。それを傾け、じゃらじゃらと手のひらの上に溢れだした錠剤を半ば貪るようにして口に運んだ。


 そして、凹んだ水筒に口をつけ、ぐびりと飲み込む。淀みきった排水ではあったが、冷たい感覚が異物感を押し流していった。


「兄さま、それで、今日のニーナはどうすればいいですか?」


 ニーナが、覗き込むようにして尋ねてきた。


 彼女は一人では生きられない。いつも僕が指示をして守ってやらなければ、もっと早くに死んでしまっていただろう。


 だから、僕は彼女のために沢山殺したのだ。生きるため、愛する妹の未来のために何人も、何人も。


 そして、今日。ついにその最後の障害を殺めなければならない日が、やってきた。


 胃の中で糖衣が溶け出す前に、僕は口を開く。


「そうだね、僕は今から仕事に行くから、ニーナは洗濯に行っておいで。帰ってきたら、ここに死体が一つあるはずだ。それを燃やしてから、カイン叔父さんのところに行くといい」


「カイン叔父さん、ですか? それはまた、どうして?」


「彼がね、屑拾いの手伝いを探していたんだ。もう、お爺さんだからね。重いものを持つのが辛いんだって」


「そうなんですね、わかりました。それで、兄さまはいつ頃お戻りになられるご予定ですか?」


「それが、今回の仕事は長引きそうでさ」胸の奥に、刺すような痛み。

「いつ帰ってこられるか、わからないんだ。それまで、叔父さんと仲良くできるかい?」


 元気に、彼女は頷く。それを見て、僕はようやく安堵することができた。


 きっと、君は大丈夫。

 好きな場所に行ける。好きなものになれる。好きなものを食べて、好きな人と共に生きられる。


 だって、今日。君の一番の敵は息絶えるのだから。


「それでは、兄さま、行ってまいります!」


 勢いよく飛び出してゆく彼女を見送りながら、僕は一つ息を吐いた。


 痛みを堪えていたからだろうか、いつの間にか滝のような汗をかいていた僕は、そこでようやく力を抜くことができた。


 その、細い背中に幸あれと、もう僕には祈ることしかできない。


「……さて、僕も行くか」


 僕は懐に手を突っ込んで、一振りのナイフを取り出した。


 二人で生きることを決めてから、ずっと共にあった僕の仕事道具。分厚い蛤刃の刀身は、刃渡りこそそこまで長くは無いものの、揺らぐ気配すらない安心感がある。


 それを固く、逆刃に握る。グリップが汗で滑らぬように、柄を親指で抑え込んだ。


 これが、僕の最後の仕事だ。


「……ニーナ、しあわせに」



 僕は刃を顔に突き立てた。

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