89限目 一部の正常な脳細胞

 …………恐らく、あの紙がなんだか分からないにしろ、俺と名倉さんの関係性に望まぬ変化が起きたことはあの場にいたメンヘラ全員が察したはず。各々何かしら、問題にならない行動を起こそうとしたはずだ。他の三人がどうするかは分からないが……実川さんが起こした行動はこれ、ということだ。それ以上でもそれ以下でもないが……俺はこんな状況全く望んじゃいない。

 実川さんは大人しく、本棚を見たあと一冊の本を取り出した。……少女漫画のようだ。俺が読んでるのと同じのを読むようなことしてくれなくて良かった。俺が読んでるのは少年誌に載せていいのか問いたくなるくらいには結構グロい。なんならたった今主人公死んだ。

 変な汗を流しつつ、午後五時を回ったところで実川さんは帰った。この研究会はだいたい何時に帰ろうが自由だ。実川さんの足音が聞こえなくなったところで、俺は本を閉じてゴンッと机に頭をぶつけた。

「ひっ、秀康くん!? 大丈夫ですか!?」

「……すみません大丈夫です」

「大丈夫じゃなさそうだな」

「えーと、ですな、先輩方……結城氏に引っ付いてるメンヘラの1人なんでつ、あの人……」

「え……えええ!? そんな……すみませんそうとも知らず……!」

「……まぁ入部は断れないでしょうし……」

 はぁ、と溜息を吐き出しながら顔を上げると、金時先輩が何か考え込んで、あれ、と声を出した。

「えーと、付き合うことになった女は、誓約書は今日から適応って言ってたんだよな?」

「? ……そうですけど……」

「もう真っ暗だし、あの女の子1人で家に返して大丈夫か?」

「──ッ!!」

 ハッとして立ち上がった直後、待て、と脳の理性が考え無しに行動しようとする体にストップをかける。そもそもそういう誓約の元に発生した男女交際だ。こちらとしてもあの誓約書の内容……主に愛に関する部分を反故されては困るため、一応写真は撮ってある。警察沙汰にならないことを誓う……とは書いてある。手を出せば暴行罪になる可能性があるし、恐らく暴力はしないだろう。……あとシンプルに、助けたら俺だけが損をするし、多分何かしらの勘違いをされる。小学生か中学生の俺なら問答無用で助けるのだろうが、そんなだから今こんな状況なのだと思えば、一瞬「やばい」と思って立ち上がった体も再び着席する。

「行かなくていいので?」

「行った方が後々面倒なことに気づいた……さすがに暴力沙汰には及ばないと思うし、大丈夫だと……思いたい」

 それに、今日から適応だからと言ってあの女が今日から動くとも限らない。どうやって一人で4人も相手にするのか知らんが、今日実川さんを狙っている確たる証拠もない。俺は再び漫画を開いた。若干モヤモヤしていないと言えば嘘になるが……まぁ変なことはしないだろうと期待して。この状況が既におかしいという一部の正常な脳細胞は一旦黙らせて。


 さすがに7時までいると外が暗すぎるので、俺たちは揃って6時に撤収した。本当は7時まで残りたいが、この季節は寒いし、と先輩に言われれば仕方ない。それに部室の鍵を返さなければならない問題もあるのにわがままを言う訳にも行かない。

 メンヘラが待ってる、ということはなかった。何よりだ。……そして明日どうなってるか不安だ。どうかあの女がやばいことしてませんようにと祈ることしか、俺にはできそうもないのだった。




 翌朝はいつも通りだったが、金曜日になると俺を取り巻く状況は一変した。……居ないのだ、昨日まで揃って校門前にいたメンヘラたちが、名倉さん以外の誰も。

「…………」

 恐る恐る近づくと、名倉さんは妖艶に笑った。

「おはよう。ふふ、びっくりした?」

「……何をした」

「私は何にも? 菊城さんに聞いたら?」

 連絡手段がないのを承知の上で、この女……。まぁ、ここにいなくても教室にはいるかもしれない。そう思いながら教室に向かうと……いることにはいる、だが珍しいことに4人が1箇所に集まっていた。昼飯の時は俺の机で会話もなく食べているという異常な光景があるけど、それ以外の時に集まってるところなんて見たことないのに。集めたのは偉そうに腕を組んで全員を睨んでいる良木さんだろうか。誰でもいいんだが。

 席に着くのと同時に本令が鳴る。メンヘラたちも解散して席に着いて、先生が入ってきた。

「起立! 礼!」

 やる気のないおはようございますという声がし、普段と違う一日が始まったのだった。


「菊城って人何したの?」

「知らない」

 昼休み中、俺はいつも通りの面子と昼ご飯を食べていた。今日のご飯はコーンマヨパン。美味しい。

 友人たちは、休憩時間にメンヘラが俺に話しかけてこないことと、いつも時間ギリギリに登校する俺よりも先に教室にいたメンヘラたちを見て疑問に思ったようだ。というか、何をしたのかについては俺の方が知りたいくらいだが、ここでどうしたのか話しかけると厄介なことになるので、現状何かを知ることはできない。ろくでもないことなのは何となくわかる。

「警察沙汰にはならないようにするって書いてあったから、犯罪には手を染めてないと思う」

「殺されかけたやつが相手をそんな信頼していいのか?」

「……結城ぃ、あまりこんなこと言いたかないんだが……」

「?」

「警察沙汰にならないって……バレないようにやるってだけで犯罪行為になってないとは限らないんじゃ……」

 馬渕のその発言に、その可能性を考えていなかった俺と佐々木と樋口くんがしんと押し黙る中、たむたむが弁当の中に入っていたらしい金平ごぼうを咀嚼する音が嫌に楽しげに聞こえた。

「っ……流石に! 流石にそこまでは……! ……いやわかんないな……」

 あの女のことだ。警察沙汰にならなければ犯罪する、その可能性は十二分にあった。なぜそんなことも考えなかったんだ、俺……愛のことを鈍感だ気楽なもんだと笑っている場合では無い。

「やっぱメンヘラに聞いた方が良いのでは?」

「う……」

 樋口くんの言うことは至極真っ当だ。そうした方がいい、そうするべきだ。分かっている。分かってはいるが……メンヘラのうちの、誰に聞けと?

「1番まともなのは誰だ?」

「うーん……実川さんかなぁ……でも実川さん、そういうこと教えてくれないかもしれない……伊藤さんは教えてくれるだろうけど、前一応付き合ってたからちょっと気まずいし……良木さんと恩塚さんは……教えてはくれる、だろうけど……喚きそうで困る……」

 体の大きい2人だ。喚かれれば声量もそれなりになる。実際、伊藤さんと付き合うことになってしまったあと、クラスメイトが俺たちの喧嘩に気づいたのは恐らくその2人の声量のせいだった。近くにいると耳が物理的に痛いのだ。

「まぁ聞くなら俺らも協力はするぜ?」

 そう口にするのは佐々木。まさかの協力の申し出だ。お前と友達で良かった。なぜなら、そう……この陽キャ3人組は、誰か1人が「協力する」と言い出せば、残りの2人もやれやれと言った感じで協力してくれるからだ。実際、馬渕とたむたむは苦笑したあと頷いてくれた。

「しゃーねぇな」

「で、誰から聞くよ?」

「うーん……やっぱ実川さんかなぁ」

「お前実川さんのことは結構信頼してんのな」

「いや信頼とかじゃないんだけど……何故かこの前漫研に突然入部してきて、最近帰りが遅いこともあるからいちばん危険性が高い気がして」

「なるほど。今日お前デートなんだっけ?」

「あー……うん」

「じゃ、昼休みはもう時期に終わるし、実川さんどこに行ったのか知らんけど教室にいないし、5限終わったら聞こうぜ」

 たむたむの言葉に頷く。やはりあの誓約書があるからと言って、俺の学校生活は一筋縄では行かないらしい。

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