アンジェリカの場合①
アンジェリカ・エヴァーツは、グレンデイル王国エヴァーツ公爵家の令嬢として生を受けた。そしてその瞬間、王国の第一王子であるサイラスの婚約者になった。
父である公爵は家庭を顧みない人で、権力欲に溺れていた。
エヴァーツ公爵家は過去に何度も王家と縁組みをしており、その一族は王家の血を継いで王位継承権も持っている。公爵は表向きは忠実な臣下の顔をして、「我が愛娘をどうか、殿下の妃に……」と慎ましい態度を取っていた。
その実、彼は娘のアンジェリカを使ってサイラス王子を籠絡し、いずれ自分が実権を握ろうとしていた。現国王は優しい君主ではあるがどこか頼りないので、これは自分に機会があるはずだ、と公爵はもくろんだようだ。
アンジェリカは聡明な少女で、父がとんでもないことを企んでいることや、公爵家が怪しげな事業に手を貸したりしていることに気づいていた。
父のやっていることはよくない、止めなければならない、と分かっていた。だが、たかが小娘にできることはほとんどなかった。
少女の頃に母を亡くしたアンジェリカは、父親から放置されていた。だがこのままではいけないと思い、家庭教師から積極的に知識を教わり、思い切ってサイラスにも自分の考えを打ち明けた。王子は最初こそ驚いていたが、エヴァーツ公爵の振る舞いには疑問に思うこともあったようだ。
公爵のように欲深い者に、この国を奪われてはならない。ここで公爵の暴走を止められるのは、その実の娘であるアンジェリカと王子であるサイラスだけだ。
たとえ相手が父親だろうと、悪人の手に国を渡したりしない。
そのためなら……辛い道のりだって歩んでみせる。
アンジェリカたちの作戦は、「アンジェリカもろともエヴァーツ公爵家を潰す」ことだった。
エヴァーツ公爵家は、力を持ちすぎた。そして父がやっていることは既に、弁解の余地がないくらいのレベルにまで達している。様々な悪事が明るみになれば、断罪待ったなしだ。
だから王子と公爵令嬢は密かに同志を募り、作戦を立てていった。アンジェリカは体を鍛えるため、サイラスと一緒に武術を習った。その武術の師範のおかげで、アンジェリカは金属製の棒一本で無双できるほどの戦闘能力を身につけた。
また、ついでにその師匠はサバイバル技術も教えてくれた。おかげで、アンジェリカは少々質の悪い水を飲んだり毒性の植物を食べたりしても耐えられるようになった。
そうしてアンジェリカは、「悪女」になることにした。
サイラスの方の準備が整ったら、皆の前で公爵家の罪を暴露する。公爵の逃げ場をなくし、エヴァーツ公爵家そのものを消し去ってしまうのだ。
名門公爵家の令嬢、未来の国母だったアンジェリカは、「父を断罪した冷酷無比な悪女」になった。
当然、アンジェリカとサイラスの婚約も解消される。だがそこでサイラスがうまく皆を言いくるめて、「アンジェリカは悪事に直接関わっていないし、父親の告発にも協力の姿勢を見せた。だから、蟄居処分で済まそう」という流れにした。
アンジェリカとしても、そうするしかないと思っていた。むしろ、こちらの方がアンジェリカにとってもサイラスにとってもよいと分かっていた。
なぜなら二人にはそれぞれ、好きな異性がいたからだ。
サイラスは、とある伯爵令嬢に恋をしていた。その時既にアンジェリカとサイラスは将来的に婚約解消する予定だったこともあり、アンジェリカとしても友の恋を成就させてあげたかった。
そしてアンジェリカにもまた、想いを寄せる異性がいた。それは――公爵邸に作物を届けに来たことのある、農民の少年だった。
テッド村のダンという彼は、アンジェリカよりも二つほど年上だった。
彼と出会ったのは、十歳の頃。庭でこっそり剣の練習をしているときに、卸しの手伝いのために来ていたダンに声を掛けられたのだった。
『こんにちは。きみは、ここで働いているの?』
ダンは、気さくに話しかけてきた。まさか目の前にいる運動着姿の少女が公爵令嬢だとは思わなかったようだ。
アンジェリカもまた、わざわざ誤解を解く必要はないだろうと思い、うなずいた。
『うん。あなたは……いつもお野菜を届けに来てくれる人?』
『うん! おれ、テッド村のダンっていうんだ! あ、きみもちょっとくらいは、うちの野菜を食べるよね? 今回卸したニンジン、おれが作ったんだ!』
ダンはそう言って、えへん、と胸を張った。自分が育てた野菜を卸してもらえるので、とても誇らしいのだろう。
『そうなのね。じゃあ……ニンジンは苦手だけど、頑張って食べるわ』
『そうしてよ。もし大変なことや辛いことがあっても、おいしいものを食べれば元気になれるんだ。きみたちが元気になれるものを、これからもたくさん作るからね!』
笑顔でそう言ってから、ダンは去って行った。アンジェリカは、生まれて初めて接した平民の少年のたくましい背中を、いつまでも見つめていた。
……その日、アンジェリカは苦手なニンジンも頑張って食べてみて……そのおいしさにびっくりしてしまった。これまでは「まずい!」「苦い!」と突っぱねていた野菜だが、あの少年の顔を思い出しながら食べると、思っていた以上にまずくも苦くもないことに気づいた。
それからしばらくの間、彼は手伝い担当のため公爵邸に現れるようになった。
春の日差しのように優しくて、夏の太陽のようにまぶしい笑顔。かと思えば秋の風のように爽やかで、仕事中は冬の大地のような凜とした横顔を見せる。
アンジェリカは、ダンにすっかり心を奪われていた。彼の手伝いが終わって公爵邸に現れなくなってからのしばらくは、寂しくてこっそり泣いてしまった。
テッド村の、ダン。
もし、また会えるなら……あの気さくな彼と、おしゃべりがしたいと思った。
そんな話をサイラスにした際、「つまり、その少年に恋をしたんじゃないのか?」と苦笑交じりに言われてやっとアンジェリカは、自分はあの屈託のない農民の少年に恋をしていたのだと、気づいたのだった。
そういうわけで、テッド村の村人であるダンとアンジェリカが結婚することになった背景には、サイラスの協力もある。
エヴァーツ公爵家と提携していたお得意先などは複数あったが、公爵家没落により一番の煽りを受けるのが、貧しい農村であるテッド村だった。エヴァーツ公爵家に野菜を卸すことで生計を立てていたテッド村の人々が、貴族たちの勝手な都合に巻き込まれて生活に困るようになってはならない。
だが、テッド村がアンジェリカの蟄居先になり……しかもそこの村人の妻になったなら、サイラスは元公爵令嬢が尊厳を保てる程度の生活を保障する必要があるそうだ。その方法の一つとして、テッド村の農産物の流通を支えることがあったという。
これにより、テッド村はアンジェリカというお荷物を受け入れる代わりに農産物を卸すルートを入手し、安定した収入を得られるようになる。
そして、「いっそのこと初恋の君と結婚しなよ」とサイラスが言ったことで、アンジェリカはダンと結婚することになった。もちろん、彼が既に結婚していたり恋人がいたりしたら最初からこの話は持ちかけない。
ダンが一人暮らしで恋人もおらず、身持ちが堅いことを確認した上での打診だった。
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