アンジェリカは旦那様を誘惑したい②
その日、アンジェリカは実家から持ってきた数少ない道具の一つであるかわいらしいネグリジェのしわを丁寧に伸ばし、自分の部屋に置いておいた。
(ダンがうなずいてくれたら、これを着て勝負に挑むわ!)
ふりふりの白いネグリジェを前に微笑むアンジェリカは、階下からドアの開く音がしたため慌てて階段を下りた。
「お帰りなさい、ダン……」
「……ああ、ただいま、アン」
頬を上気させて夫を出迎えに行ったアンジェリカだが――のろのろと上着を脱ぐ夫の顔色がよくないことに気づき、やましい気持ちをすんっと鎮めた。今はどう見ても、お誘いをしていい場面ではない。
「ダン……顔色が悪いわ。何かあったの?」
「……うん。ちょっと、ね」
大抵のことなら笑って流せる大人の余裕を持つダンが、明らかに沈んでいる。
アンジェリカはすぐさまダンに駆け寄り、その大きな背中にそっと触れた。
「体調が悪いの? 痛いところがあるの……?」
(もしもダンを傷つけた輩がいるなら……)
めらり、と心の奥で復讐の炎を燃やすアンジェリカだが、ダンは苦笑して妻の手を握った。
「ううん、体調とかは大丈夫だよ。……ちょっとだけ、ショックなことがあったくらいで」
「そんな……。……もしよかったら、話してくれる? その、悩んでいることは口にするだけでずっと気持ちが楽になるというから……」
「ありがとう。……あ、そうだ。ご飯の仕度をしないと」
「そんなのいいわ! あの、私、まだ下手くそだけどお野菜とお肉を炒めるくらいはできるから、ダンは座って休んでいて!」
本当は野菜炒めだけでも自分には相当難しいのだが、落ち込んでいる様子の夫を働かせることなんてできない。
アンジェリカはなおもキッチンに立とうとするダンをなだめてリビングで休ませ、あわあわしながらも野菜炒めと飲み物を準備した。案の定野菜は焦げたし淹れた茶も渋いが、ダンは「嬉しいよ。ありがとう、アン」と言っておいしそうに食べてくれたので、アンジェリカは涙が出るほど嬉しかった。
腹が膨れると、ダンの顔色も少しだけ明るくなった。そして彼は、ぽつりと話してくれた。
「……今日、収穫予定の野菜があったんだ。でも……かなりのものが、なくなっていて」
「まあ……」
「畑荒らしだと思う。収穫予定だったものばかりが狙われていて……」
「そんな……」
(ど こ の ど い つ だ)
「犯人は、見つからないのね?」
「うん……。それも、被害に遭ったのはほとんどが俺の畑のものだったんだ」
(ダ ン の は た け を あ ら し た や つ。 ゆ る さ な い。 ゆ る さ な い)
アンジェリカが鬼の形相になっていることに、妻に背中を優しくなでられているダンは気づかない。
「ごめん、アン。今度、お金が手に入ったらアンにきれいな服を買ってあげるって約束したのに……」
「何を言っているの! 服は急がないわ。あなたが私に謝ることなんてないのよ……!」
「……。……俺、アンに苦労させたくないし、健康にいいものをたくさん食べさせたかったのに。それに、卸す野菜が少なくなるから村の皆にも迷惑を掛けてしまう……」
こんなときでも、ダンは他人の心配ばかりしている。
そんな優しい夫のことが愛おしくて……同時に、こんな優しい人の畑を荒らした犯人への殺意がめらめらと燃え上がっていく。
(は ん に ん、 まっ しょ う す る。 け す。 つ ぶ す)
「ここから対策を立てていきましょう。そうすれば、次の被害を防げるわ!」
終わったことを悔いるだけでは、二の舞になるだけだ。
そう思ってダンを励ますと、のろのろと顔を上げた彼はほんのり笑った。
「……うん、そうだよね。荒らされた畑のことはすごく悔しいけれど……俺が次の被害を食い止めたら、皆の畑を守れるもんな!」
(ああ……ダンが格好いい……! 私の旦那様、素敵、たくましい、最高だわ……!)
心の中だけで嗚咽を漏らしつつ、アンジェリカは微笑んでダンを抱きしめた。
「ええ、きっとそうよ! ……今日はゆっくり休んで、明日に備えましょう。大丈夫、みんなで協力すれば畑荒らしなんてへっちゃらよ!」
「……うん。俺、頑張るよ!」
完全復活とまではいかずともかなり持ち直した様子のダンは、「ありがとう、アン」とささやいてからアンジェリカの頬にキスをしてくれた。
夫からのキスのおかげで、アンジェリカの元気とやる気と
(……よし! ダンのために……畑荒らしをひねり潰しましょう!)
夫にキスのお返しをしつつ、アンジェリカは物騒なことを考えていたのだった。
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