五つ数えて、凪の梁。
文海マヤ
望郷の罪―神宿り
駄菓子屋の店先は、過剰な陽射しのせいでひどく乾ききっていた。午前のうちに店主が打った水は既に、煩わしいほどの湿気となって辺りを漂っている。
咥えたアイスの棒から仄かな甘さが味蕾に伝う。食道の奥に残った、痛いほどの冷たさを飲み込めないまま、私は空を眺めていた。
「知ってるかい。この辺りにはね、神様がいたんだよ」
彼は、これだけ暑い日だというのに被っていた、パーカーのフードを外しながら、そう口にした。
年の頃は十代後半くらいだろうか。子供にも大人にも見える華奢な体つきと、右と左で色が違う虹彩の輝きが鮮やかな瞳が印象的だった。
「神様?」私は繰り返す。「そんなの、どこでもいるんじゃない?」
「ううん、昔はいたけど、今はもういなくなってしまった。人々は神様の加護よりも、電線を這わせることを選んだんだ」
「へえ、電線が増えると、神様はいなくなっちゃうんだね」
どこか皮肉げに、彼は目を伏せる。
「うん、昔から雷が苦手なんだ。だって、あれは悪いことをしたときに、打たれる鞭と同じだからさ」
言いながら、店先に何度も足を踏む音が聞こえる。彼が機嫌に任せて踊っているのだ。
ぎゅっ、ぎゅっ。靴底が擦れ、そのたびに削れていく。
それは、まるで魂のようだった。歩けば歩くほどに磨り減る足裏のように、私たちは心を削ぎながら歩んでいる。
「それなら、君はここで何をしているのさ」
私は何気なく訊くことにした。答えが欲しかったわけではなく、交感的なやり取りが惰性で伸びた先にあったものでしかない。
汗一つかかぬまま、彼は答える。
「昨日ね、便りがあったんだ。次にお日様が南中するときに、戻ってくるんだって」
「戻ってくるって、何が?」
「神様」彼は事もなげに言う。
「何言ってるのさ、君は自分で言ってたじゃん。神様は電線が嫌いなんじゃないの?」
「嫌いだよ、すごく嫌いだ。でも、好き嫌いが通じるのは子供の頃だけだからさ」
「神様は、大人なの?」
口にしながら、私は心の中で首を傾げた。何だか、おかしな問いかけだ。
それは、彼も同じことを感じていたのだろう。可笑しそうに口元を歪めながら、焼き付けるように二度、瞬きをした。
「……大人でないと、神様にはなれないんだ」
「でも、大人になってから一度も、神様なんて見たことがないよ」
「それはそうさ、会えるのは子供の間だけだもの」
瞳は曇るものだ。いつの間にか双肩に積まれた命題の重さは、私たちを押し潰そうとしてくる。
何者かになれと。
何者にもなれぬままここまで来てしまった私を責め立ててくる。
私はもう、失ってしまった。
世界を斜めから見るのに慣れてしまったのだ。
「主役の座は譲ってしまったもんね」風鈴の音が、彼の言葉を彩る。
「誰だってそうだ。自分のお話を描けるようになる頃には、主人公である権利を失ってしまう」
「それが、大人になるってことなんだね」
「違うよ。誰もがそうだと勘違いしているんだ」
ガラガラと、背後で音がする。製氷機が氷を吐き出したのだ。涼やかな温度は、しかし、触れた途端に指先を凍てつかせる痛みへと変わる。
暑いのも寒いのも、嫌なのだ。
だからきっと、この地球は私が生きるのに向いていない。
かつてであれば、そんな風に結論づけることもできただろう。そのくらいに、私たちは解き放たれていた。
解き放たれていなければ、ならなかった。
「……ほら、ごらんよ。そろそろだ」
彼の言葉を合図に、軒の外が黒ずむようにして暗くなった。前髪を揺らす風が、湿り気を帯びた冷たいものに変わる。
遠雷が反射的に筋肉を強張らせ、堪らず立ち上がろうとした、その刹那。
散弾銃の雨粒が、彼を頭から飲み込んだ。
その雨脚は強く、強く。私はこの古びた屋根の下で滴る水を眺めているほかない。
――私がそこに立ち入ればきっと、メッキを剥がされてしまうからだ。
「雨はね」呆然としていた折、横合いから聞こえたのは彼の声だった。「いいものなんだ、蛙は鳴いて、木々は潤って、人々は節歌う。嫌がるのは洗濯物くらいかな」
「私も嫌だよ、だって、雨は冷たいもの」
「夏の雨は温かいよ。雲の中に、お日様の温度が閉じ込められているんだから」
それならば。
私はどうして、震えているのだろうか。
わからない、止めようにも、爪先から登ってくる振動は絶えず、私の体を揺らし続けるのだ。
「暴かれるのは、誰だって怖いものね」
彼は一歩、私に近づいてきた。雨に濡れそぼった体は、それでも萎びることはなく。
水溜まりを踏み砕く音が、ひとつ、ふたつ、みっつ。
「やめてよ」よっつめを聞く前に、拒絶が喉から転び出た。
何も悪いことはしていない。そう断言できるはずなのに、胸が痛かった。何かに謝らなければならないような、炙るような焦りが、腹膜の内側に熱を溜め込んでゆく。
気付かなかった。ここは、私を責める場所だったのだ。私は今、決して許されない罪を糾弾されている。
産まれてしまった罪。
大人になってしまった罪。
そして、子供だった自分を――殺めてしまった罪。
それを自覚するためには、痛みが必要だった。無意識のうちに避けてしまう、臆病さを説き伏せる必要があったのだ。
「ねえ、わかった? 君がこの夏、ここを訪れた理由がさ」
「……わからない、わかりたくない、なにも」
「嘘だね、本当はわかっている。認めてしまえばそこまでだから、息をするために拒んでるんだ」
「息を」酸欠の肺が痛んだ。
「息をしたいと思うのは、悪いことなの? 誰にだって許された、当然の権利なんじゃないの?」
「悪くはないよ。けれど、その下敷きにかつての君がいたことを、君は忘れてしまった。それが君を苛んでいるんじゃなかったっけ?」
なにもかも。
きっと彼には、お見通しなのだろう。自分自身を騙すことは、どうやったってできない。妥協の人生に、後ろ指を指され続ける。
なら、どうすればいいだろう。
そんな時には、何に縋ればいいのだろう。
「……ほら、来たよ」
彼が囁くように言った。色素の薄い彼の肌は、幾度も幾度も雨に貫かれ、傷穴だらけではあったものの、血は一滴も流れていなかった。
私の視線も、自然と前方に固定される。豪雨の帳の向こう側。何かが、確かにこちらに近付いてくるのだ。
ぴしゃん、ぴしゃん。
それは大柄な男性に見えた。彼の頭上だけ、避けるようにして雨粒が滑り落ちているのは、天が濡らすことを厭うほどのものだからだろうか。
輪郭も曖昧なまま、人影は駄菓子屋の軒を潜る。そこまでしても、私にはその顔つきは判然とせず、胸が締まるようにして痛み、そして――。
――そして。
「おい、こんなところで何をしているんだ」
落ち着いた、低い声が私の鼓膜を震わせた。
見上げてみれば、そこには不安げに眉を寄せる父の顔があった。剃り残しの髭がどこか野暮ったさを感じさせると同時に、脊髄の裏側から、えも言われぬ感情を引きずり出した。
郷愁か、それとも困惑か。
ともあれ、行き場を失ったそれらは、両目から溢れてゆく。形を変え、頬を流れ落ちてゆく。
「ほら、ニュースで午後から雨だって言ってたのに、お前は傘を忘れて行っだろう。心配で、迎えに来たんだ」
にこやかに笑いながら父は、私に折りたたまれた傘を差し出してきた。幼い頃に、せがんで買ってもらった流行りの柄。
私は疑いもせずにそれを受け取った。ナイロン製の表面が、微かに湿っているのを手のひらに感じつつ、私は父の横に並んだ。
父の背は、私が知っている彼よりも、ずっとずっと大きいような、そんな気がした。
「今日の学校は、どうだった。雨で遊べなかったから、つまらなかったろう」
「ううん、図書室で本を読んでたから、そんなことはなかったよ」
口から流出してゆく言葉は、私のものなのに、私のものではなく。
己の罪から目を背けた私は、父と並んで歩き出した。
擦り切れたリバイバル、それをなんと呼ぶのかだけが――私たちに許された自由だったのだ。
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