五章 人生は土俵の上で
病室のベッドに横たわった正気の顔は蒼白だった。つい先ほど倒れたばかりだ。ベッドの脇で七海が涙を流している。ベッドサイドのカレンダークロックが十月二十七日午後四時二十分を表示した。
「まーくん……」
静寂が訪れて、七海の鼻を啜る音だけがする。彼女のそばに立っている明日香は母親の肩を優しく抱いていた。廊下の方からバタバタと足音がする。入り口に制服姿の蓮が姿を見せた。息が上がっている。
「和谷さん!」
蓮はベッドに駆け寄って、正気を見下ろした。そのまま膝から崩れ落ちて、ベッドの縁に突っ伏した。流れ落ちるのは汗なのか涙なのか分からなかった。
「なんでこんな──」
「おい、死んでないぞ」
「──うわ、生きてた!」
蓮が後ずさると、正気は皺だらけの瞼を開けた。目が充血している。
「失礼な奴だな」
「いや、だって……」蓮は明日香を指さす。「『父が倒れました。病院に来て下さい』って言われたんですよ、敬語で。さすがに敬語は覚悟するでしょ……」
明日香は笑いを堪えて不細工な顔になっていた。蓮は声を震わせた。
「お前……その冗談はダメだぞ」
「冗談じゃないもん。倒れたのは本当だもん」
七海がずっと俯いている。彼女は静かに疑問をぶつけた。
「この二週間、ほぼ寝てないって、どういうこと?」
さすがに、正気はもう隠し事はできないと観念したのだろう。ここ二週間、高校との度重なる話し合いと明日香のケア、そして剥がし屋を特定するための調査を寝ずに行っていたことを白状することになった。
「私に内緒で?」
「それは、すまん」
正気は横になったまま謝った。寝たまま謝れるのは病床にいる人間だけに許された特権だ。
「もう若くないんだから、無理しないの」
「男はみんな自分の中に少年を飼っているのだ」
「じゃあ、これからは中年を飼ってちょうだい」
そういう問題ではないのだろうが、七海にとっては真面目なことだった。
正気には検査入院が言いつけられた。その後に入院する可能性もあるという。医師の判断の背景には、明日香の自殺未遂も絡んでいるようだった。
「明日香、すまん。剥がし屋を──」
「それは私に任せて」
七海は悩んでいた。
「パパについていたいけど、そうすると、あすちゃん一人になっちゃうわね……」
「良い案があるぞ」正気がニヤリとする。「風呂が借りられたんだ。家も貸してくれるだろ。なあ、蓮?」
蓮はなんとも言えない表情だ。
「絶対そう来ると思いましたよ。まあ、両親に聞いてみますけど」
賢明な読者諸君ならば、あの蓮の両親が断るはずもないことを知っているだろう。そして、その通りに、明日香はこの夜から江口家に数日間世話になることになった。
「いらっしゃい」
江口家のリビングで、千夏は満面の笑みだった。明日香は深く頭を下げた。
「すみません。お世話になります。お手伝いとか何でもやりますので」
「いいのよ、自分の家だと思ってくつろいでくれれば」
洋介が横から首を突っ込んでくる。
「じゃあ、俺のスイングを見てもらえるかな?」
「スイング?」
興味深そうに目を丸くする明日香を小脇にどけて、蓮が勢いよく洋介を床に転がす。
「父さんはちょっと黙っててくれよ」
「おい、父親を転がすな!」
「明日香ちゃんが寝る場所、どうしようかしらね?」
明日香は恐縮している。
「お構いなく。本当に、その辺で大丈夫なので」
「そういうわけにはいかないわよ。でもまあ……」千夏はニヤニヤした顔を蓮に向ける。「若い者同士でもいいわよねえ」
「いいわけねえだろ」蓮が吼える。「父さんと母さんが二人で寝ればいいだろ。そうすれば、母さんの部屋が空く」
「じゃあ、そういうことにしましょうか」
転がったままの洋介が蓮を見る。
「全然いいんだぞ、蓮」
「何がだよ」
「ひとつ屋根の下、何が起こるか分からないからな」
「父さんがひとつ屋根の下って言うと別の意味が出てくるんだよな。っていうか、いつまで転がってんだよ」
明日香はイタズラっぽい笑みを浮かべて言った。
「私は別に一緒の部屋でもいいけどね」
その言葉を聞くなり、洋介と千夏は「ひゅ~ひゅ~」と言いながら躍り回った。楽しそうである。
「なに喜んでんだよ!」
蓮が叫ぶ。明日香もバツが悪そうに、
「すいません。冗談です、冗談」
と頭を下げまくる。
しばらくして、千夏が夕飯の準備に、洋介が寝床の準備に向かうと、リビングに二人だけになった蓮たちは顔を見合わせた。蓮はずっと引っ掛かっていたことについて単刀直入に切り出した。
「病院でお父さんに言ってたよね。剥がし屋のことは任せてって。あれ、どういう意味?」
明日香は人差し指を立ててニヤリとすると、持って来たリュックの中からノートを一冊取り出した。正気がつけていた剥がし屋についての記録だ。
「勝手に持って来たの?」
「そんなことより、ずっと気になってたことがあるんだよ」
明日香は剥がし屋の被害者リストに書かれた一人の名前を示した。都立慧陵国際高校校長の美濃逸郎だ。
「この人がどうかしたの?」
「ピンと来ない?」
「来ない」
明日香はスマホを操作して、あるウェブサイトのページを表示させて蓮に見せた。都立慧陵国際高校の校長紹介だ。精力的な顔つきの男が美濃校長だ。
「遍歴のところ見てみて」
蓮が素早く目を通した遍歴の項目にこうある。
二〇一八~二〇二一年度:都立桜が丘高校校長
二〇二二年度より本校校長
「あれ、ウチの高校の校長だった?」
「みんなに〝みのもんた〟って呼ばれてたの覚えてない?」
「あ~、もんた校長!」念のために。美濃校長はみのもんたとは似ても似つかないことをここに記しておく。「……いや、え? ちょっと待って……」
蓮が記憶の糸を手繰り寄せるより早く、明日香はうなずく。
「駒田くんと私、そして美濃校長が桜が丘高校に関係してる」
「ウソだろ……」
明日香は再び人差し指を立てた。
「もうひとつ」
「まだあるのか?」
明日香はツイッターのあるアカウントのツイートを表示させた。卒業アルバムの一ページを撮影した写真だ。ツイートにはこうある。
逮捕された兼光幸秀って教師、ウチの学校にいたんじゃん
女子バスケ部の顧問として集合写真に納まっている兼光に丸が付けられている。生徒たちはユニフォームを着ていて、その胸には「桜が丘」と書かれていた。
「マジか」
「調べてみると、去年までウチの高校にいたらしい」
「七人中四人がウチの高校の関係者?」
「そういうこと」
「すごいな……」
「うん。この関連性はちょっとすごすぎるよ」
「いや、そうじゃなくて、明日香が」
「私?」
「俺や君のお父さんはそこまで調べられなかった」
「優秀でごめん」
明日香は舌を出しておどけてみせた。これまでずいぶん分量を割いてきて、その間に何も突き止められなかった正気と蓮が無能みたいである。
「イラつくからやめろ」
明日香は笑ったが、すぐに真顔を取り戻した。
「小野寺って人は二〇二一年度まで区の教育委員会教育長を務めてた。そう考えると、教育関係の人ばっかり。パパと蓮パパが狙われた理由は分かんないけど」
「蓮パパって……」れんは不思議な呼び名に首を捻る。「でも、父さんはPTA会長だったから、高校には深く関わってたよ。二年前のことだけどね」
「え、待って。じゃあ、パパだけ一番雑魚じゃない?」
「その表現はひどすぎるだろ……」
「だって、パパだけ平社員みたいなもんじゃん」
権限的にはもはやバイトかもしれない。
二人がこの奇妙な符号にビビっていると、洋介がひと仕事終えた顔をして戻ってきた。
「明日香ちゃん、いつでも寝られるようにしといたから」
「すいません、ありがとうございます」
頭を下げる明日香の手元にあるノートに洋介は興味を示した。
「二人で何してるんだ? ネタ合わせ?」
蓮はノートを閉じた。
「なんでそうなるんだ。せめて受験勉強だと思えよ」
「人生はな、勉強ばかりじゃないぞ」
「それ、受験に落ちた人にかける言葉だからね」
「今は剥がし屋のことを調べていて……」
明日香がそう言うと、洋介はテーブルの向かい側に腰を下ろした。
「ああ、そういえば、蓮がなんかごちゃごちゃ言ってたな」
「整体院のデマ流されただろ。なんで他人事なんだよ」
「霜田区に関係ある被害者で、ウチのパパだけが雑魚だねって話してたんです」
洋介は思い切り顔をしかめて蓮を睨みつけた。
「なんてこと言うんだ、人様の親に対して」
「俺は言ってないんだよ」
「どれどれ……」洋介は明日香からノートを受け取ってパラパラとめくっていった。「しかし、明日香ちゃん、ずいぶん無骨な字を書くもんだねえ……」
「それ書いたのウチのパパです」
「あすパパ?」
洋介がチラリと明日香を見る。明日香が何事もなかったように「はい」と答えると、蓮はぽつりとつぶやく。
「そういう言い方、流行ってんの?」
「はぁ……」洋介は感嘆の声を漏らした。「あの人もこんなに律儀なことできるんだねえ」
人様の親に対してずいぶんな口の利き方をする洋介に、明日香は首を傾げた。
「ウチのパパのこと知ってるんですか?」
「だって、あの人、二年前のPTAの会合で俺とバトルしたことがあるからね」
蓮は悩ましい声を上げた。人様の親とバトルをする自分の親が矮小な存在に思える。
「そういえば、そんな話してたな。っていうか、なんでバトルするんだよ。話し合えよ」
「いや、アレはな……向こうが急に仕掛けてきたんだぞ。だから、俺は言ったんだよ。『あすパパ、落ち着いて下さい』って」
「その時はまだあすパパって呼んでないだろ」
「そしたら、もう暴れ出してな……」
明日香は七海から聞いていた話を思い返していた。
「ママも言ってたな……。パパが私を守るためになんたらかんたらって」
洋介は正気のノートのとある名前を指さした。
「明日香ちゃん、本当に当時こいつと付き合ってたのか?」
「え?」
洋介が指さしていたのは、駒田孝弘の文字だった。蓮は思わずノートと明日香の顔の間で、首をもぎ取れそうなほど視線を往復させた。明日香は即座に否定する。
「そんな事実ないですよ! そもそも直接会ったこともないと思います」
「いや、でも確か……この駒田って子と明日香ちゃんが付き合ってるんじゃないかみたいなことが争点になって……で、あすパパがキレたんだぞ」
「PTAの会合で恋愛リアリティーショーでも観てたのかよ」
「違う違う。確か……どこかのクラスの子が不登校になって、いじめ疑惑が起こったんだよ。調べたら、SNSでその子が集中攻撃を受けてたらしいことと、その主犯格が駒田くんらしいってことが分かったんだ。で、SNSの使い方やらなんかを話し合う機会があって……、その会合がいつの間にか犯人探しの場になっちゃったんだよ」
「なんだよそれ。めちゃくちゃじゃん」
「実際めちゃくちゃだった。その流れで明日香ちゃんの話も出てきたわけだしな。その後、この件が有耶無耶になって……それからどうなったのか、分からないんだよな」
じっと考え込んでいた明日香はノートを引き寄せた。しばらくノートとにらめっこしていた彼女は興奮気味に口を開いた。
「それ、二年前なんですよね?」
「そうだな」
「二年前って……みのもんたも兼光先生もウチの高校にいた時期じゃん」
洋介はギョッとしたような顔をする。
「みのもんたぁ?」
蓮は父親を無視してノートを覗き込んだ。
「そうだ! ってことは、これってもしかして、二年前のそのPTAの会合に関係してる人たちってことなんじゃ……」
明日香は興奮を抑えられない様子だ。
「え、待って待って。じゃあ、霜田区に関係がある人たちって全員そのいじめに関係してる人ってこと?」
蓮は呆然として天を仰いだ。
「その人たちが狙われたってことは、動機があるのは一人しかいない」
「いじめられていた生徒」
蓮と明日香の声がユニゾンを奏でる。二人の視線を一身に浴びた洋介は、困ったように顎を掻いた。
「肝心のそいつの名前を覚えてないんだよな」
「なんでだよ」
蓮は藁をもすがる思いで岡島に電話をかけた。数コールで反応がある。蓮はスピーカーフォンにしてテーブルの上に置いた。
『お前、俺の行動監視してる?』
開口一番、岡島はスパイみたいなことを言い出した。
「なんで?」
『今、ちょうど予備校が終わったところなんだが?』
時計は午後七時半を少し過ぎたあたりを指している。蓮は上ずった声で岡島に尋ねた。
「あのさ、二年前にウチの学校でいじめがあったのって知ってる?」
『ああ、磯貝のこと?』
「磯貝?」
明日香は話を聞きながら、正気のノートにメモをした。
『一年の時、夏休み前に学校辞めたのが磯貝で、俺は同じクラスだったんだよ』
「一年の時の担任は?」
『ええとね、兼光先生かな』
蓮と明日香は顔を見合わせる。
「磯貝はいじめられてた?」
『SNSでね』
「え、なんでいじめられてたの?」
唐突に明日香が割り込んでくると、電話の向こうの岡島が一瞬口を噤んだ。
『え、誰?』
「D組の和谷明日香」
『……は? おい、蓮、お前らってもしかして……』
「ちげーよ。で、なんで磯貝はいじめられてたんだ?」
岡島は状況を整理したいようだったが、ひとまず質問には答えてくれそうだ。物語として見ても、ずいぶんと都合の良い友人である。彼の人生に幸あれ。
『ウワサだけど、中学の時にいじめをしてた側だったらしい』
「それでいじめられてたの?」
明日香が鋭く切り込んでいくが、岡島の反応は鈍い。
『原因と言ったら、それくらいしか思いつかないよ。正直、みんな流れでいじめに加担してたと思う』
蓮も明日香も初耳のことだった。
「磯貝っていうのは、どういう人なの?」
『おとなしめな男子だった記憶はある。でも、最初の何か月かしかいなかったからよく覚えてないな』
「磯貝は学校辞めてどうなったんだ?」
『さあ、そこまでは知らない』
「下の名前は?」
『なんだったかな。検索したら分かるかも』
岡島がそう言うと、スマホの画面に指が触れるかすかな音が聞こえ始める。
「分かった?」
明日香が息つく間もなく尋ねる。
『いや、調べたばっかなんだからまだ待ってよ』
洋介が小声でつぶやく。
「検索して分かるもんなのか?」
「SNSで色々言われてたなら残ってるかもしれないな」
蓮も自分のスマホで調べ始めたが、検索結果にうまいこと情報が引っかかって来ない。しばらくすると、岡島が声を発した。
『磯貝梓だ。動画も出てきた』
「どうやって調べたら出てくる?」
『「磯貝」と「桜高」で出てくる』
桜高は桜が丘高校の略称だ。
「サンキュー」
『なんで磯貝のこと調べようとしてんの?』
「まあ、ちょっと、色々あって……。落ち着いたら話すよ」
その後も岡島は理由を聞こうとしつこく食い下がったが、明日香が聞こえよがしに溜息をついたのを聞いて、空気を読んで諦めたようだった。電話を切って、蓮は岡島から送られてきていた動画のリンクを開いた。
インスタの投稿だ。
磯貝梓に天誅!
「桜高」で検索に引っかかったのは、プロフィールに高校の名前が入っているからだ。動画は曲がり角から出てくる磯貝にバケツの水をぶちまけるという極めて悪趣味なものだった。蓮は動画を一時停止して、磯貝の姿をスクリーンショットした。
「おとなしそうなのにね」
明日香が感想を漏らす。磯貝は黒髪で細身の男子だ。まだ着慣れていないであろう制服がビショビショになったことよりも、水をぶっかけられた事実にショックを受けた様子で立ち尽くしている。それを動画撮影者たちは笑った。
蓮の胸の中に湧き上がっていた義憤が、今は湯気のようにもわもわと漂っていた。
「ねえ」
明日香に呼びかけられて、蓮は我に返った。
「なに?」
明日香の探るような瞳に自分が映っているのを蓮は見た。
「気持ちは分かるけどさ、こいつは絶対に止めないとダメだよ」
「分かってるよ」
いつの間にか席を外していた洋介が向こうから皿に載った料理を運んできた。
「晩飯にしよう」
夕飯を終え、風呂の時間も過ぎ、蓮は自分の部屋で明日香と膝を突き合わせていた。
「剥がし屋と対話するにも、拒否されたら終わりなんだよな」
蓮は頭を掻いた。
「ツイッターでDM送ってみたらどう? さっきの動画送りつけてさ」
「一〇〇パー拒否されるだろ。それに、そんなことしたら反撃が恐ろしいよ」
「じゃあ、もう家に直接乗り込むしかないか……」
「明日香って意外と武闘派なんだな」
「熱心だと言って下さい」
「家に乗り込むって言ったって、どうやって場所を……」
「まあ、それはちょっと考えないといけないよね」
明日香はあくびをした。すでに日付が変わっていた。蓮は正気のノートを明日香に手渡して伸びをした。
「とりあえず、明日も学校だし、もうそろそろ寝るよ」
「分かった。私の方で色々調べてみるよ」
「助かる」
「じゃあ……」
明日香が立ち上がって、部屋のドアを開けると、目の前に洋介と千夏の姿がある。二人はギョッとした表情のまま、中腰の状態から明日香の顔を見上げた。
「……なにしてるんですか?」
「良いドアがあったんで鑑賞してたところ」
蓮が部屋の奥から飛び出してくる。
「なに盗み聞きしようとしてんだよ!」
「だってなんだか……だってだってなんだもん」
千夏が口を尖らせる。
「お願い~お願い~ちかよらないで~」
蓮は無表情のまま歌って、二人を階段の方へ押しやる。明日香はその様子を見て、微笑ましそうに目を細めた。
土曜日、蓮と明日香は、ある家が見える公園にやって来ていた。明日香はスマホの中の画像とその家の外観が全く同じであることを再確認して、「よし」とうなずいた。そばのベンチで寒そうに身を震わせた蓮は隣に腰を下ろした明日香に目を向けた。
「しかし、こんなにすぐに家が特定できるなんてな」
ますます正気と蓮の効率性の悪さが露わになった形だ。遅々として進展しなかった捜査が光の速さで展開していくのを見て、読者諸君は逆に肩透かしを食らっているだろう。
磯貝をいじめていた生徒たちの行動はエスカレートしていた。最終的に彼らが行きついたのは、磯貝の自宅の壁に彼を侮辱する言葉をスプレーするという蛮行だった。その動画を見つけた明日香は、動画に映っていた家の外観をもとにグーグルストリートビュー上で磯貝の自宅の場所を特定するに至ったのだ。
表札は「磯貝」のままで、この二年で引っ越した様子はなさそうだった。高い塀で囲まれた、わりと大きめの家で、今はガレージに車は停まっていない。
「蓮パパはいつぐらいに来るかな?」
「整体院閉めてからだから、少なくとも五時以降にはなるな」
「あと二時間くらいか……」
当初、磯貝家へは蓮と明日香の二人だけで乗り込む予定だったのだが、子どもだけでは心許ないと思ったのか、洋介が同行を申し出た。蓮は難色を示していたが、明日香は大人同士の問題に持ち込める可能性を感じたようだった。そわそわと周囲を見回す明日香の横顔を、蓮は盗み見た。
「駒田くんとは、どういう関係だったの?」
「同じ中学だっただけだよ」
「じゃあ、なんで付き合ってるとかいうウワサになったんだ?」
「知らない。たまに喋ってたりしたからかも」
「そうか」
明日香はサッと蓮を振り返った。
「なに? 気になってたの?」
「いや、別に」蓮は目のやり場をスマホに求めた。そして、話題を逸らすわけではないが、今回の件について口にした。「磯貝は、二年前に自分をいじめた奴らや助けてくれなかった大人たちに復讐しようとしてるのかな?」
「そうだと思う」
「じゃあ、今も剥がし屋をやってるのは、まだ復讐したい相手がいるってこと?」
ツイッター上では、また剥がし屋のツイートが物議を醸していた。
剥がし屋 @dismask_____
穂沼明奈。
名古屋の子ども向け英会話教室講師。
差別主義者が子ども相手に教育を施しているという地獄。こんなことが許されていいのか。
アカウント:かさぶた @huiRTy7ut598qP
5:13‐2022/10/28‐Twitter Web App
添えられている画像には、この人物が、過去に繰り返しツイートしていた男性や貧困層に対する差別発言のスクリーンショット、そして、この人物が鏡に映った自分自身を写した写真などがあった。
「まだ標的がいるかどうかは分からないけど、だいたいの関係者には復讐したんじゃないかな。だって、いじめた本人、いじめっ子の彼女とウワサされてた女、担任、校長先生、教育委員会の教育長、PTA会長、あとはいじめがあった後のPTAの会合をぶち壊したやばい人……もうそれ以上いないでしょ」
「推理ものの作品だと、被害者の共通点を隠すために関係ない人を巻き添えにするってのはよくあるけど、それと同じことを磯貝もやってるのかな」
「それは考えられるね」
蓮は磯貝の家の方を向いた。空が赤らんできて、夕方が近づいているのを物語っていた。磯貝家は静かに佇んでいる。
「今も家にいるのかな」
「朝五時に剥がしツイートするような生活してるんだから、ずっと部屋にいるんでしょ」
「でも、車は出てるのか……」
蓮は辺りを見回す。公園の端に立ったポールの上に防犯カメラがある。アレが磯貝家をずっと監視していてくれればどれほど楽だっただろうか。
それから数時間後、洋介がコンビニの袋を提げて姿を現した。
「すまんすまん、ちょっと遅くなった」
時刻は夕方の六時を過ぎていた。辺りはすっかり暗くなって、気温もだいぶ下がってきた。
「なに買って来たの?」蓮が受け取った袋の中には小さい紙パックの牛乳とあんパンが人数分入っていた。「なんで刑事ドラマみたいにしようとしてんだよ」
「いや、お前たちが張り込みしてるって言うからさ。気分だけでも刑事にしてやろうと思ってな」
「もう気分は刑事なんだよ」
「私あんパン好き」
明日香が袋の中に手を突っ込んであんパンをひとつ掴み取っていった。
「で、状況はどうなんだ?」
暗くなった磯貝家の窓に明かりはない。
「まだ車も戻ってきてないよ」
「家族で出かけてんじゃないか?」
そう言って洋介もあんパンをかじった。楽観的な言葉に蓮は首を傾げる。
「そもそも、磯貝は家族とうまくやってるのかな」
洋介は誰が見ても分かるほど切ない表情を浮かべた。
「そりゃあ、家族なんだから……」
「でもさ、現に剥がし屋として色んな人を攻撃してるわけじゃん。しかも執拗に。家族とうまくやってるなら、そこまで攻撃的な人間にはならないと思うんだよね」
「でもなぁ……」
磯貝が自分たちを貶めた張本人だとしても、洋介には譲れない何かがあるようだった。親子の議論に発展しそうなところを、明日香の声が遮った。
「待って、車が帰って来た」
明日香はどこからともなく取り出した双眼鏡で磯貝家の様子を観察する。そして、口を開いた。
「車には夫婦二人しか乗ってなかったみたい」
「じゃあ、磯貝は出かけているのかもしれないな」
「とにかく、行動開始」
明日香が立ち上がって、ずんずんと公園を横切り始める。その後を蓮が追う。洋介はあんパンを頬張って牛乳で流し込みながら、慌てて駆け出した。
明かりが点った磯貝家のインターホンを明日香が鳴らすと、すぐに応答があった。スピーカーから女の声がする。
『はい』
「磯貝梓さんのことをお伺いしたくて来たんですけど」
一瞬、戸惑うような沈黙があった。
『ええと、どのようなご用件でしょうか?』
「いじめが家族に与える影響を調べている者なんですけど、磯貝梓さんにもお話を聞きたいなと思って……」
『すみません、ちょっとお待ちいただけますか』
インターホンの通話が切れた。明日香は不安そうに蓮と洋介を振り返る。
「なんでそんなウソつくんだよ」
「だって、なんかそれっぽいこと言わないとと思ってさ……。蓮パパ、あとはお願いします」
「なんで俺が……」
少し経って、玄関のドアが開き、さきほど車で帰って来た夫婦が顔を見せた。二人は明日香たちが立っている門のところまで不信感を露わにしながらゆっくり近づいてきた。
「どうも、突然お邪魔してすいません」
洋介が明るく手を挙げた。
「どちら様ですか?」
夫の方が深刻な表情で訊いた。洋介はニコニコしながら、誰もがそれを言ったら第一印象を悪くするだろうとぼんやり考えていた事実を口にした。
「どうも、江口洋介です」
案の定、夫婦の動きが止まった。もはやその目は不審者を見るかのように鋭く見開かれていた。
「どういうことですか……?」
「本物じゃないですよ! 同姓同名なんです、あの俳優さんと!」
「いや、別に本物だとは思ってないですけど……何のご用ですか?」
もう俺は無理だから任せる、と洋介は明日香の背中を小さく叩いた。初めから期待していなかった明日香はすぐにうなずいた。
「梓くんって、今も家にいますか?」
夫婦の間に緊張のようなものが走った。妻の方がぎこちなく応じる。
「どうして?」
「剥がし屋って知ってますか?」
明日香の質問の真意が分からないのか、妻は警戒するように首を振った。
「いいえ」
「じゃあ、女子高生作家の琴平フィルさんが亡くなったっていうニュースはご存じですか?」
「ああ、それなら観たことが……」
「それに関わっていたのが剥がし屋という人で、梓くんはその剥がし屋の疑いが持たれています」
夫婦は顔を見合わせた。夫の方がチラリと自宅の方を振り返って、明日香たちに目を向けた。
「ちょっと、向こうの方で聞かせていただけます?」
彼はそう言って公園を指さした。
一同が場所を公園の東屋に変えると、早速、明日香がこれまでの話を要約して伝えた。洋介や正気、そして自分自身が剥がし屋に剥がされて苦汁を飲まされたことを。特に、明日香が自殺を図ったことは、梓の母親である花音にとってショッキングなことだったようで、マスクをした口元を押さえたまま硬直してしまった。しかし、夫の恒明は半信半疑だ。
「でも、その剥がし屋が梓だという証拠はないよね」
「ありませんよ」明日香はあっさりと答える。「でも、剥がし屋のターゲットの中に、二年前のいじめに関係している人が多いことは紛れもない事実で、その中心にいた梓くんに疑いが向くのは不思議なことじゃないですよね」
磯貝夫妻は俯きがちに虚空を見つめた。まるで、自らの罪と向き合うかのようだ。蓮は静かに口を開いた。
「梓くんは、今も家にいるんじゃないですか?」
夫婦がハッとして、同時に顔を上げる。明日香が疑問を投じた。
「なんでそう思うの?」
蓮は明日香の問いを受けて恒明を見た。
「さっき梓くんの話を聞いた時、お父さんは家の方を振り返っていましたよね。無意識に梓くんの方を向いたんじゃないかと思いました。でも、僕が気になってるのは、お二人と梓くんの間の距離感みたいなものなんですよね」
夫婦は眉間に皺を寄せてじっと蓮の言葉を聞いていた。
「なんというか……梓くんが触れちゃいけない存在みたいに見えます」
「そんなことは……」
「じゃあなんでこの話を梓くんも交えて家でやらないで、ここでやってるんですか?」
鋭く投げかけられて、二人は黙ってしまった。家庭環境に歪みがあることは、誰の目にも明らかだった。
「磯貝さん」洋介は珍しくちょっとダンディーな声で語りかける。口の端にはパンのカスがくっついている。「子どもとの距離の取り方が難しいことは、私も分かりますよ。子どものためにやったことでも、理解されないこともある」
蓮がすかさず口を挟む。
「ダウト。この人は自分のことしか考えてません」
「おい蓮、たまには俺にも格好つけさせろよ。ギャップでアピールしていきたいんだから」
一体、誰に対してのアピールなのかは不明だが、蓮は大袈裟に手振りをして先を続けるように促した。
「息子さん、ずっと引きこもりなんでしょう? このままだとずっと今の関係性を続けて行かなきゃならなくなる。もう二年も頑張って来たんでしょう? 少しずつ良い方向に変えていけるようにしていきましょうよ。それが息子さんやあなた方のためになると思いますよ。私も力を貸しますから、ちょっとみんなで話してみませんか?」
「そう言われましても……」花音は今にも泣き出しそうだ。「あの子、中学の頃は何でもなかったのに、高校に入って急に塞ぎ出して……。ある時から私たちと顔も合わせないようになってしまって……理由が分からずに、ずっと不安なんです。それに、怖い……」
明日香は立ち上がって、磯貝の自宅の方へ歩き出した。
「あ、ちょっと……!」
花音が明日香の後ろ手を掴んだ。
「私のこと、止められます?」
思いのほか攻撃的な言葉が返って来て、花音は思わず狼狽えてしまった。恒明が花音の腕を引き寄せた。そして、明日香たちを熱のある視線で薙いだ。
「梓が剥がし屋と関係あるかどうかを確認するだけなら」
磯貝夫妻は三人を先導して家の中に入って行った。そのまま一同は静かな足取りで階段を二階へ向かい、一枚の扉の前にやって来た。
恒明は呼吸を整えてから、そのドアをノックした。返事はない。
「梓、ちょっと話があるんだ」
中から応答はない。恒明がレバータイプのドアノブを掴んで捻ろうとしたが、何かが引っかかっているようで動かないようだった。
「梓」
もう一度ノックをする。しかし、それでも依然として音沙汰はない。困り果てる磯貝夫妻を尻目に、明日香はスマホを取り出して扉の前の恒明の姿をシャッター音のしないアプリで写真に収めた。
「なにやってんだよ」
蓮が小声で咎める。
「もうここで攻めるしかないでしょ」
明日香はツイッターを開き、剥がし屋に今しがた撮影した写真をDMで送りつけてしまった。止める暇もなく行われた早業に、蓮は頭を抱えた。DMにはすぐにチェックマークがついた。
「梓」
恒明がもう一度ノックをすると、部屋の中から感情的な声が返ってきた。
「もう出て行けよ!」
「梓、話があるんだ。頼む」
「どこのバカ連れて来た?!」
明日香は蓮と視線を交わした。今の言葉で梓が剥がし屋であることは確定的な事実に変貌した。
「何でもないんだ。ただちょっと、お前が剥がし屋と関係がないか確認したいだけなんだ」
「関係なんかあるわけねえだろ!」
恒明は藁をも掴むような表情で明日香たちを振り返った。だが、明日香はドアの向こうに声を投げ入れた。
「じゃあ、剥がし屋じゃないって証明しなよ。そうしたら、ここから出て行く」
部屋の中が沈黙で充満した。
「あんたのアカウント、全部見せてよ」
それができないことを明日香は分かっていた。しかし、恒明は妄信的な目を扉に釘付けにしたままだ。
「お前じゃないことは分かってるんだぞ」
「うるせえ! 黙れ! もう遅えんだよ、なにもかも!」
「梓、お母さん何言ってるか分からないのよ」
花音がヒステリックに声を上げると、部屋の中の梓も激情を飛ばす。
「うるせえな! もう放っといてくれよ!」
「私たちはあなたのことを思って──」
「白々しいこと言うな! ぶっ殺すぞ!」
「そんなこと言わないで……!」
花音が泣きながら喉を絞り上げた。恒明はドアに背を向けて、明日香たちを階下へ促そうとした。
「すみませんが、もうこれ以上は……」
明日香は彼の脇を素通りして、梓の部屋のドアの前に立った。
「二年前、あんたはクラスでいじめられてた。その理由は中学の時にあんたがいじめっ子だったから。あんたはいじめられた復讐で当時の校長先生や担任の先生や駒田くんを標的にして剥がしをやってたんでしょ。時には、炎上するようなことを捏造してもいた。ずっとそうやって誰かを憎み続けて生きていくわけ?」
家の中はしんと静まり返った。磯貝夫妻はまるで自分たちが咎められているように呆然と立ち尽くしていた。
「明日香、もうやめよう」
蓮が彼女の腕を掴んだ。
「なんで? これじゃ、何も変わらないままだよ」
「一旦落ち着こう」
蓮の言葉でこの場に対流していた感情の波はやや鳴りを潜めていった。一同は一度階下に降りて、リビングに場所を移すこととした。恒明が鉛を背負ったように頭を垂れてソファに腰かけた。
「皆さんもお掛けになって下さい」
花音が弱々しい声でそう言うと、広いリビングの大きなソファに明日香たちも腰を落ち着けた。
「すみませんね。なんか……お見苦しいところを見せてしまって……」
花音は取り繕うように笑みを浮かべたが、その顔は引きつったままだ。
「なんで梓くんは『もう遅い』って言ったんだと思いますか?」
唐突に蓮が質問を投げかけると、花音も恒明も言葉に詰まってしまった。花音は眉尻を提げて鼻を啜りながら答える。
「私たちにも……なにがなんだか……」
しかし、蓮には何かが見えていたらしい。
「申し訳ないですけど、彼はお二人のことを全然信頼してないように感じました」
洋介が蓮を制しようとしたが、蓮は「これは言わなきゃいけないことだから」と、それを突っぱねた。
「ずっと気になっていたんです。どうしてお二人は梓くんのことを考える時に申し訳なさそうにしていたのか。何かやましいことでもあるみたいです」
「やましいことなんてない」
恒明は蓮の声を掻き消すようにそう言った。
「どうして梓くんが急に塞ぎ込むようになったと思いますか?」
「だから、それが分からなくて困ってるんだって言っただろ!」
恒明はついに爆発した。明日香も洋介もギョッとしたように目を見開いたが、蓮は至極冷静だった。
「見当もつかないんですか?」
「いじめられて、おかしくなってしまったんだろう。そういう意味では、あの子も被害者なんだよ」
重い結論に花音も小さくうなずいた。
「梓くんがお二人のことを信頼していないのは、味方だと思っていたのに裏切られたと思っているからではないですか?」
「そんなことないわよ! 私たちはいつでもあの子の味方よ!」
今度は花音が感情をぶちまけた。
「梓くんもそう思っていたのなら、あんなひどいことを言いますか?」
「あの子は思春期で、きっと色々な感情を抱えきれていないだけなのよ」
「梓くんは中学の時はごく普通だったと言っていましたよね。でも、高校に入って様子が変わったと。それは、彼がいじめられ始めた時期と一致します」
「だから、いじめられたことでおかしくなってしまったんだよ」
恒明は苛立ちを隠せない様子でまくし立てた。
「でも、お二人を恨む理由にはならないですよね。彼はずっと一貫してますよ。自分をいじめた人間や助けてくれなかった人間を恨み続けてる。彼がお二人のことを嫌っている理由はあるはずですよ。どんな些細な言葉でも、いじめを経験した梓くんにとっては、ひどく傷つけられたものになった可能性はある」
「そんなことは何も言ってない……」
花音がそう口にしたところで、リビングの入口で足音がした。
ボサボサの髪、無精ヒゲだらけの顎、口角の下がった口元……梓がノートパソコンを片手にそこに立っていた。
「言っただろ」
怒りに燃えた眼を、梓は両親に向けていた。二人とも、梓の言葉の意味が理解できないようだった。
「言っただろ! 俺がいじめられてるって言った時、お前らは『何かしたんじゃないのか?』って! お前らは俺のせいにしたんだよ! いじめられてる理由を!」
結果的には、いじめの原因は梓が中学時代にいじめをする側だったからだが、彼にとっては、それは問題ではないのかもしれない。
「お前らのせいで俺はこんなになったんだよ!」
血走った眼で怒号を上げる様は、失うものなど何もない人間がそこにいることを思わせた。花音は両手で顔を覆って静かに泣き出した。恒明は両手で頭を掻き毟って、そのまま俯いてしまった。
「なんとか言えよ、クソどもが! お前らのせいでこうなったんだ!」
そう言って、梓は手にしていたノートパソコンを厚いカーペットの上に放り出した。そして明日香たちに視線を向ける。
「そこに全部入ってる。警察でもなんでも呼べよ」
「それはダメだ」
恒明が立ち上がる。
「この期に及んで世間体でも考えてんのか! 結局お前は自分のことしか考えてねえんだな!」
「梓!」
恒明は叫んで梓の頬を引っ叩いた。梓は膝を震わせて、その場に崩れ落ちた。喉をひくつかせると、その両目から涙が零れ出した。
「もう終わりなんだよ、何もかも! 全部狂ったんだよ、あの時に! どうせお前らなんか、俺のことどうでもいいと思ってるだろ!」
言うことが支離滅裂だ。梓の中で感情が渦巻き過ぎて、彼自身がそれをコントロールできていない。花音も声を張り上げる。
「どうでもいいなんて思ってるわけないでしょ! あんたがずっと引きこもってるせいで、どれだけ苦労したと思ってるのよ!」
洋介が立ち上がる。
「皆さん、一旦落ち着きましょう。このままじゃ、本当にすべて終わってしまう」
「終わってるんだよ!」
梓が叫ぶが、明日香は静かに口を開いた。
「別に終わってないと思うけど」
「お前に何が分かるんだよ! 終わりだよ! どうせ俺は逮捕される! 終わりなんだよ!」
「あのさ」明日香は強気だ。「警察があんたを逮捕できると思う? あんたがやったのは、最初からネットにあった情報をまとめただけなんだよ。罪に問えるとは思えない。それが分かってて、剥がし屋なんてやってたんじゃないの?」
リビングのすべての眼が明日香に注がれていた。梓は嗚咽しつつも、じっと明日香を見つめている。
「終わってるのは、勝手に自分を追い込んで自暴自棄になってるあんた自身だよ。ネットじゃ粋がってるくせに、こうやって突っつかれてビービー泣いてさ。あんたが自分だけの世界に引きこもってた二年で、高校のみんなもご両親も、コロナ禍でキツい中でも色んな経験して頑張ってきてんだよ。私の友達だってコロナに感染した時にいじめられるかもしれないってめっちゃ悩んでたけど、みんなで協力して、そんなことにならないように環境づくりしたり色々調べたりして、それでちょっとずつでも成長したなって思ってんの。あんたは全部誰かのせいにして、全部分かった風に振る舞ってただけでしょ。人間として裸で何かにぶつかったことなんてないんだよ。だから、誰かに人を攻撃させるような卑怯なことしかできないのよ」
熱く語りかけて、明日香は涙を流していた。梓は救いを求めるように声を落とした。
「じゃあ、どうすりゃいいんんだよ……」
明日香は湯気が上るような視線を投げつけた。
「誰かに提案されたことだけやってれば楽だよね。どうせそれが失敗したらその人のせいにすればいいんだから。たまには自分で考えたらどうなの?」
明日香は怒りをぶつけるようにして立ち上がって、部屋を出て行こうとした。蓮がそれを追う。
「おい、勝手に行くなよ!」
「もうここに居たくない」
蓮は部屋を出がけに洋介を一瞥した。洋介が、任せておけ、と言うように小さくうなずいたのを見て、蓮は明日香の後を追うように磯貝家を後にした。
午後八時過ぎになって、洋介が帰って来た時には、隣に梓を連れていた。
「なに考えてんだよ、父さん……」
さすがに怒る気にもなれなかった蓮はリビングのソファの上で仰向けに倒れてしまった。そのそばの明日香も予想外の展開にアメリカ人みたいに大袈裟に肩をすくめた。
「蓮パパ、まさかとは思いますけど、そいつもここに泊まったりしないですよね」
「お、なんだ、よく分かってるじゃないか」
意図の分からないサムアップを飛ばして、洋介は破顔一笑した。明日香は引きつった笑いを浮かべた。
「ダメだこりゃ……」
「一度親子別れて頭を冷やした方がいいと思ってな。ウチにはもうおまけもついてることだし、それが二つに増えるくらいなら大したことじゃないだろ」
「そんなテレビショッピングみたいな……」
蓮が皮肉を絞り出して対抗したが、もう洋介を止めることはできないと悟ったのか、なす術もなく天井を見上げるしかなかった。その様子をニコニコしながら見守っていた千夏は嬉しそうに言った。
「賑やかになるわねえ」
翌日、朝食を終えた江口家のリビングに五人が勢ぞろいしていた。四人の注目を浴びて、梓は頭を下げた。
「まずは、迷惑をかけて本当にごめんなさい。謝って済むようなことじゃないと思うけど」
梓は昨夜よりもいくぶんかさっぱりしていた。本人によれば、風呂には長いこと入っていなかったらしい。髭は、洋介がこれまで泊まった旅行先のホテルなどからパクって来た使い捨ての髭剃りで取り除いた。
「謝らないよりはマシだと思うけど」
明日香がボソリと言った。
「昨日はちゃんと言ってなかったけど、俺が剥がし屋です。和谷さんの──」
「明日香」
明日香が訂正を入れる。梓は遠慮がちにうなずいた。
「──明日香さんの言う通り、二年前に俺をいじめた奴らに仕返ししようと思って剥がし屋を始めました。色々なタレコミも来るようになって、もう止められなくなったんです」
蓮は軽く手を挙げて割って入った。
「俺が気になってたのは、君と両親の関係なんだけど、やっぱり今も許せない気持ちはあるの?」
梓は口をへの字にして少し考えていたが、やがて小さく言った。
「正直、まだ許せない気持ちはある」
「ご両親にとって何気ない言葉でも、梓くんにとって深く傷つく言葉になることはあり得るわよ。そういう気持ちになってしまうのも無理はない」
昨夜、洋介から話を聞いていた千夏は温かい目で梓を見つめた。
「そこをお互い歩み寄って部屋に引きこもらなくてもいいようにしていくのがいいと思うよ」
蓮はそう言うが、梓は納得しきれない部分もあるようだった。
「全部の家族が同じように仲良くいなきゃいけないわけじゃないでしょ。俺の家族はこうなるべくしてなったんだよ。いまさら変わるわけがない」
「じゃあ、これからもずっとやましい気持ちのまま生きて行ったら?」
明日香が突き放すようにそっぽを向くと、梓はムッとしたような表情を浮かべる。
「別に、俺はやましいと思ってない」
「思ってるよ」明日香は即応する。「思ってるから両親と顔を合わせられないんだよ」
ヒートアップしそうな明日香を制するように蓮が口を開く。
「どのみち、今すぐにっていうのは無理な話だろうけど、剥がし屋としてこれまでやって来たことにどうやってケリをつけるかっていうことの方が、今すぐ考えるべきことかもな」
「アカウントは消すよ」
梓のその言葉には、もう未練はなさそうだった。明日香は梓に目を向けた。
「それがあんたの答えなの?」
「まあ、そういうことになる」
「あんたが剥がし屋を始めてから、ネットじゃ剥がしが流行してる。あんたの真似をして今も正義ぶった奴が誰かを剥がしてる。それについてはどう思ってるわけ?」
「どうも何も……、そいつらは勝手にやってるだけだ。剥がし屋をやって分かったことがある。誰かを叩いている奴らは、自分が正しいということを誇示したいだけだ。だから、そのために間違っていると思う奴を徹底的に攻撃する。そういう奴らは無限に湧いて出てくるんだよ」
「じゃあ、剥がし屋が今までやって来たことを謝罪したら? そうすれば、みんなあんたの真似をして剥がしなんてやめるかもよ」
「そんなこと、いまさらできるわけないだろ。それに、そんなことやったって、誰も見向きもしないよ。俺のフォロワーは、俺の言葉が聞きたいんじゃない。誰かが道を踏み外すのが見たいだけだ。俺はそれを見せる道具でしかない」
洋介は思うところがあるようで、ゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
「俺も梓くんが剥がし屋として謝罪するのはどうかなと思ってる。謝れば、批判の矛先が一気に彼に向く可能性もあるからな。特に、ウソの情報で炎上させてるものもあるわけだから、それがバレた時に相当マズいことになると思う」
明日香は険しい表情を浮かべた。
「蓮パパ、自分が被害者になったのに、この人の肩持つんですか?」
「明日香ちゃん、君は昨日、梓くんは人として成長することのない二年間を送ったと言ってたが、部屋の中でたった一人で自分自身と向き合うのは想像しているより辛いことなんだぜ。そういうことを思うと、一概に彼のことを責められない。それに、彼を責めることは、自分を正義だと信じて誰かを攻撃している連中と同じことなんだと俺は思う」
明日香は勢いよく立ち上がった。
「死のうと思った私の気持ちは別にどうでもいいっていうことですかね」
「いや、そういうわけじゃ……」
明日香はリビングを出て階段を駆け上がって行った。二階からドアを思いきり閉める音がする。
「自分の家みたいにくつろいでとは言ったが、あれじゃマジで自分の家じゃん……」
洋介が困り果てていると、千夏が溜息をついて立ち上がった。
「みんなにとって良い着地点を見つけるって難しいものよね。ちょっと明日香ちゃんのそばにいるわ」
「すまん、ちーちゃん。頼む」
千夏はイタズラっぽく笑った。
「女のことは女に任せなさい」
千夏がリビングを出て行くと。蓮は溜息をついた。梓は居心地が悪そうに、何度も尻の置き場所を直している。
剥がし屋を巡る彼らの冒険は、ひとまず終着点までやって来たが、スッキリとしたものではなかった。煮え切らない結末に、蓮は胸の奥が痒くなるのを感じていた。
読者諸君ならば、考えずとも分かっていると思うが、物語の結末まではまだかなりのページがある。つまり、まだ終わりではないということなのだが、考え得る限り最悪の事態が、翌日の十月二十九日に降って湧いた。
告発者 @hkY6ue39bwsty4i
【拡散希望】
剥がし屋 @dismask_____ の正体は磯貝梓。
二〇一八年霜田区立臼田早須中学校のいじめ主犯格。捏造した情報によって多くの人を炎上させた。琴平フィルを死に追いやったのもこいつだ。
東京都霜田区南臼田町三‐二‐三。
9:34‐2022/10/30‐Twitter for iPhone
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