58限目 楽しくなりそうだ!
外では、愛が心配そうな顔をしていた。俺は安心して、膝から崩れるようにその場に座り込んでしまった。
「大丈夫? 怪我してない?」
「……」
短く頷くので精一杯。思ったより昔の恐怖心は、俺に深く刻まれていたようだった。
愛がしゃがんで、俺の手を握って、ようやく手が震えていたことに気づいた。その少しあとに、手だけではなく全身が細かく震えていたことに気づいた。情けない、かっこ悪いと思ったが、愛の暖かい手に触れているうちにその感情は薄らいで、ようやく感情が流れ出てきてくれた。
ボロボロと涙が零れてきた。あの時味わった寒さと、暗さと、心細さが。着々と奪われる体温と、薄れていく意識が。いつよりも身近に感じた死の恐怖が。全てがまざまざと蘇って全身に取り憑いて、このドアを開けられたら俺は死ぬんだと、ありえないことまで考えて。ありえないと分かっているのに怖かった。こんなにもはっきり、菊城香麗奈という人間がトラウマになっているとは思わなかった。
「大丈夫、大丈夫だよ陽向。もうここには私しかいないよ。怖かったね。よく頑張ったね」
涙を流し続けて、少し嗚咽が出てくる俺を、愛は優しく抱きしめた。ぽんぽんと背中を撫でられ、段々気持ちは安定してきて、やがて嗚咽も涙も止まった。酷く喉が渇いていて、空咳が出た。
「……ごめん、愛」
「いいんだよ。気にしないで。ごめんね、見かけた時点で通報しとけばよかった」
「……多分それじゃ警察は動いてくれないだろうし……ここにいてくれるだけで心強い」
少し笑うと、愛も笑った。やがて、さて、と言って立ち上がった愛は、俺も立たせて家に上がった。
「ママには言っておくからさ、陽向ちょっと休んでなよ」
「え?」
「家事は代わりにやってあげる!」
「え……さすがにそれは……」
「いいのいいの! 私も勉強ばっかりだと息が詰まっちゃうし! 陽向は部屋で休んで!」
こうなると愛は何を言っても無駄だとは知ってる。俺は諦めて、なら、とその申し出を受けいれた。水を一口飲んでから部屋に戻って、ベッドに倒れる。窓を開けても風はなかったため、窓を開けずにクーラーをつけた。掃除機の音が聞こえた。自然と煩く感じず、むしろ少し心地がいい。休んでいる、という状況を深く実感できているからかもしれない。そのうち眠くなってきて、そういえば寝不足だったと思い出して、俺は目を閉じた。寝るつもりはなく、目を閉じるだけの気分だったけど、閉じてしまうと段々そんなつもりも消えていって、色々あって疲れた俺は、やがて眠りに落ちていった。
いい匂いがして目を覚ました。欠伸を零して部屋から出てキッチンへ向かうと、愛が味噌汁を作っていた。
「あれ、起きたの?」
「いい匂いがしたから。……弥生さんに連絡した?」
「したよ。菊城さんのこともちゃんとね。陽向のことすごく心配してた」
「そっか。……なにか手伝うか?」
「んー、料理はいいんだけど……あ! 洗濯物! いつもどう仕分けて洗濯するのか分からなくて」
「あぁ、なるほどな。わかった」
脱衣所へ向かい、洗濯物を仕分けて洗濯機を回す。リビングに戻る途中、慌てたような愛の声が聞こえて少し走って向かった。
「どうした?」
「どうしよう陽向! わかめ戻しすぎた!!」
「んっふ……」
思わぬ天然発言に笑ってしまった。笑わないでよと愛は顔を真っ赤にしている。
「ごめんて。時雨煮風にしとこう。俺もやったことあるから」
冷蔵庫から料理酒、醤油、みりんを、戸棚から粉末出汁を取り出す。戻しすぎた分をとって、俺は適当に煮始めた。
「すご……流石手慣れてるね」
「あまり嬉しくないな……」
これはつまりはそれくらい俺が家事をやっているということだ。俺も高校を出たら一人暮らしになるだろうし、料理スキルは必須……だが、ここまで手際が良くなる必要はあるのかとも思う。……まぁ愛に尊敬されるなら悪いことでもないか。
やがて料理が終わった。今日は思わぬわかめの戻しすぎがあったため、いつもよりおかずが多めだ。
「完成かな。ありがとうな愛」
「どういたしまして!」
「あ、これ良かったら。持って帰って食べて」
俺は小さめのタッパーに時雨煮風のわかめを入れて、愛に渡した。
「え、いいの!?」
「うん、お礼」
「やった、ありがとう!」
ニッと愛は笑った。家まで送ると言ったのだが、心配し過ぎだと笑われてしまって、結局見送るのは玄関までになった。
「ありがとう陽向! 戸締り気をつけてね!」
「そっちもな」
愛はドアを閉じて家に帰っていった。カンカンという階段を歩く音が響いていた。
「…………」
……菊城さんは一体何をしに来たんだろう。転校させられたことを恨んでいるのだろうか……今更?しかもあんなに自業自得で?本当にもう、あの人種は何を考えているのか分からない……。母さんに言うべきだろうか。いやでも、高校生にもなって母さんにそんなことを頼っていいのか?
……まぁいいか、話さなくても。それにあの迫力というか無理矢理具合、どう考えても謝罪とかではないだろう。今日はびっくりして咄嗟に言えなかったけど、次きた時は警察を呼ぶとか言おう。
……と、ご覧の通り俺は1度過ぎたことに関しては結構楽観的な見方をする。色々あったけど結局何とかなったし、まぁ少し注意してればいいや、が基本のスタンスだ。何故って、これまでも絶望的な状況に置かれながらも何とかなっていたからだ。それに悲観的に物事を捉えていると、精神がもたない。
…………そんな俺の楽観的なところが、休み明けにとんでもないことを起こそうとは、この時は当然考えてなどいないのだった。
部屋に戻って宿題をしていると、陽キャたちとのグループLINEにメッセージが入った。佐々木からだ。
佐々木晴也【プール行かん?】
「…………」
どこのプールに、いつ行くのかという具体的な話は何もないのに、馬渕とたむたむが即了解の返事を送っている。少しは具体的な話を聞こうよ。
結城【いやいつどこのプールに?】
佐々木晴也【いつってのは決めてない。部活なくて、結城がバイトない日】
たむたむ【サッカー部は31日が休み】
まぶち【バレーもだな】
佐々木晴也【結城バイトいつ休み?】
結城【バイトは基本休みもらえるけど】
たむたむ【お!じゃぁ31日で良くね?】
……それは困る!!
結城【ごめんその日は予定が……】
まぶち【予定?なんの?】
たむたむ【何?デートか?】
結城【デートってわけじゃ……】
佐々木晴也【でもデートなんだろ?知らんけど】
うう、愛と夏祭りに行く予定が、とか言いたくなさすぎる……!絶対からかうだろ!返事に詰まっていると、ところで、と馬渕が言い出した。
まぶち【まぁ結城の予定があるから別の日にするとして、どこに行くんだ?】
佐々木晴也【ウォーターガーデン】
……すごい所に連れていこうとしている。プールなんてろくに行ったことない俺ですら知ってる、でっかいプールだ。
たむたむ【足どうすんの?】
佐々木晴也【父ちゃんが長く有給貰うって言ってる! 最近出張から帰ってきてさーお前らの話したら日時決まれば連れてってやるって!】
いい人だなお父さん!
結城【31日以降の月木なら空いてる】
佐々木晴也【おけ!じゃぁこっちもそれに合わせるわ!】
ふふ、と口元が緩む。夏休みに夏休みらしいことをするなんて初めてかもしれない!今年の夏は楽しくなりそうだ!
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