72限目 ストップかけても無駄だ

 伊藤さんには、土日のバイトは家庭の事情で休めないから遊びに行けないと伝えたが、自分が良ければ周囲の被る迷惑など知らない見えないのがメンヘラなのである。土曜の朝イチにインターホンが鳴らされ、仕事から帰ってきたばかりの母さんがいる俺は慌てて玄関を開けた。

「おはよ、陽向くん」

「朝イチでインターホン連打はやめて……母さん帰ってきたばかりだし、普通に近所迷惑だから……」

「でも陽向くんがバイト休んでくれないのが悪いんだよ?」

 俺が悪いのだろうか、それは……などと思っていると、階段の方から足音が聞こえてきた。なんだろう、と思っていると──。

「っ! 菊城……!」

「あれぇ、陽向くんパジャマだ。それと、その子誰? 彼女?」

「うん、そうだよ。……で、あなた誰?」

 にこにこと伊藤さんは笑いながら問いかける。名倉さんの変装じゃない本物の菊城さんは、問いには答えずにじっとりとした目で伊藤さんを観察した。

「ふぅん、こういうのが好みなんだ」

「そういう訳じゃ……」

「これからデート?」

「帰れ、警察呼ぶぞ」

「あはっ、気をつけてね彼女さん。こいつ、人を泥棒呼ばわりするから」

「事実だろ」

 俺が言うと、菊城さんは帰って行った。何しに来たんだ、本当に……。

「今の人、何? 怖いね」

「昔の同級生……ちょっと因縁があって」

 その後、伊藤さんには懇切丁寧にバイトがあるから、と説明し、結局デートは木曜日で、ということに落ち着いた。俺これから木曜は漫研という安全シェルターを使えないのか……。

 伊藤さんが帰るのを見送り家の中に戻ると、眠りを妨害されてヒステリー度が上がっているっぽい母さんが鬼の形相でそこにいた。あぁ、これは終わったと思うより先に、母さんの俺は悪くないのに俺を責める怒鳴り声が響いたのだった。




 まだ朝の七時だったので、もう少し寝ようと母さんの怒りが鎮まってから部屋に戻り、ぼふっとベッドに倒れた。あぁ、眠い。こんなに眠いってことがあるのかってくらい眠い。ぐっすりしてしまいそうだなと思いながら、俺は甘んじて眠気を受けいれたのだった。


 ピピピピ、という電子音で目を覚ます。起きると、朝の九時だった。そろそろ起きなければ……母さんの昼ごはんを作る必要がある。だがまだ寝足りないのか、ベッドから降りた途端べシャッとその場に転んだ。下の階の人に迷惑をかけてしまったな……立ち上がるも、妙に頭がクラクラする。

 若干ふらつきながらリビングに行くと、喉が渇いたのか母さんが水を飲んでいた。俺が起きたことに気がついて振り向いて、何故かギョッと目を見開く。

「陽向……貴方顔真っ赤よ?」

「……転んだから?」

「いやそういうのじゃなくて……!」

 母さんに体温計を渡され、しばらく脇で挟む。少しして電子音を立てた体温計を見ると、7度5分。微熱だが熱は熱だ。なるほど、妙な眠気とふらつきはそのせいかと、どこか冷静に判断する。

「バイトは休んで、今日は家事はいいから寝なさい」

「ん……」

 母さんは戸棚から薬を出しながら俺に言った。数時間前鬼の形相してた人とは別人だな……。

 店長に電話をして、水を飲んだあと俺は布団に潜った。しかしこういう状況だと帰って眠れないもので、俺はただぼんやりと天井を眺めていた。熱の原因には心当たりがある。十中八九ストレスだろう。くそう、まだメンヘラには何も言われてないというのに早くも熱を出すのか俺は……こんなんじゃ学校で血反吐を吐きそうだ。それに伊藤さんのあの様子では、交際を教員側が知るのも時間の問題だろう。何しろ俺も俺に引っ付いている1人として伊藤さんも有名だ。俺に彼女がいると勘違いして刃物を持ち出し保護者召喚された伊藤さん俺の交際とか、あの場にいた先生たちからしたら意味わからないに決まってる。出来れば広まって欲しくない……が、もうクラスだけでなくクラス外にも既に広まっている。今更伊藤さんにストップかけても無駄だ。あぁ、目立ちたくないのに……。

「はぁ……」

 熱い溜息を吐き出した時、インターホンがなった。母さんは出かけて行ったから出ないし、起き上がるのも怠いので居留守を使おうと思ったら、スマホが光った。愛からメッセージが来た。


愛【陽向もうバイト行っちゃった?】


「…………」

 愛か。家に直接来るということは、弥生さんになにか持たされたのかもしれない。顔を見たいと思ったがやはり怠さには勝てず、メッセージを返した。


結城【ごめん、熱出てて玄関行くのつらい】


 すぐに既読はついたが、外廊下を駆けていく音がした。直ぐに窓の方からガラッと言う音がした。

「だ、大丈夫陽向!? 看病しに行こうか!?」

「…………」

 心配症だなぁ。起き上がり窓の外に顔を出すと、愛が身を乗り出すようにこっちを見ていた。あまりにも切羽詰まった顔をしているので思わず笑ってしまう。

「笑い事じゃないよ! 何度あるの!? ご飯は!?」

「微熱だから大丈夫。飯は……どうしような」

「もー! 何なら食べれる!? 支給品持っていくから鍵ちょうだい!」

 そこまでしなくてもと思うが、好意にはありがたく甘え…………だめだ!甘えるわけには行かない!どこで伊藤さんが、どこで菊城さんが見てるか分からないのに、俺の家の鍵を持って家に入るなんて所を見られたら修羅場どころじゃない!

「……じゃぁ、inゼリー買ってきて欲しい。窓に投げてくれればいいよ」

「あ……そう? わかった……」

 愛も伊藤さんの危険性を思いついたのか、楽観的な普段の考えを撤回したらしい。窓を閉めて出かけて行った。俺はまたベッドに倒れ、愛の帰りを待つのだった。


 いつの間にか寝ていたらしい。喉の乾きで目を覚ますと、できるだけ丁寧に投げ入れたらしいゼリーとスポーツ飲料が部屋にあった。他にレトルトのお粥なんかがある。時間は昼だ。窓の外を見ても愛はいないので、多分昼ごはんを食べているか出かけるかしているのだろう。急激に腹が減ってきて、俺はinゼリーを手にした。こういう時いつも思うのだが、空腹と食欲のなさが共存するこの状態って何とかならないのだろうか。




 翌日には熱は下がったが、飲食店という職種柄もう1日休むように言われていた俺は、今日もベッドでゆっくりしていた。母さんには言ってあるが、今日は家事しなければならないので、あまり寝てる訳にも行かないのだが。

 だが時間があるのはありがたい。復習とかする気力は無いが、明日に備えて英気は養いたいところだ。

「陽向ー」

 聞こえた声に起き上がり窓の音を見ると、愛がぱっと笑った。

「よかった。今日は元気そうだね」

「お陰様で」

「そうだ、昨日の用事だけど、おばあちゃんから沢山葡萄が送られてきたの。食べる?」

「いいのか? ほしい」

「わかった、今から持ってくね」

 愛はそう言うと、パタパタと部屋から出ていった。俺も部屋から出て、玄関の鍵を開ける。少しして、インターホンがなったのでドアを開ける。愛が満面の笑みで葡萄の入ったビニール袋を渡してきた。

「はい、これ」

「ありがとう。美味しそうだな。なにかお礼したいんだけど……」

「そんなの気にしないでいいよ!」

「でも昨日も世話焼いてもらったし……あ、そうだ」

 俺は部屋に戻って、財布の中から働いているカフェの半額券を2枚取りだした。実は店長に、友達にあげるでも自分に使うでもいいと言われて貰ったのがあるのだ。二枚では陽キャたちに渡すには足りないしどうしようかと思っていたし、ちょうどいい。愛と、愛の友達に渡してくれればいいだろう。

「はい、これ」

「え、カフェの半額券? いいの?」

「うん、友達と2人で使って」

「ありがとう陽向! 早速次の土曜に使おうかなー?」

「……恥ずかしいから出来れば早帰りの平日で……」

「あはは、はいはい。じゃぁありがとうね!」

 愛は家に戻っていった。英気の養いは順調に行われていったのだった。

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