一章 そんな整体師はいない
「江口整体院」が「エロ整体院」になっていた。
そういうセクシーなビデオの話ではない。看板のさんずいが塗り潰されているのだ。白地にスカイブルーの文字、「江」のさんずい部分に乱暴に白いスプレーが吹きつけられていた。
日曜日の朝、普段なら院は閉めてゆっくりとした時間が江口家には流れていたはずだ。蓮がベッドの中で目を覚まして一発目に耳に飛び込んできたのは、父である洋介の大笑いする声だった。
「笑い事じゃないでしょ……」
蓮が一階のダイニングに降りて行くと、母の千夏が途方に暮れた表情で洋介を見つめていた。
「なんかあった?」
頭をボリボリ掻きながら寝ぼけ眼を向ける息子を、洋介はワクワクしたような笑顔で玄関の外へ連れ出した。江口家は自宅に整体院が併設されている。
秋がまさに街を行進していた。肌寒い空気に包まれて、蓮は洋介が指さす院の看板を見上げたのだった。
「なに、この、リンパを口実にいやらしいことする整体師がいそうな看板は?」
「父さんも二十年ここをやってきて初めて気づいたぞ。こんなに簡単にいやらしそうになれるなんてな」
「なんでちょっと嬉しそうにしてんだよ。笑い事じゃねえだろ……」
玄関のドアが開く。千夏が呆れた顔で立っていた。
「ほら、蓮だって同じこと言ってる」
さんずいにぶっかけられた白いスプレーはいくつかのインクの筋を垂らして固まっている。その向こうの青空の爽やかさとは対照的な看板に、蓮は今すぐベッドに戻りたい衝動に駆られた。
「どうすんの、これ?」
洋介はポケットからスマホを取り出していた。
「記念写真撮ろう」
「なんでだよ」
洋介は千夏を手招きする。
「ほら、ちーちゃんも。こんなこと滅多にないんだから」
「いや、なんでそんなカジキマグロ釣ったみたいな雰囲気でいられるのよ」
渋々写真に収められた母と子は、茫然と看板を見上げていた。
「いつの間にこんなイタズラされたんだろう?」
蓮は冷静でいるというより、起きたてホヤホヤで半分ベッドに足を突っ込んでいるだけだ。一方の千夏は呆れすぎて逆に冷静に見える。
「さあ……、夜の内にやられたんじゃないの」
「警察呼ぶの?」
蓮はそうしなければならないからそう言ったのではなく、とりあえずビール的な流れに沿ってそう口にしたらしい。その表情からは、何の感情も読み取ることができない。
「霜田区の警察にこんな大事件を処理できる能力があると思えないけどね」
およそ善良な市民とは思えない感想を述べる千夏であったが、ここ霜田区に住む人間なら、誰もがうなずかざるを得ないところがあるのも事実だ。
東京都霜田区。読者諸君には馴染みがないかもしれない。それもそのはずで、「東京で最も影が薄い区ランキング」では、ランキング開始から七年連続で最下位を独走している。その割には、「牛丼をスープ料理だと思ってそうな区ランキング」で二十三年間不動の一位の座に君臨する、全ての日本国民にとって謎の自治体である。
霜田区の警察には〝前科〟がある。民家から逃げ出したペットのブルドッグを署員総出で二週間経っても見つけられなかったのだ。ブルドッグは失踪から二日目、七十九歳のおじいさんに保護されて飼い主の元に帰ったが、市民はそのことを警察に報告し忘れていた。実際のところ、警官たちは二週間ほどブルドッグの幻を追いかけていただけだった。「見つけました」と署員が名乗りを上げて捕まえてきたのはミニチュアダックスフンドで、これにはツイッター上で「どうやったら犬種が変わるんだよ」と総ツッコミされていた。
「まあ、確かに。通報したら逆に警察を困らせることになりそうだな」
市民に心配されて通報を見送られるのが、霜田区の警察だ。その代わりになるかは分からないが、市民は自分の身は自分で守る心構えができていて、精神だけは銃社会の様相を呈している。
被写体を撮影し続ける洋介に、千夏はため息交じりの視線を送った。
「ねえ、洋ちゃん、アッパーなカメラマンじゃないんだから、早めに看板綺麗にしないと」
「なんだ、番組に投稿しようと思ったのに……。あるだろ、あの珍しいやつをアレするアレが」
「こんなクソみたいな話題でテレビ出たくないわよ……」
「棒読みで『うちの整体院がいやらしくなってしまったんです』とか言いたくないんだよ」
クールな母と子にボロカスに言われて、洋介はようやく写真を撮る手を止める決心をしたようだった。
「仕方ない。ホームセンターで何か探してくるか」
自分の院の看板が汚されて「仕方ない」で済ませる父に、蓮はあくびを返した。
とはいうものの、千夏にとっては不安が増す出来事には違いなかった。洋介が一人で車を出してホームセンターに出かけるのを見送ると、蓮が朝食にありついているのを見ながらガックリと肩を落とした。
「大丈夫?」
口の中をスクランブルエッグで真っ黄色にしながら蓮が尋ねた。
「話したっけ? ここのところお客さんが減ってきてるって」
「コロナででしょ」
国内では二〇二〇年から流行が始まった新型コロナウィルスの感染は、ここ霜田区にも例外なく目をつけて爪痕を残している。
「コロナで一回減ったけど、戻ってきたのよ。それが、二、三週間前から急に……」
それまで一日につき五から七人程度の客が入っていた江口整体院だったが、最近では多くても四人ほどと客足が遠のいていた。
「なんでだろう? 父さんの腕落ちたのかな」
「それ、お父さんが聞いたら泣くから言わない方がいいよ」
「マジで? そんなナイーブだったっけ」
「絹ごし豆腐ぐらいナイーブだからね」
「木綿豆腐かと思ってた」
「木綿豆腐みたいな顔してるけどね」
自分たちの夫と父に対してひどい言いようだが、二人は愉快そうにクスクスと笑った。
「でも、客が減った原因は分かってないの?」
千夏はう~んと腕組みをした。
「少し前からイタズラみたいなのはあったのよ。ウチ、ホームページから予約できるでしょ。予約の申し込みがたくさんきて、それが一気にキャンセルされて、ひどい目に遭ったのよ」
「予約のキャンセル料取らないから……」
江口整体院は良心設計でこの二十年間をやり遂げてきた。それが洋介の唯一のポリシーといえることだった。
「お父さんがやりたがらないからね。あとは、馴染みのお客さんも何人かキャンセルして来なくなっちゃったりとか……」
「なにそれ。結構重大な問題じゃん。なんでウチには悲壮感の欠片もないの?」
「お父さんあんなんだからさ、暇な時間が増えて野球観る時間が増えたとか言ってんのよ。あと、ユーチューブ観ながら武術の真似事したりしてんの」
「まあ、幸せそうでよかったじゃん」
「ちょっとは不幸せそうにしてほしいわ」
「なんつーことを言うんだ」
「だって、下手糞な武術の技の実験台にされてんだよ」
蓮はスープを飲み干して、しばらく黙っていたが、ついに言った。
「確かに、少しは不幸せそうにしてほしいな」
食事を終えて二階の自室へ向かおうとする蓮の背中を千夏の声が叩いた。
「勉強頑張ってね」
「はいよ~」
気の抜けた返事をする蓮は受験生だ。来月には推薦入試も控えている。嫌々ながらも机に向かわねばならない身分だが、そういう時に限って意識は散漫になるものだ。
部屋に戻った蓮は気がかりだった。いくら父があんなに能天気でも、整体院の異変は江口家の危機に繋がることだ。蓮はベッドに寝転んで、スマホを片手に思案していた。やがて、スマホでブラウザを開き、検索窓に「江口整体院」と入力した。
グーグルの検索結果に小さな地図が表示される。現在地から最も近い……というか、現在地の江口整体院がトップに躍り出ている。蓮はそのまま院の情報を見ようとする。最近では、この検索結果に付随した店舗の口コミを巡ってネット上で問題も頻発している。
蓮は気が進まなかった。ツイッターもラインもインスタグラムもティックトックもアカウントを作ってそれなりに活用していた。だが、そういったSNSで度々燃え盛る負の感情に触れるのは苦手だった。そういうドロドロしたものと距離を置いてきた人生だった。とろろや納豆が苦手なのもそのせいかもしれない。
江口整体院に寄せられている口コミは二十一件だ。星五つで表される平均評価は一・六で、店舗に対する口コミとしては極端に低いレベルだ。口コミを新着順にソートして、一番上に出てきた口コミにはこうある。
『セクハラ整体師がいるところ。AVの見すぎ』
その一つ下の口コミはこうだ。
『絶対利用したくない』
全て最低ポイントの星一つが付けられている。それが十六日前まで続いていて、星一つの口コミは十七件に及んだ。それまでの口コミは星四つか五つで、コメントがないか好意的なものしかない。
嫌な予感がして、蓮は思わずベッドの上に胡坐をかいて座った。何かが起こっていることは明白だった。あんな父だが、人を不快にさせるようなことはしないはずだというのは蓮が一番知っていた。というのも、すでに読者諸君はお気づきかもしれないが、蓮の父の名前は洋介……あの大俳優と同姓同名なのだ。
そのせいで──もとい、そのおかげで蓮は世代が全く違うかつてのトレンディドラマに詳しくなっていた。洋介は変に真面目なところがあって、同姓同名の俳優の名前に傷をつけたくないという理由で品行方正を貫いてきたらしい。言ってみれば、そこに愛があったわけだ。
何か間違いが起こっていると思いながら、蓮はブラウザの検索窓に「江口整体院 AV」と入力した。そういうセクシーなビデオを求めているわけではないが、もしかするとグーグルには蓮がそういう性癖を持っている人間だと認識されたかもしれない。その証拠か分からないが、検索結果の上位にはビデオ屋の暖簾の向こう側にあるような情報が掲載されている。ブラウザを閉じて、蓮はあることを思い出した。
蓮が中学生だった頃、洋介は告知目的で江口整体院のツイッターを開設していたのだ。しかも、「えぐっちゃん」とかいう、センス皆無の手描きのキャラクターまで作っていた。ツイートは、そのえぐっちゃんが喋っているというテイでやっていたが、どうやら最初の数か月で飽きたらしく、それ以降、更新はしていないはずだった。
ツイッターを開いて検索窓に「江口整体院」と入力すると、サジェストキーワードが表示された。そこには「AV」や「変態」といった言葉が並んでいた。すぐに検索結果を表示すると、数百件のリツイートがあるツイートが出てきた。「剥がし屋」というアカウントが四枚の画像と共に江口整体院について言及している。
剥がし屋 @dismask_____
東京都霜田区西南禅寺三‐四‐十二。
江口洋介。
江口整体院。
複数客にセクハラするような整体師に営業する資格なんてあるんですかね。
アカウント:@egucchan_dayo
21:07‐2022/9/14‐Twitter Web App
一枚目と二枚目の画像は「被害報告」として、どこかのページのスクリーンショットが貼りつけられている。そこには、口コミのテキストだけが切り抜かれていた。
『施術の説明をしている時から視線がおかしいなと思っていたんだけど、施術とは関係ないところを触られて確信した。でも何も言えなくて、気持ち悪くて具合悪くなったふりしてすぐ出てきた』
『変なところに鏡があって怪しかったから、置いてあった着替えの山で隠して着替えた』
『全然効かないし、鼻息荒いし、変なとこ触ってくるし最悪』
これを見る限り、最低な評価が目白押しだ。三枚目の画像は、グーグルストリートビューの整体院の外観、四枚目の画像は江口整体院のツイッタープロフィールのスクリーンショットだ。
蓮には、おいそれとは信じられないことだった。尊敬できる人間として紹介できる父ではないが、最低な人間ではないはずだ。
件のツイートには、数十件のコメントが寄せられている。
『キモいわ』『AVかよ』『マジかよ江口洋介最低だな』『めっちゃ近所やん』『こういうセクハラまがいの整体師表に出てないだけでたくさんいそう』『ダー子を敵に回すから……』
このツイートを引用して、自称人権家のアカウントが長文の主張を並べている。そこにも多くの激情に満ちた言葉が並んでいる。その誰もが、さも当事者かのように怒っている。
剥がし屋のアカウントを見ると、複数のSNSアカウントの個人情報が掲載されており、いずれも問題発言や非常識な行動など、いわゆる炎上案件を抱えた人々だということが一目瞭然だ。中には、有名人の名前もある。
剥がし屋には五万人ほどのフォロワーがついていて、告発ツイートがあるたびに持ち上げるようなコメントがついている。高校で友人が剥がし屋の話をしているのを聞いた記憶が蓮の脳裏に蘇ってきた。
「個人情報晒すのってダメなんじゃないの?」
蓮がそう言うと、岡島悟は笑った。
「そいつらは自分で自分の個人情報載せてんだよ。剥がし屋はそれをまとめてるだけだから。バカがバカなことして勝手に自爆してるだけだよ。自業自得」
ピンと来ていなさそうな蓮に悟は言った。
「剥がし屋に剥がされるようなことしてるのが悪いんだよ」
なぜか悟が鼻高々だったのが妙に気になっていた蓮だが、まずいことになったと認識するまでに少し時間がかかった。
江口整体院についての剥がし屋のツイートは九月十四日で、今から十八日前のことだ。グーグルの口コミは十六日前から星一つのコメントが急増している。剥がし屋のツイートが引き金となって、口コミや予約のイタズラが発生している可能性が高い。
部屋を飛び出して階下に降りると、ちょうどホームセンターから帰って来た洋介が玄関のドアを開けたところだった。
「会長が帰って来たぞ~」
酔っぱらいが寿司折をぶら下げるみたいにして、ホームセンターの袋を顔の前でブラブラさせている。
「元会長だろ」
「でもPTAだぞ」
マスクを外して顔を決める。
「二年前の栄光をいつまで引きずってんだよ。一発屋かよ」
「でもダイナミックな話し合いを裁くのって大変なんだぞ」
「どんな話し合いしたんだよ。そんなことよりこれ見てよ」
靴を脱いでいる洋介にスマホを差し出す。洋介は目を丸くした。
「おい、アイフォンの最新のやつじゃないか」
「機種を見ろって言ってんじゃないんだよ。画面の中を見ろよ」
「ああ、すまん。正確にはアイフォーンか」
「発音はどうでもいいから、それ見てよ」
スリッパを履いて廊下に立った洋介はじっとスマホの画面を見ながら黙りこくってしまった。さすがの洋介にも堪える内容だったかもしれない。空気を察して、蓮も声のトーンを落とした。
「……めちゃくちゃ拡散されてるんだよ」
「すごい宣伝効果だな」
「視神経迷走してるのか知らないけど、よく見ろよ。こんなやばいこと書かれたら、そりゃあ看板イタズラされるよ」
「誰なんだ、こんなこと言ってるのは?」
洋介は蓮にスマホを返してリビングに向かった。
「知らないけど、今ネットで活動してる剥がし屋とかいうのに目をつけられてるよ」
「剥がすって何を?」
「いや、知らんけど」
リビングのテーブルでノートパソコンとにらめっこしている千夏が洋介たちを出迎えた。その表情はどこか曇っている。
「明日の予約、また全部キャンセルされてるわ」
洋介から驚きの声が漏れる。
「ええっ?!」
千夏の白い目が向けられる。
「なんでちょっとニヤニヤしてんのよ。どうせ暇になるのが嬉しいんでしょ」
「そんなことねえよ」
洋介はそう言って小さくスキップする。身体は正直だ。蓮は思うのであった。あれ、こいつらダメージ食らってないんじゃねえか、と。洋介は続ける。
「残念だけど、ここまでキャンセルが続くなら、一旦一週間くらい店を閉めるか」
「なんで嬉しそうに言ってんのよ。休みたいんでしょ、本当は」
「二人で旅行行こうって言ってたんだし、ちょうどいいだろ」
「二人で?」
聞き捨てならない言葉に、蓮は眉をひそめた。洋介はしれっとうなずいた。
「夫婦水入らずでな」
「息子を置いていくなよ」
「蓮は受験勉強してるからいいかっていう話をしてたのよ」
「してたのよ、じゃないわバカ」
悪びれもせずに言い放つ千夏に、蓮は見捨てられた子犬のような目を向けた。もう法律上は大人だし、家族とベッタリなわけではない。そういうことではなく、なんか悔しいのである。
「そんなこと今はどうでもいいから」蓮は仕返しのようにカードを切った。「大変なことになってるんだよ」
三人はテーブルを囲んで家族会議を開始した。蓮がさきほど仕入れてきたツイッターでの炎上について話をすると、千夏も洋介も驚きの声を上げた。
「いや、父さんはさっき知っただろ」
「すまん、何となくノリで驚いてしまった」
「なんで余裕ぶっこいてんだよ。整体院潰れたらどうすんだよ、マジで」
さすがの洋介も蓮の訴えを前にヘラヘラしていられなくなってしまった。
「いや、まあ、お客さんが離れて行ったことは何度もあったからなあ……」
「その時は、なんでそんなことになったの?」
「単純に下手糞だって言われたのよ」
ひっくり返るほど簡潔に千夏が説明をすると、洋介は当時を思い出したのか名俳優並みのスピードで涙目になってしまった。さすが江口洋介である。
「あと、単純に臭いって言われた時期もあったわね」
自分の夫がこき下ろされたとは思えない感情のなさで千夏が付け加えた時、洋介の頬を涙の雫が、散る花びらの速度で伝っていった。蓮がそっとティッシュの箱を滑らせると、バーのカウンターでグラスを受け取る紳士のようにティッシュを一枚抜き取った。
「今回はそういうバカみたいな理由じゃないから」
「なんだ、バカみたいな理由って!」
泣いたり吠えたりと忙しい男である。千夏は訝しむ様子で洋介に目をやった。
「セクハラまがいのこと、やってないわよね?」
「やっ、やややや、やってないよ」
「なんでやった奴みたいな反応してんのよ!」
洋介は顔の前で小刻みにチョップをする。謝罪しているらしい。
「やってない、やってない。それは本当に信じてくれ」
「本当にやってたら離婚だけどね」
「いっ、嫌だぁ~!!」
突然、洋介が喚きだした。しかし、千夏も蓮も犬が足を上げてマーキングするのを見るような目をして洋介を見ている。読者諸君にとっては初めての経験かもしれないが、江口家にとっては洋介の嘆きは見飽きるような一過性のイベントに過ぎないのだ。
「でも、なんでこんなこと書かれてるのかしら? しかも剥がし屋に」
喚く洋介を尻目に千夏は蓮のスマホ画面に目を落とす。
「剥がし屋知ってんの、母さん?」
「ちょっと前に夕方のニュースか何かで取り上げられてるのを観た記憶があるわね。お騒がせ者の個人情報を暴露するから、正義なのか悪なのかみたいなことを言ってたと思う」
「これを見る限りはウソを撒き散らしてるよな」
鼻を噛んだ洋介が何事もなかったかのように会話に参戦する。
「ウソだっていうことを証明しないと、間違った情報が拡散するだけだよ」
蓮は頭を抱えるが、洋介はこともなげに剥がし屋が投下した画像の一枚を大きく表示した。口コミのスクリーンショットだ。
「『置いてあった着替えの山』って書いてあるけど、ウチは着替え有料だからそんなものないからなぁ……」
ラストの一行でどんでん返しする小説でも読んだかのような表情を浮かべて、千夏は声を上げた。
「そうじゃん! こんなことウチじゃあり得ない!」
「なんだ、やっぱりウソだったのか……」
千夏は立ち上がった。早々に家族会議はフィナーレを迎えたようだ。
「つまり、この剥がし屋がウソ情報でウチを炎上させようとしたってことね」
「最低だな、剥がし屋」
蓮は自分のスマホに唾を吐きかける勢いだ。千夏は憑き物が落ちたように笑みをこぼした。
「でもよかったじゃない。ツイッターで説明したらみんな分かってくれるわよ。確か、アカウント作って放置したままでしょ」
「なるほど……」洋介は目を鈍く光らせた。「それなら、宣伝効果も見込めて、一石二鳥だな。じゃあ、ちょっと世界を変えるツイート……ぶちかましてやるか」
「あ、その前に」リビングを出ようとする千夏が振り返る。長い髪が揺れた。「看板、さっさと綺麗にしちゃってね」
読者諸君は実感するところだろうが、炎上というやつは水をぶっかければ素直に消えるというものではない。燃え盛るのは化学的な炎ではなく、情念が光を放っている業火だ。もし、洋介に任せたことで嫌な予感を覚えた方がいたとしたら、その方は洋介の取扱説明書を作成するための認定書を持っていることと思う。引き出しの奥にクシャクシャになっていないだろうか。今一度確認してみてほしい。もし見つけ出したのなら、今すぐ捨てても支障はない。
千夏も蓮も、意外にも洋介が摘まみ上げた微かな違和感によって無実の罪を着せられていることを証明できた喜びで、詰めを甘くしていた。翌日、事態はとんでもない方向に転がり出していた。
予備校から帰って来た蓮を出迎えたのは、葬式かと思うほど暗い夫婦の顔だった。
「え、なに? 海外の映画の家の中みたいに暗いけど……」
家の中の照明は一つもついておらず、千夏と洋介は真っ暗なリビングのテーブルを挟んで、人類を補完しそうなムードで頬杖を突いていた。
「帰ったか、シンジ」
洋介の低く重い声が冷気のように響いた。
「いや、誰だよシンジって。蓮だよ」
「綾波か」
「それはレイ。俺は蓮」
蓮がリビングの照明をつけると、夫婦揃って「うわっ! 眩しっ!」と叫んで手のひらを瞼に押しつけた。
「いつからヴァンパイアが親になったんだよ……。何してんの、二人して?」
千夏が疲弊した目を蓮に見せる。
「今日はイタズラ電話がひっきりなしに来てたのよ」
「イタズラ? 何かあったの?」
「無言電話だったり、暴言を吐かれたり、散々だったのよ……」
聞けば、それで業務もままならない状態で、今日一日で施術客は二人しかなかったという。
「なんで? ツイッターでちゃんと説明したんだろ、父さん?」
「う~ん、ちゃんとやったんだけどなあ……」
不審に思って、蓮はスマホでツイッターを開き、江口整体院のアカウントを表示させた。最新のツイートにはこうある。
えぐっちゃん@江口整体院元気に営業中! @egucchan_dayo
みんな~久しぶりだグッチ!
なんか、ツイッターでウソ情報が拡散されてるらしいから、気をつけるグッチよ!
ちなみに、今日はご主人様たちは看板掃除してたグッチ! エロくなくなったグッチね!
18:24‐2022/10/2‐Twitter for Android
ご丁寧に、洋介が撮った「エロ整体院」看板を背にした家族写真がマスキング処理なしで載せられている。もう一枚の写真は綺麗になった看板のものだ。
「なんでキャラで説明してんだよっ!」
「え?!」
洋介は驚き過ぎて口から飛び出した心臓を安いホルモンみたいにモグモグしている。
「なんでそんなに純粋に驚けるんだよ。見ろよ。このツイートのせいでめちゃくちゃ炎上してんじゃん!」
えぐっちゃんの四年ぶりのツイートには一万を超えるリツイートがあった。リプライ欄は現世に顕現した地獄みたいなもので、とりあえず罵詈雑言を血で煮込んだみたいになっている。
「しかも、この写真、みんなでピースしたやつじゃん。これ、めちゃくちゃ世間に喧嘩売ってるわよ……」
顔が出ていることはどうでもよく、手描きのえぐっちゃんが汚い笑顔で大衆を煽っているようにしか見えないのが問題だった。千夏は死ぬほど深い溜息をついてテーブルに額を打ち付けてご臨終した。洋介は理解を得られないことに対して薄く笑いを浮かべていた。
「いや、このツイッターはえぐっちゃんのつぶやきっていうコンセプトだから……」
「なんで炎上中の奴がキャラ守ってんだよ。仮にデーモン閣下とかさかなクンが炎上したら、『吾輩』とか『ギョギョ』とか言わないだろ」
「そうか……」さすがの洋介も反省せざるを得ないらしい。「じゃあ、えぐっちゃんが俺を紹介して、俺がえぐっちゃんのツイッターを借りてますっていう説明をしなきゃいけなかったのか……」
「世界観が厳格すぎるんだよバカ! もうえぐっちゃんのこと忘れろよ」
「なんてひどいこと言うんだよ。えぐっちゃんはずっとツイッターで待ってたんだぞ」
「四年間無言だったら、それもう死んでるだろ……」
テーブルに突っ伏したままのママがそのまま口を開いた。
「これでやっと、今日死ぬほど受話器を耳に押しつけた原因が分かったわね……」
恐ろしくドスの利いた声だったが、もはや洋介をしかりつける気力はなさそうだった。
「父さん、とりあえず、このツイート早く消した方がいいよ」
リツイート数は仮装大賞の得点並みにうなぎのぼりだ。淀んだ空気を察して、洋介はスマホを取り出した。
「えぐっちゃん……ごめんな……」
洋介はそう言いながら、えぐっちゃんの言葉を奪い取っていった。蓮がふとトレンドワードのページを見ると、見事に「エロ整体院」と「江口整体院」、そして不幸なことに「江口洋介」がトレンドに入っていた。
「ん? DMがめちゃくちゃ来てる……」
霜田区の恥さらしの方の江口洋介のその言葉は、今の江口家にとっては死刑宣告のようなものだった。洋介は一通のDMを音読し始めた。
『おい』
『ツイート消して逃げてんじゃねえよ』
『どうせ剥がし屋に晒されてんだから諦めろや』
蓮は急いで剥がし屋のアカウントを見に行く。つい今しがた更新されたツイートには、さきほど洋介が削除したツイートのスクリーンショットが貼りつけられていた。さらには、あの家族写真もセットになっている。
「あぁ……、終わりだ」
蓮は腰が抜けたように椅子にもたれかかった。リビングは静けさに包まれている。蓮は不思議に思って、固定電話が置いてある方を見た。電話線がぶっこ抜かれているではないか。これは千夏の相当なストレスの賜物だ。
「そのうちみんな忘れるさ。人のウワサも四十九日っていうだろ」
「それは法要だろ。ウワサは七十五日だから」
SNSが普及した現在では、ウワサは七十五日どころか五日続けば長い方だ。誰も三日前に炎上した一般人の名前など覚えてはいない。その代わり、調べればいつでも掘り起こすことができる。
洋介が言ったことが理解はできても、蓮には納得が行かなかった。
──なぜウチが狙われなければならないのか?
それまで平穏な日々を過ごしてきたはずなのに、急に混沌の坩堝に放り込まれて心穏やかでいられるわけがない。
夕方に予備校で詰め込んできたことの何割かをリビングに置き忘れて自室に戻る。復習をしようと机に向かうが、身が入るはずもない。気づけば、スマホでツイッターをチェックしていた。どこかに江口家が標的にされた理由が転がっているのではないかと考えながら。
トレンドに「善印賞」「批判殺到」「琴平フィル」とあるのを見つけた。そして、その流れに「剥がし屋」の名前もある。蓮は険しい目で情報を追った。
どこかのツイッターアカウントがまた燃えているのだ。
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