43限目 触らぬ神に祟りなし

 リビングで母さんと向かい合って座る。いつぶりだろうか向かい合うなんて。

「実は今日、陽向に電話する前に……香麗奈ちゃんが来たのよ」

 瞬間、俺の顔から血の気が引いたのがわかった。香麗奈……菊城きくしろ香麗奈かれな。二度とその名前を聞くことはないと思っていた。正直、彼女は他のどのメンヘラたちよりもやばい類だった。

「……なんで」

「久々にこっち来たから挨拶、って言ってたわね……陽向くんいますかーって言ってて、まだ学校って答えたらじゃぁしばらく待ってようかなーとか言ってたから、帰らないように言ったのよ」

 それは母さんグッジョブ。俺としても鉢合わせたくない。

「もしかしたらまた来るかもしれないし、戸締り気をつけてね。お母さん仕事行ってくるから」

「あ……うん。行ってらっしゃい」

 見送り、鍵をかける。


 菊城香麗奈との嫌な記憶は、小一の頃に遡る。

 当時菊城一家は俺たちの隣の部屋に住んでいたが、あまり話すことがなかった。メンヘラをあれだけ釣りあげた俺だが、彼女に対しては関わっては行けないと、本能的に感じていたのだろう。香麗奈、という可憐な名前だが、彼女は太っていて、いつも口元に食べかすが付いていて、ツインテールにしている髪もくしゃくしゃだった。女の子を表現するのにこんな言葉もどうかとは思うが、彼女はいつもニタニタと気味悪く笑っていて、学校ではいじめられることすらなかった。触らぬ神に祟りなし、という存在だったのだ。

 もちろん積極的に話しかけられることすらなかった彼女は、家が隣という俺に対してばかり話しかけていた。俺も会話なんかさっさと切り上げていたのだが、話したくないという雰囲気を察するのが出来なかったのか、俺が気のない返事をしてもいつまでも俺に対して話しかけていた。隣の家だから話しかけても仕方ない……そんなことを思いながら過ごしていたある日、クラスの女子がなにかヒソヒソと話しているのを聞いた。どうやら、「あの服、菊城さんのじゃなくない?」と話しているようだった。

 その日、彼女はピンク色のワンピースを着ていた。彼女は服装のバリエーションが異様に多かったのだ。ピンクのワンピースはとても目立っていたが、女子たちの話を聞いて、そういえば、と俺も思った。あの服は、名前は覚えていないが同じクラスの女子が気に入っていて、よく着てくるものだった。菊城さんが着るとパツンパツンになっていて同じ服を着ているとは思えないが。

 さらにクラスでは、気に入っていたペンがない、消しゴムが無くなった、メモ帳のページが沢山減っている、などなど犯罪まがいの行為が起こり、菊城さんが犯人じゃないかと疑われた。

 さらに俺の家でも、買ったはずの調味料がないとか、日用品がなくなっているということがあった。気付くのはいつも、菊城さんの母親が来た後だった。……まぁここまで来ればわかるとは思うが、つまり菊城さんのお母さんは俗に言う泥ママで、菊城さんも盗むことをなんとも思っていないのだ。

 ついに学校側が調査を始めたところ、悪い事だとすら思っていない菊城さんはあっさりと、「だって気に入ったものは貰っていいってママが言ってた」と言った。この発言にクラス中がゾッとしたのは間違いない。家に帰って母さんに話すと、やっぱり、と頭を抱えていて、関係を断ち切ろうとしていたが……さすがに隣の家、こちらが引っ越さないことにはどうにもならないのだ。


 ここで、窃盗癖が治れば良かったのだが、彼女は息をするようにものを盗むため、当然直ぐに治ることはなかった。何度も咎められ、保護者が呼ばれてからようやく少し被害が減っていた。そして2月、事件は起こった。

 体育の授業の後、ある女子生徒がハンカチを落として、そのまま言ってしまった。すると菊城さんはキョロキョロと当たりを見たあと、それを自分の体操着のポケットに入れたのだ。先生に頼まれて校庭の倉庫に小さいハードルを片していた俺は、思わず「盗む気!?」と彼女の背中に向けて叫んだ。驚いた彼女はドタドタとこちらに走ってきて、そのまま体当たりしてきて、勢いよく倉庫の扉を閉めた。恐らく、見られてパニックになったための咄嗟の行動だったのだろう。突き飛ばされた俺は、急いで菊城さんを追おうとして扉を開け──開けられなかった。

「……あれ?」

 開かなかった。

 もともと古く立て付けの良くない倉庫だったため、強い力で閉められた扉は開かなくなってしまったのだ。小学生ごときがどうこうできるものではない。暗くて狭い倉庫、しかも冬で隙間風も入ってくる。防寒できるものはジャージのみ、しかも上だけで下は体操着のハーフパンツ。途方に暮れた俺は、その場にへたりと座り込み、ひたすらどうしようかと考えたが、今できるのは助けを待つことだけだった。

 後に聞いた話では、もちろん次の授業が始まる時に先生が気づいたらしい。どこにいるか知らないか、と先生が言った時に菊城さんが、「倉庫から出るまでは一緒にいた」と言い出したのだとか。先生は保健室やらトイレやらを探しに行き、とうとう先生たちはほぼ総出で俺を探し始めた。ドアをドンドンと叩いていればもっと早かったかもしれないが、痩せていた俺の体力はどんどん奪われていて、寒さに耐えるために縮こまっていたので、そんなアピールもできなかった。

 やがて隣のクラスの担任が倉庫の立て付けが悪いことに気づき、他の先生に扉を開けるのを手伝って欲しいと呼びかけ、数人の力でようやく扉が開いた。

「結城くん!」

「大丈夫か!?」

「ほら上着着ろ、寒かっただろ!」

 菊城さんの証言のせいで俺の発見は遅くなり、ほぼ半生半死だった。

 先生の上着を着させられ、真っ青になっていた俺は到底歩くことが出来なさそうだったため、先生に背負われて保健室送りになった。暖かい部屋で湯たんぽも貰って毛布にくるまったら安心して寝てしまい、帰りのHRが終わったあとで保健室の先生が起こしてくれた。


 HRのあと、担任はすぐさま俺の親と菊城さんのご両親に電話。もっとも母さんは仕事に出ていたので、テスト期間で偶然家にいた姉ちゃんが学校に来たのだが。菊城さんはお父さんがまともな人だったらしく、俺と姉ちゃんに土下座までして、菊城さんの頭も深く下げさせていた。当然俺は高熱を出したのと、トラウマになったのが合わさって、しばらく倉庫の中に入りたくなくなってしまったが、担任が考慮してくれたため、道具の準備や片付けを頼まれることがなくなった。

 話は保護者間で広まってしまったらしく、さすがに居づらくなったらしい菊城さん一家は春休み中に引っ越して転校した。そんな感じでようやく関わらずに済んだのだが、当然今でもトラウマだ。本気で死ぬかと思ったのだから。しかもあの後あんだけ親に叱られただろうに、また俺を訪ねてくる神経が分からない。

「はぁ……」

 また面倒事が増えた。さすがにもう高校生、力づくで何かされても何とかなるだろうが、面倒ごとはないに限る。少し憂鬱な気分で部屋に戻ると、晩御飯に呼ばれたのか、愛はいなかった。俺も家事を済ませようと、再びキッチンに向かった。


 諸々終わらせて、俺は部屋に戻った。愛も戻っている。愛にだけは伝えておこう、愛もペンを盗まれているのだし。

「愛」

「陽向! 美咲さんなんの話だった?」

「それが……うちに菊城さんが来たらしくて」

「菊城って……え、菊城香麗奈?」

「そう……もしかしたらそっちにも行くかもしれないから、1人の時とか戸締り気をつけて」

「分かった……ありがとう。でも陽向大丈夫? 正直トラウマでしょ?」

「まぁね……でも俺は男だし何とかするよ。愛こそなんかされないようにな」

 もちろん愛がSOSを求めてきたら駆けつける。むしろ、来てくれた方が楽かもしれない。これ以上付きまとうならストーカーとして警察を呼ぶぞ、とでも言えばいいのだから。

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