(第三編) 我思う、故に彼あり

〝41〟

 事の重大さに気がついたのだろうか、雛森の足はぴたりと止まった。顔が青ざめている。シャトルの入り口から後ろを振り返る。

 神崎に隣り合う太田とまっすぐに目が合う。太田が歩み始める。その様子を神崎がふしぎそうに眺めていた。動く人間たち以外のときは、静止しているかのように身じろぎしなかった。

「そう」太田の口が開かれるのを雛森は見ていた。「ルナはICタグの情報を読み取っていた。言い換えれば、ICタグの情報が入れ替えられたとき、顔認識を持っていないルナはいとも容易く騙されてしまうんだ。芽衣ちゃん……、いや、沙羅ちゃん」

 見つめ合う2人に、神崎は混乱したように狼狽の声を上げた。

「お、おい、どういうことだよ?」

「ICタグの情報を表示してください」

 太田がシャトル内の隊員に声をかける。その間も雛森は身を固くしていた。

 シャトル入り口脇に設置された小さなモニターが情報を映し出す。そこには、間違いなく、「多良部沙羅」とあった。

「どういうことだよ……?」

「芽衣ちゃん、君は……」

 シャトルの座席についていた結城も顔を覗かせる。

「説明を願えませんか?」

 救助隊の指揮者らしい男が名乗り出ると、注目は否が応でも雛森――多良部と呼ばれた少女へ集まる。

「巧妙なことです」

 太田はステップを下りながら、口を開いた。聴衆の意識の集中が、まるでスポットライトのように彼に注いでいた。

「しかし、実に簡単なことだったのです。芽衣ちゃんと沙羅ちゃんは実は互いを知る仲だったとすれば、疑問は氷解します。沙羅ちゃんは、ただ芽衣ちゃんのICタグを自分のものと入れ替えたのです。おそらくは気付かれないように」

「意味が分からねえよ」

「悪戯、ということですよね」

 救助隊長の言葉に太田は苦笑いで頷いた。

「そういうことになります。ただ、その行為のもたらす影響は計り知れない」

 言葉を切って少女を見つめる。無言のうちにプレッシャーを込めるも、見えない殻に覆われた少女を屈服させることは出来ない。

「ルナは沙羅ちゃんを殺した……。ルナは、殺した相手をそう認識していたのです。ルナが人を認識するには、ICタグがなければいけないのです。その認識の要が入れ替えられたのです。ルナは、沙羅ちゃんを殺したつもりでいたのですが、実際には芽衣ちゃんを殺していたのです」

「ちょ、ちょっと待て!」

 大声で太田を遮る神崎。両手をひらひらとさせて、混乱の極みのようだ。それも当然のことで、急転する真実に頭脳の回転はスピードを要求されるのだ。その点、太田はこの場の誰よりも先を見つめることが出来ていた。

「じゃあ」神崎の指が少女――多良部沙羅へと突きつけられる。「ここにいるのは、本当に多良部なのか?」

「無論です」強く頷く。「そして、これこそが彼女の真の計画だったのだと、私は思うんです」

「真の――」

 どこからともなく、溜息にも似た声が漏れる。

「彼女、多良部沙羅は雛森芽衣の殺害を画策していた……。これは、もはや事実として受け入れざるを得ないでしょう。(違う)その証拠は、ここに確固として存在しています。ICタグです。彼女と雛森芽衣が互いに知り合った中でなければ、タグを入れ替えるチャンスも動機も発生しないのです。タグを入れ替えることで自らの身分をごまかし、殺された人間になり代わり容疑から逃れようとしたのです」

 驚きが沈黙となってその場に停滞していたが、結城は1人落ち着き払った態度を保っていた。

「それはおかしくありませんか? 何故なら、ルナが芽衣ちゃんを殺したのは、現実と交わりつつあった記述の中の世界で、『太田』さんが芽衣ちゃんによって殺害されてしまったからなんです。ルナのそういった精神活動を、沙羅ちゃんがあらかじめ想定できるでしょうか? 芽衣ちゃんが、ひとりでに開くドアに不審感を抱き、それを追うと予想できるでしょうか。見えない人物を攻撃すると予測できるでしょうか?」

「できないでしょうね」

 あっさりと身を引く太田に、神崎も不満顔だった。

「おいおい、それじゃあ、お前の推理は根底から崩れるじゃねえか」

「いいえ。おそらく、今回の事故の要因となったルナの行動は、彼女にとって予想外のことだったのではないでしょうか。彼女は雛森芽衣殺害の、別の手段を用意していた。それを実行するより前に事故が起こってしまったのか、途中でその手段が綻びを持っていることに気付いて殺害自体を諦めかけていたのかは分かりません。(ルナ)偶然的に芽衣ちゃんは記述の世界の私を殺し、それを動機としてルナが動き出したのです。そうして、芽衣ちゃんを殺した。沙羅ちゃんにはその間に自分のタグと芽衣ちゃんのタグを入れ替え直す時間はなかった。そうして、ルナは2人の人間を取り違えたまま『錯綜の彼方へ』を記述したのです。つまり、あの記述で雛森芽衣とされているのは、実は多良部沙羅だったのです」

「なるほど」顎にやっていた手を離すとやや笑顔を取り戻して結城は言った。「あなたの言いたいことは分かりました。つまり、ここにいる沙羅ちゃんはICタグを入れ替えただけだった。本来はそれを利用して芽衣ちゃんの首を狙っていた。(それは間違っている)

しかし、計画が実行される前にルナが芽衣ちゃんを殺してしまった。沙羅ちゃんは期せずしてルナに芽衣ちゃんを殺害させ、さらには人間自体を誤認させるという結果を招くことが出来た、と」

「そういうことです」

 一同の理解が深められると同時に、多良部は一手に全員の視線を受けることとなった。

 誰もが彼女の口が開かれるのを待っていた。彼女を咎めたかったのではない。太田の解き明かした真実を、直接彼女の口から聞きたかったのだ。

 多良部は顔を上げた。

 しんと静まり返った聴衆の渦中に、彼女は身を置いていた。しかして、その顔は緊張や動揺に強張ることなど一切なく、超然としていた。

「ただひとつ間違っていることがあります」

(違う)

 多良部はそう呟いた。

(これは間違っている)

「私は、雛森芽衣なんです」

「なんだって?」

 全員が混乱の極みに立たされる。ざわめく聴衆に多良部――いや、雛森は静かに言った。

「私は、ルナだけを騙したのです。あの事故が起こったとき、私は沙羅ちゃんとは離れ離れになっていたんです。直前に、彼女が侵入者を見た、と言ってどこかへ走り去ってしまったから。だから、事故の後、彼女の姿が見えないということは彼女も脱出したんだと思いました。でも、事故の原因を探っていくうちに、これはもしかすると沙羅ちゃんはまだここに取り残されているんじゃないかと感じ始めたんです」

「……そうか、記述の登場人物が……」

 得心した太田の声に間髪を入れずに、彼女は頷いた。

「脱出したんだと思ったときは、殺す必要がなくなったんだと思いました。事故のおかげで、殺人を踏みとどまったんです。でも、そうじゃなかった。沙羅ちゃんがここに取り残されているという確信が強くなっていくにつれて、この気に乗じて殺すべきなんだって思うようになったんです。でも、どうすればいいのか分からない。(やめよう)そうして無為に時間を過ごしました。私は、ルナの秘密を解き明かしましたけど、あの第6空気制御室の前で沙羅ちゃんが中で死んでいると思い当たったときに、私の中ですべてが終わったような気がしました。ルナがすべてを終わらせたんだ、と」

「自分の名前を偽ることは出来なかったんだね。取り残されたみんなが始めて顔を合わせたとき、君は沙羅ちゃんがLUNAを脱出したと思っていたから……」

 結城の言葉に、多良部は深く頷いた。

「本当にそうでしょうか?」

 太田の声が……。

そんなことを言うはずはないのに……。

否定の言葉を発していた。

そんなはずはない。彼はわたしがいてこそ、そこに……。

いや、違う。これは紛れもない真実の世界であるのだ。何故、彼はそうして流れを逆らっているのだろうか。

 だから、結城や神崎や雛森は、そしてそれを取り囲むような救助隊員たちも言葉を失っていた。誰もが不可思議な現象を前に絶句していた。

 神崎は言った。

「おい、本人がそう言っているんだ」

「違いますよ」

 太田は何故かそう言っている。そういうことなど出来ないはずなのに。

「分かっているはずなんだ、みんな。こんなことは起こりえないって。そうでしょう?」

「何を言っているんです?」

 結城は心配げな顔で太田を諭すようにしていた。太田の制御不能な言葉に誰もが困惑の体なのだ。

 次の太田のは言葉はすべてを揺さぶった。

「だって、そうでしょう。何故私がここにいるんですか?」

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