四章 あの薔薇みたいに
薄手のコートを掴んで玄関に向かおうとする蓮を千夏が呼び止めた。
「今日も和谷さんのところに行くの?」
「うん」
蓮が初めて正気と顔を合わせてから一週間が経っていた。蓮の返事を聞いて、急に千夏がにやけ面を浮かべる。不審に思った蓮の表情が強張る。
「……なに?」
「明日香ちゃんは元気なの?」
「うん、まあ、元気なんじゃないかな」
「ああ、そう……」
千夏のニヤニヤが止まらない。
「なんなの?」
「いや、熱心だなぁと思ってさ」
両親には、剥がし屋に関することで正気と会っていることは伝えていた。それにしては、千夏の様子が始終ヘラヘラしている。
「剥がし屋にあんなデマ流されて悔しくないのかよ」
「まあ、そりゃあ、思うところはあるけど、時間ができてお父さんが生き生きとしてるからさ。まあ、いいかっていうアレよ」
「炎上させられてノーダメージなのがすごいを通り越して、アホっぽく見えてくるわ」
「お父さん昔からあんな感じだから」
これから向かう家の主人も同じようなもので、自分の周囲にはアホが服を着たような大人しかいないのかと蓮は悲しくなる。玄関で靴に足を入れる背中に千夏は問いかける。
「進展はあったの?」
「まだ何も。というか、和谷さんがクソほど役に立たなくてさ……」
「クソは失礼だから、ゴミにしなさい」
「どっちみち失礼だろ」
「ほら、ゴミはまだ再利用できるでしょ」
「クソも肥料になるでしょ」
千夏はハッとした。
「確かに……」
「とにかく、変なんだよ。この前なんて、待ちゆく人に『剥がし屋のこと知ってますか?』って聞き回ってたんだぜ。そんなんで剥がし屋が見つかるわけないだろ。挙句の果てには、猫探してますみたいな張り紙作ろうとしてたし」
「自分の娘がひどい目に遭ったらそうなっちゃうものよ」
「そうなんだろうけどさ。『刑事は足を使うものなんだ』って言われたから、『刑事じゃないでしょ』って言ったら、死ぬほどキョトンとされてこっちがびっくりしたよ」
「でもまあ、蓮が、どんな理由であれ、人に興味を持ってくれてよかったわよ」
また復活するニヤニヤに蓮は目を細めた。
「さっきからなんなんだよ」
「明日香ちゃんと仲良くするのよ」
「おい、そういう目的で向こうの家に行ってるわけじゃないんだぞ」
「分かってる、分かってる」
「いや、分かってない。俺だって怒る時は怒るぞ」
「別にいいじゃない、そんなに必死になんなくても」
蓮は立ち上がった。
「とにかく、俺は正義のためにやってるんだから、勘違いするなよ」
「分かったわよ」
鼻を鳴らして玄関から外に出ると、ケーシーに身を包んだ洋介が庭先でゴルフクラブの素振りをしているのが目に入る。そのゴルフクラブは十年以上、家の物置の中でホコリをかぶっていた代物だ。ちなみに、ケーシーはアクティブ系の白衣で、『ベン・ケーシー』というドラマでケーシーが着ていたからその名前になったらしい。だから、目の前にいるおじさんは、さしずめケーシー江口というところだ。
「お、蓮! 俺のフォーム見てくれ!」
「はいはい、すごいうまくなったね~」
「待て。まだ振ってないんだが」
追いすがるケーシー洋介を無―視―して、蓮は自転車に跨って漕ぎだした。
土曜日の昼下がりには、テレビで街ブラロケの番組が放送されがちだ。和谷家のリビングでは、三人がソファに仲良く並んで、爪痕を残したい芸人がチンプンカンプンな食レポをしている様子をじっと見つめていた。
「この芸人さん、色んなところで叩かれてるよね」
明日香がそう言った。七海が首を傾げる。
「どうして?」
「奇をてらいすぎなんだってさ。普通のことが普通にできない人は、芸能界では生き残れないって言われてるみたい」
「明日香」正気が声のトーンを落として言った。「またSNS見てるのか? しばらくはやめた方がいいって……」
「分かってるよ。でも、今は物事をポジティブに見てみようと思って、リハビリみたいにして見てるだけだから心配しないで。それに、自分のアカウント作り直して、今は誰とも繋がってないし」
心配そうな正気だったが、明日香の表情を見つめると、少しだけ肩の力を抜いて再びテレビに目を向けた。
「今日も江口くんが来るんでしょ?」
七海が尋ねる。テレビの中では、芸人軍団がショッピングモールでゲストの女性アイドルを相手にプレゼント対決に挑んでいた。
「来るよ」
結局、蓮と外で会うようになってから、正気は本当に七海に不倫を疑われるハメになった。そこで正気は、蓮がどうしても剥がし屋の正体を掴みたいということにして、自分はあくまでその話を聞いているというテイで蓮との作戦会議を和谷家で行うようにした。しかし、明日香は少し気がかりな様子だ。
「江口くんって私のことを避けてるような気がするんだよね」
「あすちゃんが可愛いから恥ずかしがってるのよ、きっと」
楽観的な七海の言葉に明日香は難色を示す。
「そういう感じじゃないんだよね……」
いつのまにか街ブラ番組が終わって、テレビからはニュースが流れてくる。
『今月十八日、株式会社太鼓判のウェブサイトが不正に更新された問題で、霜田警察署は今日、記者クラブの取材に対し、内部犯の可能性も視野に入れて捜査を進めていると回答しました』
画面が切り替わって、記者クラブでの様子が映し出される。制服姿の男が説明をしている。
『パソコンのあるオフィスに入るには入館証が必要で、出入りが管理されていることから、内部犯の可能性も視野に入れて捜査を進めているところです。あとはまあ、内部犯だと盛り上がるなという感じもありますよね』
記者から、やや困惑した声が上がる。
『ええと、盛り上がるというのは?』
『やっぱり、こういう犯罪もののドラマとかだと犯人が外部の人間だったりすると、なんかガッカリするもんじゃないですか』
別の記者が苦笑いを乗せた言葉を投げる。
『いや、気持ちは分かりますけど、現実の話なんですから、もっと真面目に行きましょうよ』
また別の記者が声を上げる。
『そうですよ。人が一人亡くなってるんですよ』
『あ、ごめんごめん、今のなし』
画面が切り替わって警察署をバックに記者がマイクを握っている。
『会見では、外部犯は本当に盛り下がるのかという言い争いが起こるなど、一時騒然とした雰囲気となりました。また、サイバー犯罪対策係の今田文通警部補は内部犯の可能性に触れていたものの、近年ではソーシャル・ハッキングというサイバー的な手法によらない情報収集方法も多用されており、一概に内部犯によるものと断定できないというのが記者団としての見解でした』
「記者団の方が警察より賢そう」
明日香がポツリと口にする。画面は株式会社太鼓判の本社ビルの外観映像に移り変わる。
『株式会社太鼓判が主催する「『善養寺真の太鼓判!』大賞」を巡っては、大賞受賞者であった琴平フィルさんが今月十九日に亡くなったことが発表されており、記者団からは「警察がドラマを参考にしてどうする」などと、その捜査手法に疑問の声が上がっていました』
画面がスタジオのキャスターに戻ってくる。
『続いてのニュースです。タレントで飲食店経営のエネルギッシュ松永こと佐々木恒久容疑者が……──』
「琴平フィルも大変なことになってるよね」
明日香の言葉に七海は気が気でない様子だ。
「きっと苦しい思いをしてたのよ」
明日香が母親にそう言わせてしまっている自分を情けなく思っているのを、正気は静かに見つめていた。
インターホンが鳴る。ここ数日は、イタズラで注文されたものが届くことはなくなっていた。正気が玄関のドアを開けると、ドアの向こうで蓮が会釈をした。正気と共に玄関から入ると、七海と明日香が顔を覗かせる。蓮は頭を下げると、逃げ去るかのように正気の後をついて、二階への階段に足を踏み出した。
正気の部屋の壁には、霜田区の地図が拡大コピーされて貼り出されていた。ドラマやなんかのように、ピンを打った糸で顔写真や新聞記事を繋げたりはしていないが、地図上にはいくつか赤いペンでポイントが打たれている。
「まだやってるんですか、これ?」
「聞き込みは刑事の基本なんだぞ」
「だから、刑事じゃないでしょ」
蓮は正気が引き寄せてきた椅子に腰かけると、地図を見つめた。
「そもそも、剥がし屋が霜田区にいるかどうかも分からないのに……」
正気はデスクのブックエンドに立てかけていた数冊のノートから一冊を抜き出してページを開くと蓮に手渡した。
「なんですか、これ?」
「剥がし屋がこれまで剥がしてきた人のリストだ」
「手で書き写したんですか? 手間かかりそう」
「自分の手で書くことで身に染み込ませたんだよ」
「すごい昭和ですね」パッと正気の顔を見る。「これやってるせいで寝不足なんじゃないですか? 隈できてますよ」
「これはクマじゃなくてデイゲームの時に塗るやつだ」
「なに意味分かんないこと言ってんですか。ここ室内でしょ」
正気と過ごす時間が増えて、蓮の言葉は日に日にパンチ力を増してきた。
「とりあえず、そのリストを見てくれ」
「知ってますよ、僕も調べたんですから」
「今まで三十二人が剥がされてる。その中で、俺が赤い丸をつけたところがあるだろ。そいつを見てみろ」
正気が印をつけていたのは、次の六人だ。
二〇二一年六月二十四日:兼光幸秀……都立清里高校の元教諭。インスタ上で女子生徒とのキスを盗撮した動画が拡散、炎上。生徒との淫行も明らかになり、六月二十七日に懲戒免職処分。
二〇二一年十一月十一日(ポッキー&プリッツの日):駒田孝弘……都立桜が丘高校三年B組。バイト先の飲食店で料理に唐辛子を大量に入れて提供する動画をティックトック上にアップして炎上。現在は不登校状態。
二〇二二年一月十九日:小野寺潔……全国青少年教育連合会副会長、霜田区教育センター所長。ツイッター上で、「『親ガチャでハズレを引いた』と言っているガキは自分がハズレだと認識すべき。こういう子どもがさらにハズレの子ガチャを引いてこの国は衰退していくのだろう」と発言。ツイートはすぐに削除されたが、剥がし屋が、小野寺は文科省の官僚の息子だと添えてツイートして炎上。その後、小野寺は謝罪に追い込まれた。
二〇二二年七月五日:美濃逸郎……都立慧陵国際高校校長。ツイッター上に、飲食店で店員に謝罪を強要する動画がアップされ、剥がし屋がこれを拡散して炎上。動画の中で美濃がマスクを着けていなかったことにも大きな批判が集まった。ただし、この動画の人物が本人かどうかの確認は未だに取れていない。
二〇二二年九月十四日:江口洋介(本物)……江口整体院院長。セクハラまがいの施術を行ったという口コミを剥がし屋が拡散して炎上、エロ整体院になる。
二〇二二年十月四日:和谷正気(俺)……宇賀島建設の元従業員。ドライバー同士のトラブル動画がツイートされ、剥がし屋が拡散して炎上。懲戒解雇処分。しかし、彼は正義の名のもとに立ち上がり、剥がし屋を特定。日本中から称賛されるのであった。(すごい!)
「どうだ?」
正気が蓮の顔を覗き込んでくる。
「最後のなんなんすか。願望入っちゃってるじゃないですか。あと、ウチの父親の名前に本物とか書かれると誤解されるんでやめてもらっていいですか」
「でも、本物だろ?」
「いや……う~ん、まあ、そうなんですけどね。本物ってわざわざ書くからややこしくなるわけで」
蓮はノートを眺めながら、このリストに明日香がいないのは、彼女を被害者にしたくないという正気の思いが込められているのではと考えていた。
「そこに書かれている全員は、霜田区に関係があるんだ」
清里高校も桜が丘高校も慧陵国際高校も、全て霜田区の高校だ。霜田区教育センターは文字通り霜田区に所在地がある。
「でも、これだけじゃ……」
「五分の一が霜田区に関係してる人間なんだぞ」
確かにこの割合は明らかに高い。蓮は反論の手を緩めざるを得なかったが、その相手が正気というのがなんとなく気に入らなかったのは、ここだけの内緒だ。
「だから、色んなところで聞き回ったんだよ。被害者と剥がし屋の関係を知らないかって」
「なんで途中まではちゃんとしてるのに、そこは変な方向に行っちゃうんですか。通りすがりの人が剥がし屋の正体知ってるわけないでしょ」
「世の中は案外狭いもんなんだぞ。昔、会社の連中と行った居酒屋で賽銭泥棒の手口を説明してたら、隣の席の知らないおっさんから帰り際に『あなたもですか?』って言われたからな」
「なんなんですか、そのエピソード……」
「だが、君の言う通りかもしれん」
「あ、ようやく自分の非効率性に気づいたんですか?」
正気はうなずいて、デスクの下の段ボール箱を引き出した。蓮はホッと胸を撫で下ろすのだった。
「ネット上で起こったことなんですから、ネット上に手掛かりがあるのは当然なんです。つまり、これからは──」
「これを見ろ」
正気は箱の中から白地に黒いペンで書いた横断幕を取り出した。そこには「剥がし屋、出てこい!」「剥がし屋はクソ」「剥がし屋は顔も出せない弱虫」など、中学生の考えたような煽り文句が並んでいた。蓮は、一瞬気を失いかけたが、なんとか踏み止まった。
「……なんですか、この地獄みたいな代物は?」
「これを車に貼りつけて走り回る。そうすれば、何かが起こる!」
意気込みたっぷりの正気とは正反対に、蓮は雑草でも口にぶち込まれたような表情だ。
「一体そこに何のメリットが……」
「剥がし屋も悔しくてボロを出すかもしれんぞ」
「そんな単純な……」
「早く試したかったんだ。行くぞ」
〝やばい街宣車作戦〟の詳細は面倒臭いのでここでは割愛するが、結論から言うと、正気の作戦は功を奏するどころか、ますます困った状況に二人を突き落とすことになった。
街を走り回って再び和谷家の正気の部屋に戻って来た二人。椅子の上でスマホとにらめっこしていた蓮が重苦しい溜息を吐き出した。
「どうだ? かなり反響があったんじゃないか?」
「まあ、反響があったっちゃ、あったって感じですね」
「俺の作戦勝ちだ。で、剥がし屋は炙り出されてきたか?」
蓮は小さく舌打ちして立ち上がった。
「また炎上してますよ。今や剥がし屋はネットを味方にしてる。そんな相手にあんな喧嘩売ったら、また格好の標的になるだけですよ」
蓮が正気の眼前に突き出したスマホの画面には、正気の街宣車が街を走る様子を捉えた動画や写真が大量に表示されていた。そのほぼ全ては否定的な意見と共に拡散されていた。蓮はそれを一つ一つ読み上げた。その表情は憤りで強張っていた。
「『反省の色なし』『頭おかしい』『剥がし屋に喧嘩売ってなに考えてんの?』『こんな奴だから運転も荒いんだろうな』『めちゃめちゃ野蛮人じゃん』……まだ読みますか?」
「話題をかっさらってるなぁ……」
「あの……」蓮は短い沈黙の中で逡巡していたが、意を決したようだった。「マジでなに考えてるんですか? こんなことして剥がし屋が出てくるわけないし、マイナスにしかならない。それでいて、なんでそんなヘラヘラしてられるんですか?」
蓮にまくし立てられて、正気はキョトンと目を丸くした。蓮はその様子を見て、小さく言った。
「もういいですよ。俺一人でやりますんで」
そのまま部屋を出て階段を降り、玄関に向かった。
「あら、もう帰るの?」
七海がやってくる。
「はい。もう大丈夫になったんで」
「あの人、蓮くんと話すのが楽しいみたいよ。いつもありがとうね」
思いがけずに礼を言われて、蓮は振り返らずに「いえ」とだけ返した。七海の後ろから明日香が近づいてきて、蓮に声を掛けた。
「ねえ──」
「じゃあ、お邪魔しました」
蓮は足早に出て行ってしまった。
思い切り自転車を漕いで家に帰って来た蓮は、両親の声も届かない様子で二階にある自分の部屋に飛び込んだ。思い出したように机に向かって、参考書とノートを広げる。受験生としての自覚が急に湧いてきたらしい。ペンを取って、英語の文章に目を通すが、どれも頭の中に入ることはなかった。机の上で肘を突いて、頭を掻き毟る。そもそも、洋介も千夏も、デマを意に介していなかった。蓮が首を突っ込んだのは、なぜだったのか、今になっては蓮自身にも分からない。剥がし屋を追う必要などあるのだろうか?
蓮の瞼の裏に明日香の顔が思い浮かんだ。落ちたカーテンの中で、彼女は絶望の目をしていた。全てが終わってもいいという諦め。たった一人の少女が死を選ぼうとした事実に、蓮は震えた。始まりの気持ちは分からないが、あの瞬間から、蓮には剥がし屋を追う理由ができたような気がしていた。だから、正気から話を持ち掛けられた時、驚いた振りをしたものの、内心では嬉しかったのだ。それだけに、正気のあの体たらくが許せなかった。
参考書を閉じて、スマホを出した。ツイッターを開く。
数日前から、ツイッターは例の文学賞の件で持ちきりだった。三日前に死亡が伝えられた琴平フィルについて、様々なアカウントが様々な主張を繰り広げている。その中では、さっきの正気の件はボヤ程度に抑えられていた。不幸中の幸いというやつである。
『これがエンタメを意識しすぎた善印賞のなれの果てだよ』
そう発言するアカウントが、善印賞でこれまで選考員たちが下してきた批評の様子を短く切り抜いた動画をアップしていた。作品だけでなく、それを書いた人間をバカにするような笑い声に、蓮はすぐに動画をストップした。
『琴平フィルさんを全力で潰しに行く意味はあったのでしょうか?』
別のアカウントがそう問いかけていた。四万以上のリツイートがついている。
蓮は思う。意味があると思っているから、人は誰かをぶっ叩けるのだ。誰もが良い子でいることを強要され、そこから逸脱した人間を悪の根源のようにして見ている。明日香はそういう大勢の人たちの圧力に押し潰されてしまった。それを煽動したのは、紛れもなく剥がし屋だ。
古代ギリシアでは、民衆の感情や無知に働きかけて民意を得て、政治を行う人々がいた。彼らをデマゴーグと呼び、現在でもデマという言葉に名残を見ることができる。世界史で習うような知識だ。だが、この現代社会で、誰もそれを現実味を持って実感してはいない。二五〇〇年経っても、人はたいして意識が変化していないのだ。
蓮を突き動かしたのは、そういう人々の愚かさが許せなかったからだ。そして、その愚かさの象徴が剥がし屋だった。
蓮は正気の言葉を思い返していた。
「五分の一が霜田区に関係してる人間なんだぞ」
三十二人いる剥がし屋の被害者の中で、約五人に一人は霜田区に関係がある。他の二十五人余りはバラバラの地域に住み、性別も年齢も仕事も異なっている。蓮は剥がし屋のツイートを改めて見直した。正気がピックアップした六人を、自分でもノートに書き写す。六人のうち三人は教育に携わる人間だ。この六人に明日香を加えると、剥がし屋の被害者の中には桜が丘高校の生徒が二人いることになる。しかし、なぜ洋介が狙われたのかは分からないままだ。
蓮はノートに「正気」と書いて、そこから矢印を引いて「明日香」に繋げた。明日香が標的となったのは、おそらく剥がし屋が想定していた以上に正気に剥がしの効果がなかったことによるだろうと蓮は考えていた。明日香の剥がしは正気の剥がしに付随する部分が大きかったからだ。つまり、剥がし屋にとっては、正気が最初のターゲットなのであり、明日香は正気へのダメージを高めるためのオプションのようなものだった。
正気は霜田のカイザーを名乗る男の運転する車に向かっていった。ツイッターに上がったあの動画の前後関係は不明ながら、正気の証言やカイザーのユーチューブチャンネルを観れば、正気が煽り運転を仕掛けられたことは明らかだ。
蓮はユーチューブの霜田のカイザーのチャンネルページを開いた。いくつものくだらなそうな動画のサムネイルが並んでいる。そのいくつかに、どこかで見たような顔が混じっていることに気づく。記憶を辿っても思い出すことができない。蓮はそのスクリーンショットを撮って、岡島にラインを送った。
『これ誰か分かる?』
写真に矢印をつけてそう送った。
岡島は剥がし屋の信奉者といってもよかった。だから、洋介が剥がされた時に蓮との仲は絶縁しかかっていた。しかし、剥がし屋がウソの情報で江口整体院を陥れようとしたことを説明すると、半信半疑ながら蓮の主張を受け入れたようだった。
『D組の奥村じゃん』
暇だったのか、すぐに岡島からの返信がある。それで蓮も胸のつかえが取れた。
『お前観てんの?』
『このチャンネル』
岡島がバカにしたような顔のスタンプを送ってきた。
『観てない』
『でも剥がし屋と関係がありそうだと思って』
蓮がそう返すと、岡島からの通話リクエストが届いた。蓮が出ると、岡島は一発目に意味深に声を作って言った。
『お前、奥村組に関わんない方がいいぞ』
『いや、分かってるけどさ』
『目つけられたら終わりだぞ。この前だって、女子が用水路に落とされたって聞いたぞ』
蓮にとっては初耳のことだった。
『誰?』
『こないだ剥がされてた……』
『和谷さん?』
『そうそう、それ』
蓮は思わず頭を抱えてしまった。異変に気付いた岡島が聞いてくる。
『なに? なんかあったの?』
『いや、なんでもない』
岡島は少しだけ沈黙してから、諭すような声を出した。
『お前さ、和谷正気の車に乗ってなかった? さっきめっちゃ写真とか出てたけど』
『写ってたの?』
『はっきりとは写ってなかったけど、見る人が見たら分かるよ』
今度は蓮の口から溜息が漏れる。踏んだり蹴ったりである。
『お前さ、仮にも受験生なんだから、あんな奴とつるむのやめろよ』
『……そういうアレじゃないから』
『アレってなんだよ、ジジイかよ』
『ジジイじゃないわ』
『とにかく、奥村組とかと関わったらロクなことにならないからやめた方がいいぞ。俺これから予備校だから、もう行くね』
『分かった。悪い。ありがとう』
『マジで変なことに首突っ込むなよ』
通話を終えて、蓮の頭の中にひとつの仮説が立ち上がっていた。
放課後の学校に和谷一家の姿があった。
桜が丘高校は、通っている生徒たちには申し訳ないが、中の下といったレベルの高校だ。真面目な生徒もいれば、力が全てだと思っている連中もいる。部活動はある程度盛んで、野球部は地区大会では準優勝まで進んだことがあるし、剣道部は都大会ベスト16まで勝ち進んだ実績を持つが、どの部活も愛想笑いしながらでしか自慢できないくらいの強さだ。
部活に勤しむ生徒たちの声を掻き分けるように和谷一家は校舎への道を歩いていた。すでに三年生は部活を引退しており、久しぶりに校庭の土を踏む明日香にとっては、見知った顔がそこら中にいないのは幸いなことだった。もともと、明日香は来る予定ではなかったのだが、本人の強い希望で今ここにいる。私服で学校に来るのは、これが初めてのことだ。
応接室には、雉岡副校長と猿渡学年主任とD組の犬養担任が揃っていた。冗談みたいな名前の並びだが、こればかりは神様のイタズラだと言うほかない。
学校側は、明日香の自殺未遂を受けて、校内でのいじめなどがなかったかの調査や明日香のケアについての報告の場を設けると応じた。今日がその約束の日だ。
「その後、調子はどうですか?」
雉岡副校長がそう尋ねた。七海が答える。
「色々な方にご助力いただきまして、なんとか」
「校長先生はいないんですね」
正気がチクリとやると、七海が無言でそれを制する。雉岡副校長は苦笑いで応じた。
「校長が区の教育会議に出ておりまして……。それで、先日お伝えしました校内での状況について報告させていただきたいのですが、猿渡先生から……」
猿渡学年主任は気難しそうな男だった。プリントアウトを一部、和谷夫妻の前に置くと、自分が持っている書類に目を通した。
「明日香さんのクラスでの様子ですが、聞き取り調査をしたところ、普段と変わらない様子だったという声が多く、いじめられていたというような回答がなく、我々としてはいじめというよりは、個人間での人間関係のトラブルがあったのではないかと考えております」
明日香が密かに口をきつく縛った。正気は黙っていられなかったようだ。
「個人間のトラブル? 娘は用水路に突き落とされてるんですよ」
「そのことについてなんですが」猿渡学年主任は困惑したような表情を浮かべた。「調べましたところ、目撃者もなく、確認が取れなかったんです」
「あの用水路がある道はもともと人通りが少ないんだよ」
正気が食い下がるが、猿渡学年主任は隣の犬養担任と顔を見合わせるばかりだった。正気は鼻息荒く前傾姿勢になる。
「この子の制服に足跡がついてた。ウソだったとでも言うのか?」
「そういうわけじゃありませんが、確認が取れなかったので……」
「この子が自分で用水路に飛び込んだってのか?」
「いや……」
教員たちからの返事は曖昧だった。正気の怒りを感じながら、七海は別の話題に移った。これ以上この件で話をするのは具合が悪い。
「娘のSNSに色々な誹謗中傷のメッセージが届いているんです」
猿渡学年主任はうなずいた。
「そのことなんですが、生徒たちによれば、お父様がドライバーを暴行している動画が原因だと話しているようでした」
「暴行はしてない」
正気が食い気味にそう告げると、猿渡学年主任は、まあまあ、というように手のひらを向けた。
「生徒たちはそれを見て、ある種、義憤といいますか、そういうものを抱えていたんだと思います」
「俺が悪いって言うのか?」
正気は腕組みをして、鋭い目を向ける。三人の教員は声を揃えて、
「そういうわけじゃないですよ」
と返した。明日香が小さく口を開いた。
「奥村くんがみんなの前で私を怒鳴ったことについてはどうですか?」
「怒鳴った……?」猿渡学年主任が怪訝な表情を見せて、隣の犬養担任の顔を見る。「そういう報告ありました?」
「いえ……。聞き取りをする限りでは何も……」
明日香は不信感でいっぱいの目を向ける。
「先生、奥村くんがクラスで好き放題してるのなんて、知ってますよね?」
「奥村くんはちょっと素行がアレなだけで、いじめというわけではないと思うよ」
「あ、そうですか。じゃあ、いいです」
明日香は燻る苛立ちを垣間見せて会話を切り上げた。もう無理だ、と悟ったのだろう。
「それで、今後の明日香さんのケアについてなんですが──」
手にしていた調査書類をテーブルに叩きつけて正気が立ち上がった。
「それはもうこっちで病院にお願いしてるんで必要ありません」
七海と明日香を立たせる正気に、教員たちが視線を集める。
「明日香さんの復帰についてもご相談させていただきたいんですが……」
「あんたらでは話にならねえから、別の機会に校長先生も交えて、させてもらいますよ」
正気はそう言い捨てると、二人を連れて応接室を出て行った。
校門から外に出る明日香の頬には一筋の涙が静かに流れていた。
十月二十四日の月曜日から、学校で聞き込みをする蓮の姿があった。
「奥村と霜田のカイザーの関係について何か知らない?」
蓮がそう尋ねても、生徒たちははぐらかすように去って行ってしまう。奥村組は校内でも触れてはならない存在なのだ。触らぬカイザーに祟りなしというわけだ。
月曜日も火曜日も、隙間時間を見つけては聞き込みを続けていた蓮だったが、成果は全くなかった。
奥村とカイザーが繋がっているというのは明白なことだ。そして、カイザーが正気を煽ってあの動画が撮られたことも疑いようがない。一方で、剥がし屋はその動画をいち早く見つけて拡散をした……。その関連性に、蓮は偶然以上の意味を見出していた。
奥村とカイザーは剥がし屋に繋がっている。そう考えたのだ。
とはいうものの、その繋がりを証明することができないまま、火曜日の放課後を利用した聞き込みも功を奏することなく、帰宅の途に就くほかなかった。
蓮は自分に言い聞かせていた。この仮説は正しいと。そうでもしないと、聞き込みを続けるモチベーションなど維持し続けることなどできない。スマホのスケジュールを開く。志望大学の推薦入試が一か月後に迫っている。小論文や面接への対策、共通テストや一般入試の勉強など、やるべきことが山積している。
世界一重い溜息をぶら下げて歩いていると、後ろから誰かが駆け寄ってくる足音がした。音を認識した次の瞬間、蓮はものすごい衝撃を背中に受けて、堪らず道路脇の用水路に頭から突っ込んでしまった。
予想外の出来事にぶち当たると、人間は変に冷静になるところがある。蓮も、用水路に落ちた瞬間にスマホの心配をしてヘドロの中をまさぐっていた。
「てめえ、なに探ってんだよ?」
頭上から声が降りかかってくる。見上げると、奥村が取り巻きを引き連れて用水路の縁に立っていた。
「え……?」
「コソコソ俺のこと嗅ぎ回ってんだろ。次やってんの見たら殺すからな」
奥村はそう残して行ってしまった。向こうの方で笑い声がする。
スマホを救助して用水路から脱出した蓮は全身泥だらけで、なんとも芳しい状態になっていた。幸い、スマホは壊れてはいなかったが、屈辱的であることは変わりない。通行人の好奇の目を受けながら家に帰ると、庭先の洋介が大笑いした。
「なんだ蓮、泥遊びでもしてきたのか?」
「今どき小学生でも泥遊びなんかしないよ」
ゴルフクラブをブラブラさせながら近寄ってくる洋介の鼻がひくつく。
「くさっ」
「普通心配するだろ」
「元気そうだからいいかなと思ってな」
正直なところ、洋介の反応は蓮にとってありがたかった。心配させたかったわけではない。家に入ろうとする蓮に洋介の声が投げかけられる。
「お客さん来てるぞ」
玄関に入ると千夏が飛んできて、泥だらけの蓮を見ると、
「えっ? 田植えでもした?」
と問い掛けてきた。
「なんで十月下旬に田植えするんだよ。真冬に冷やし中華始めるくらい真逆だろ」
千夏がリビングの方に視線を向ける。姿を現したのは、正気だった。
「お、潮干狩りでも行ってきたのか?」
「潮干狩りに制服で行く奴なんかいませんよ」
制服の泥を落として、蓮がシャワーを浴びている。湯船には正気が浸かっていた。
「いや、なんでいるんですか!」
「ちょうどいいだろ」
「何がちょうどいいんですか」
びしょびしょの制服が風呂場の隅に折り畳まれて置いてある。泥を落としたのは正気だ。
「明日香も同じように泥だらけになって帰って来た。君もやられたのか?」
「まあ、そうですね……」
裸同士であること以上に、あんな別れ方をした正気に蓮はどう接すればいいか分からなかった。
「奥村って奴か?」
「知ってたんですか、奥村のこと?」
「明日香もそいつにやられたんだ」
蓮はシャンプーの泡まみれの頭をごしごしとやりながら言った。
「あいつ、絶対に剥がし屋と繋がってますよ」
「どうだかな……」
煮え切らない反応に、蓮は少しムッとした。
「っていうか、なんでここにいるんすか?」
「お風呂沸いてるって言うから」
「風呂じゃなくてウチにいる理由ですよ」
「君に謝ろうと思って」
虚を突かれた格好になった蓮は思わず聞き返した。
「え?」
「君に謝ろうと思って!!」
浴室を震わすような大音声に蓮は卒倒しそうになった。
「うるせえ……。聞こえなかったんじゃなくて、どういう意味か聞いたんですよ」
正気は湯船の中で正座をした。そのせいで水面下にあった乳首が露わになったので、片腕で隠した。少し恥じらいながら。
「どういう配慮なんすか」
「あのな……」正気はバカみたいに真剣だ。「俺には剥がし屋を突き止める方法が分からない。だから、ガムシャラに動くしかなかったんだ。そのことで不快な思いをさせたのは悪かった」
「なんですか、急に。らしくないですね」
「まあ、君が俺に期待をしていたのは感じてたよ」
「してないですけどね」
「その期待を裏切ってしまったというのが心苦しい」
「だから期待してなかったんですよ。悪いですけど」
「だが、俺は君が思うような完璧な人間じゃないんだ」
「おい、話聞け。欠落人間!」
「君の眼が言っている。『僕も剥がし屋を追いたいんです』、と」
「勝手に話進めるなよ!」
「というわけで、この後はウチに移動して剥がし屋を突き止める方法を相談しよう」
「今のこの時点で話が通じてないんですよ」
正気は言いたいことを言い終えて、満足したような顔で湯に肩まで浸かった。蓮は茫然とそれを見つめるしかない。
「……なんで、やり切った、みたいな顔してんですか」
「君にも少し時間はあるだろう?」
「いや、あの、僕は仮にも受験生ですし、用水路に叩き落された分の心のケアを誰からも受けてないんですよ。扱い雑じゃないですか?」
「風呂から上がったら準備してくれ」
「すごい会話のベルトコンベヤ」
どうにもならないと観念した蓮だが、気がかりなことがあった。
「でも、和谷さんの家に行っても大丈夫ですかね?」
「なんでだ? 別にお土産持ってくる必要はないぞ」
「いや、そうじゃなくて、明日香さんですよ。僕が行くと、あの日のことを思い出すんじゃないかと思って、ずっと申し訳なかったんです」
「あの日のこと……?」
「そうです」
「別に男女の間なら少しの諍いがあってもお互いに求め合う気持ちは確かなものだろ」
「そんなJポップの歌詞みたいなことじゃなくて、明日香さんが自殺未遂をした時のことですよ」
「そういうことか」
「それしかないでしょ」
「まあ、それは本人と話してみれば分かることだ」
そう言って、ずっと眠そうだった正気は目を閉じた。
「人んちの風呂で寝ないで下さい」
辺りはすっかり暗くなって、蓮は正気に連れられて和谷家を訪れていた。リビングでは七海と明日香がソファの手前に座っていて、蓮はすぐに階段の方へ向かおうとした。
「ちょっと待ってよ」明日香の声が蓮の背中を叩く。「少し話そうよ」
「いや、別に俺は……」
「私は用事があるんだけど」
蓮が居心地悪そうに低いテーブルを挟んで明日香の向かい側に腰を落ち着けた。それを合図に七海と正気が部屋を出て行く。二人を見守るように、青い座椅子がこちらを向いていた。
しばらくの沈黙の後、明日香は口を開いた。
「私って、関わりたくない人間に見える?」
「そんなことはないよ」
「ずっと私のことを避けてるよね。そりゃあ、自殺未遂した人間なんか、なに考えてるか分からないでしょうけど」
「そういうことじゃない」
「じゃあ、私を避ける理由は何?」
蓮は正気と風呂で話したことを思い返していた。きっと正気は、蓮の心の内も明日香の心の内も知っているはずだ。だから、このような席を設けたに違いない。そして、正気は言っていた。「本人と話せば分かる」と。その意味がポジティブなものと信じて、蓮は打ち明ける踏ん切りをつけた。
「俺が初めてここに来た時、和谷さんは突発的に自殺を思い立ったんでしょ。じゃあ、俺の顔を見るたびに、その時のことを思い出すんじゃないかと思って……」
明日香は背後のソファに身を預けた。
「そういうことか……」
「正直、あの時のことがずっと頭の中にあって……恐ろしかったんだよ」
「私がまたあんなことをするかもって?」
蓮はうなずいた。明日香は小さく笑った。
「あの時の私は本当に一瞬だけ魔が差したの。もう終わりだって信じ込んじゃった。私の部屋のカーテンレールね、ちょっと古くて昔からグラグラしてたんだ。それを直すのも面倒で、でもずっとウザかった。……そのままにしておいてよかった。そうじゃなきゃ、今こうして後悔できてないよ」
「ごめん」
「謝られると辛いんだけど」
蓮は目を丸くして、背筋を伸ばすと、頭を下げた。
「そういうことだから、変な気を回さないでほしいんだ」
「そうか……、よかった」
明日香は蓮をじっと見つめた。そして、小声で訊いた。
「パパと剥がし屋を捕まえようとしてるんでしょ」
急に図星を突かれて、蓮は飛び上がってしまった。七海にも明日香にも秘密だったはずだ。
「なんで知ってんの?」
「ママは気づいてないんだよ。昔からちょっと抜けてるところがあるからさ。でも、普通は気づくよね」
「お父さんは和谷さんがああいうことになったから──」
「あの、ごめん、もう名前で呼んでもらえる? 他人行儀すぎて気持ち悪い」
ヘドが出そうな顔をされて、多少傷ついた蓮は少々乱暴に明日香のお願いに沿うことにした。
「明日香がああいうことになったから、躍起になってるんだよ」
「空回りしてるでしょ?」
蓮は肩を落としたが、、同時に笑った。
「正直やばいよ、あの人」
「ちょっとネットで話題になってたもんね」
「もうツイッターとか見てるの? まだやめておいた方がいいんじゃ……」
「今は客観的に見れてるから大丈夫だよ。それに、パパがなんでそんなに躍起になってるのかは分かってる」
「なんでなの?」
「琴平フィルっているでしょ?」
「ああ、あの、炎上して……死んじゃったっていう」
「あのニュースを観てから目の色が変わったんだよ」
「同世代だからな……」
「パパ!」
突然、明日香が声を上げた。隣室の影から正気が顔を出した。
「見つかってしまったか」
正気は悪びれもせずに姿を現した。蓮は苦い顔だ。
「いつから盗み聞ぎしてたんですか」
「『同世代だからな……』から」
「来てすぐバレてんじゃないですか」
正気は笑いながら、青い座椅子に収まった。七海がお盆を持ってやって来る。カットしたリンゴが載っていた。
「ジョナゴールドよ~」
「リンゴを品種で言う人初めて見ましたよ」
蓮がボソリと言う。
「お互いに誤解があったが、丸く収まったわけだ」
正気が言うと、蓮も明日香も微笑んだ。
リンゴを摘まんだ後、正気は庭に面した窓際に蓮を連れて行った。向こうでは、七海と明日香がテレビを観て笑っている。正気は狭い庭の一角を指さす。
「薔薇が見えるだろ?」
蓮が目をやると、部屋の明かりを受けて赤い薔薇がぼんやりと浮かび上がっていた。
「見えます」
「あれは〝タフィー・ローズ〟だ」
「またバカスカ打ちそうな名前ですね」
「俺が勝手に名付けた」
「野球選手の名前を付けるって、どんなセンスしてんですか」
「この家は中古なんだよ。あの薔薇は俺がここを買う前からずっとあそこにある」
「はあ……」
話の行く末が分からずに、蓮は空返事した。
「水をやらなくても、台風で薙ぎ倒されても、火事で燃えても、必ずこの時期には花が咲いたらしい。今もそうだ」
「踏んだり蹴ったりですね。まず、水はあげた方がいいと思いますよ」
「だから、どういう境遇にあっても、花をつけられるような人間でいようと思って、家紋を薔薇紋にしたんだ。そのせいで、実家からは勘当された」
「話の展開が急すぎてついていけないんですけど」
さすがの蓮も表情を強張らせる。
「勝手に家紋を変えるのはけしからん、と言われたよ」
「まあ、そうなるでしょうね」
正気は蓮に微笑みかけた。
「……そういうことだ」
「いや、どういうこと?! なにも伝わってこないんですけど。……その満足そうな顔やめて下さい。腹立つから」
「まあ、なんとかなるってことさ」
あっけらかんとそう結論づける正気だが、蓮は素直にうなずくことができない。
「本当にそうでしょうか? もう何もかもうまくいかないんじゃないかと思っちゃいますけどね」
「どうにかなるさ」
正気の横顔に蓮は問いかける。
「ネットでボロクソに言われて、何も思わないんですか?」
「俺には兄貴が二人いるんだ。二人とも良い大学に行って、一人は官僚に、もう一人は大企業で頑張ってる。俺は昔から出来損ないだ。家でも学校でも、いない者として扱われた。それに比べれば、自分より下がいると誰かが安心できる話題の中心にいられるなんて、ずいぶんマシじゃないか?」
「いや……、でも……、悔しくないんですか? 二人とも絶対、悔しいと思ってますよ」
蓮がチラリと七海と明日香の方へ視線を向けた。正気は二人の方に声を飛ばした。
「悔しいのか?」
蓮はギョッとして正気を見た。小声で諫める。
「なんで直接聞いてんですか。情緒ってもんがないんですか」
「何が?」
明日香が首を傾げる。こうなると、もう正気は止められない。
「俺がネットでバカにされて、悔しいのか?」
蓮は手で顔を覆った。物語の機微というやつを正気は分かってないらしい。
「悔しいに決まってんじゃん」
明日香が即答すると、正気は嬉しそうに相好を崩した。
「そうか」
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