後日談

アンジェリカは旦那様を誘惑したい①

 アンジェリカは、テッド村の農民の妻である。

 彼女の一日は、夫と一緒に眠るベッドから始まる。


「おはよう、旦那様」

「お、おはよう、アン」


(あぁ~! ダンの髪、ぼさぼさだわ! かわいい、かわいすぎて動悸がしてきた……)


 心の中ではドンドコと太鼓を打ち鳴らしているアンジェリカだがそんな下心はおくびにも出さず、甘えるように夫の胸に抱きつく。


「ねえ、ダン。おはようのキス、してほしいわ」

「え、あ、う、うん。それじゃ、目を閉じて……」

「ええ」


 夫に言われたアンジェリカは素直に目を閉じ――たがまつげ一本分ほど隙間を空けた。

 夫のお願いを叶えてあげたいのはやまやまだが、キスするたびに恥ずかしがる夫の顔を拝めないのは悔しい。ということで、薄目という形に収まったのだった。


 うっすらと見える視界の中で、顔を真っ赤にした夫がぎこちなくアンジェリカの唇にキスをした。……そのとき、じょりっと少しだけざらついた感触がする。


(こ、これはお髭ね! 毎朝剃っているみたいだけど、朝だから少し生えてしまったのね。うふふ……かわいいのに男らしいなんて、最高……)


 アンジェリカは夫にぞっこんなので、彼のことなら無精髭だろうと寝癖だろうとかわいく見えてしまう。彼女にとって夫は、どんな姿でも世界一かわいいのである。


 朝からぽわぽわ幸せに浸るアンジェリカは、ダンと手をつないでリビングに向かった。元実家である公爵邸の納屋ほどの広さしかない家だが、狭くても温かみがあるし……なんといってもどの部屋もダンの匂いでいっぱいなのが素晴らしい。


 令嬢時代に、「相性ぴったりな異性の体臭はとてもいい匂いに感じられる」と聞いたことがある。いくら相性がよくても体臭は体臭でしょう……と思っていたのだが、どっこい。

 今ではダンの枕カバーに顔を突っ込んで深呼吸したいくらい、アンジェリカは夫の匂いに魅了されていたのだった。


 まだ手早く料理をすることはできないので、料理はダンの役目だ。ダンは「アンは女の子だから、ゆっくり仕度をすればいいよ」と言って、アンジェリカが髪をといたり着替えたりする間に料理をしてくれる。


 そういうことでアンジェリカはダンの厚意に甘えて、ゆっくり仕度をして……こっそりとキッチンに向かった。そこには、こちらに背を向けて野菜を切る夫の背中が。


(っふふふ……旦那様のエプロン姿……。ああ、背中の筋肉の盛り上がり、腕の太さ、きゅっと締まったお尻……全てがかわいいわ……)


 いつもならアンジェリカがじっと見つめるだけで真っ赤になったり逃げたりしてしまうので、後ろ姿をじっくり拝めるこの時間は至福だ。

 そしてダンがこちらを向こうとした――刹那、アンジェリカは持ち前の身体能力を生かしてさっと身を翻し、さも「今来たばかりなの」という風を装ってキッチンに入るのだった。











「それじゃ、行ってくるよ。悪いけれど、掃除と洗濯だけ頼むね」

「任せて。あなたも気をつけて行ってきてね」


 玄関にて。

 これから農作業に向かう夫と言葉を交わして、ぎゅっとその太い首に抱きつく。案の定ダンの体がびくっと震えたが、おずおずとアンジェリカの腰に手を回して抱きしめ返してくれた。

 結婚してすぐの頃はアンジェリカが抱きついたらそのまま硬直していたのだが、ここ数ヶ月でぐっと成長したようだ。


 きちんと髭を剃った夫の頬にキスをして、少し足取りの怪しい彼を送り出す。


(……よし! 今日はお洗濯とお掃除をして、ダンを喜ばせないと!)


 貴族のお嬢様として育ったアンジェリカだが、ダンのためにできることをしたいとあれこれ勉強しており、今では洗濯と掃除なら問題なくできるようになった。

 なお、洗濯がアンジェリカの仕事になっても、ダンは自分の下着だけは洗わせてくれなかった。さしものアンジェリカも夫の下着で何かをするつもりはないが、夫婦といえどさすがにある程度のプライベートは必要だろう、ということで了解していた。


(……私たちが結婚して、もうすぐ半年ね)


 雑巾で棚を拭いていたアンジェリカはふと棚の引き出しを開け、そこに入っていた手帳を出した。これは、アンジェリカが実家から持ってきた数少ない道具の一つだ。

 この手帳は日記帳のようなもので、ダンと結婚してからの日々のことを細かに記している。「今日はダンとお出かけした」「今日はダンのくしゃみがかわいかった」「今日はダンが寝言で私の名前を呼んでくれた」など。

 なおダンは数字は分かるが文字を読むのは難しいようなので、これを見られて困ることにはならない。だから思う存分、夫との愛の記録をしたためていた。


(初めてキス……をしたのは、この日。一緒に寝るようになったのはこの日で……)


 む、とアンジェリカは目を細めた。


 二人が結婚して、半年。

 半年経つのに……まだダンは、アンジェリカにくれなかった。


 ダンは恥ずかしがり屋な奥手で、アンジェリカはそんな夫のことがかわいくてかわいくて仕方がない。アンジェリカとしては今すぐ襲ってくれても困るどころか大歓迎なのだが、慎ましい夫がそんなことをするとは思えない。


「私が襲う……のはだめよね」


 アンジェリカとて、ダンが望まないことはしたくない。かわいい夫の恥じらう姿は最高だが、無理強いをして泣かせるつもりは一切ない。


「……思い切っておねだりしてみようかしら?」


 ダンはアンジェリカにとても優しいので、一生懸命おねだりすれば願いを叶えてくれるはず。


「確か明日は、急ぎの用事がないって言っていたし……」


 ……ふふ、とアンジェリカは笑った。


 今夜、勇気を出してダンを誘ってみよう。

 そう考えるアンジェリカは、まさに恋する乙女といったとろける表情をしていた。

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