ダンの場合③
アンジェリカと共に過ごすダンの日々は、輝いていた。
結婚して二ヶ月経って一緒に寝るようになり、さらに一ヶ月経ってやっとキスをした。なかなかダンが動かないものだからアンジェリカの方がねだってきて、それに応じた形だった。
結婚して四ヶ月も経つとアンジェリカはすっかり村になじみ、慣れないながらに野菜の収穫をしたり簡単な料理をしたりするようになった。元々要領はいい方だからか、ダンや近所の奥様に教えられるとどんどん上達していき、「お料理、楽しいわ!」と言うようにまでなった。
頑張って村での生活に順応しようとするアンジェリカだが、やはり育った環境が違うからか、体は弱くて体調を崩しやすい。だからダンはこれまで以上に仕事に励み、農作業以外に大工仕事などもしてアンジェリカのために稼ぎつつ、か弱い妻の側にいる時間も大切にした。
村の奥様たちは、「いつか子どもができたときのために、蓄えておきなさいよ」と言ってくる。まだそんな段階ではないので早すぎるが……確かに、「いざというとき」のために貯蓄しておくのは大切なことだ。
そうしてアンジェリカと穏やかな愛情を育みながら結婚生活を送っていたダンだが――平和だったテッド村に、不審な手紙が届いた。
「きょうはくじょう……? 何だ、それは」
手紙が村の入り口に置かれていたのが、今朝のこと。発見したのは、早朝散歩が趣味の老人。
だがまだこの村の識字率が低いため、「何か書かれているけれど、読めない。そうだ、アンジェリカなら!」と老人が朝早くにダンの家に持ってきたそれを読むなり、アンジェリカは「これ、脅迫状ね」とつぶやいたのだった。
聞き慣れない単語に首をかしげるダンの隣で、夫が淹れた薬草茶を飲みながら手紙を読んでいたアンジェリカが答える。
「どうやらこの手紙の差し出し主は、この村に元エヴァーツ公爵家の娘がいることを知っているようね。村を破壊されたくなければ元公爵令嬢を差し出せ、と書かれているわ」
「……。……な、なんだそれ!?」
遅れて事態の深刻さに気づいたダンは声を上げ、手紙をひったく――ろうとしたがどうせ自分には読めないので、精一杯の恨みを込めてその紙をにらみつけた。
「いったいどうして、アンを差し出さないといけないんだ!?」
「結局は、身代金を求めるのでしょうね」
「みのしろきん……?」
「テッド村が私を差し出したら、犯人は私をだしにして金銭を巻き上げようとするのよ。下手すればテッド村だけでなくて殿下にも揺さぶりを掛けるのかもしれないわ。実家は没落したけれど、一応私はサイラス殿下の命令で蟄居していることになっていてつながりがあるから」
「殿下……ってのは、王子様のことだよな? それって大変なことじゃないか!」
ダンは声を荒らげた。
「そんな命令に従う必要はない!」
「……でも、逆らえばそれこそテッド村が危機に陥るし、殿下にも別の形で魔の手が伸びるかもしれないわ」
アンジェリカは手紙からダンへと視線を動かす。
「……私を差し出さなかったせいで、村が壊されたら。子どもたちが傷つけられ、畑を焼き払われたら……私は、辛いわ」
「でも、そうしたらアンは……!」
「……まずは、穏便に解決できるようにしましょう」
「穏便って、どうするんだ?」
「話し合いよ」
アンジェリカが笑顔で言ったので、ついダンは妻の肩を掴んでしまった。
「こんな手紙を送るやつが、話し合いに応じるわけないだろう! 俺は反対だ!」
「……だめよ、ダン。私一人のせいで、多くの人を犠牲にしてはいけないの」
アンジェリカは荒ぶる夫の手にそっと触れ、微笑んだ。
「あのね、ダン。私はあなたの奥さんになって、これまでずっとあなたに守られていたけれど……私だって、あなたを守りたいの」
「アン……」
「あなたが生まれ育ったこの村を、あなたが大切にしている畑を、そして……私が愛するあなたを、守りたいのよ」
アンジェリカの青い目にまっすぐ見つめられ、ダンは言葉に詰まった。
……勝てない。
馬鹿で単純な自分では、この聡明な妻に口論で勝つことなんてできない。
アンジェリカの言い分の方が効率的だと……分かってしまったから。
「……ありがとう。アンがそう言ってくれて……嬉しい。でも、俺は……」
「ダン、愛しているわ」
手紙をテーブルに置いて立ち上がったアンジェリカが、ダンの頬をぐいっと両手で押さえて身を乗り出し、唇を重ねた。
恋愛ごとにはどちらかというと積極的な妻ではあるがここまでぐいぐいくるのは初めてで、ダンが驚き硬直している――隙に妻はするりと身を翻し、リビングを出て行ってしまう。
「……アン!?」
我に返ったダンが慌てて妻の後を追うが、思った以上に足が速い。ダンが足をもつれさせながら表に出たときには既に妻は、村を囲む馬防柵の方へと走って行っていた。
「っ……! 行くな、アン!」
ダンが慌てて声を上げるがアンジェリカは振り返ることなく、朝靄の中にその姿をくらましてしまった。
「……アン……!」
ダンはぐっと両手の拳を固めて、家に駆け戻った。
のどかな農村ではあるが、いざというときのために各家に武器を置いている。玄関の脇にある戸棚を開けるとそこには、ずっしりと重い両手剣が立てかけられている。傭兵だったダンの父がかつて使っていた、形見の剣である。
「……アン。きみのことは、俺が守る……!」
生まれて初めて人を殺すための武器を手にしたダンは決意を固め、家を飛び出した――
ボクッ、バキッ、という鈍い音が森の奥に響く。
「ぐああっ!?」
「ひぎゃあっ!? こ、この女……!」
「あら……まだおしゃべりする元気があったのね?」
ゴキッ、という鈍い音に続いて男の悲鳴が上がり、木の枝に留まっていた鳥たちが慌てて飛び立っていく。
女は、辺りを見回した。
テッド村の近くにある、こんもりと茂る森。その奥の空き地には今、十人以上の黒服の男たちが倒れていた。いずれも息はあるし出血も控えめな方だが、足や腕が変な方向に曲がっている者やぼこぼこに殴られて気絶している者ばかり。
女は持っていた金属製の棒でぽんぽんと肩を叩いてから、近くにいた男の胸ぐらを掴んでぐいっと持ち上げた。
「ぐふっ……」
「おまえたち。……命が惜しければ、二度とこの村に近づかないことね」
男の鼻先に顔を近づけた女が笑顔で凄むと、彼はひっと悲鳴を上げた。その両腕は力なくだらんと垂れており、使い物になりそうになかった。
「次に私の旦那様の村に近づいたら、両腕がゴミになるだけでは済まない目に遭わせてあげる。……いいこと?」
男は涙目でこくこく頷くが、地に伏す別の男の中には「お嬢様の分際で……」とこの期に及んでも抵抗しようとする者がいる。
……だが次の瞬間、女が持っていた棒がひらめき、男の背中を強打した。バキッというのはきっと、男の背骨が砕けた音だろう。
「あら? まだ刃向かうつもり? それなら……いいわ。骨という骨を全て粉砕して、生まれてきたことを後悔するくらいの目に遭わせてあげる。……大丈夫。命だけは、取らないから。内臓一つくらい潰れても、なんとか生きていけるわよね?」
女が酷薄な笑みを浮かべるととうとうそれに逆らう者はいなくなり、男たちは這うように逃げ出していった。両足を砕かれた者もいるが、ちゃんと仲間が引きずって帰って行った。
ここで野垂れ死なれても処理に困るし村人たちがおびえるだろうから、全員が退散できるように計算した上で足の骨を折っていた。
女はふう、と息をつき、武器として使っていた棒をそっと木立の中に隠した。そして目立つハニーブロンドの髪を隠していたバンダナを外して髪に手櫛を通して整え、ポケットから出した手鏡で自分の身だしなみを確認してから、きびすを返す。
「……さて。旦那様のところに帰らないと。……ダン、やっぱり怒っているかしら……」
しゅん、と悲しそうな顔をしながら歩いて行く女は、先ほど十人以上の男を一瞬で叩きのめした者と同一人物とは思えないほど、儚そうな眼差しをしていた。
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