39

 神崎と雛森は早期帰還チームと共に第一階層のロビーに集まっていた。ロビーの隅では、ジェネシスの研究者と結城が神妙な面持ちで未だに何やら話し合っていた。

「神崎さんと結城さん、それから雛森さんにはこれから地上へお戻っていただいて、病院での精密検査をしていただきます」

 長時間の無重力環境での活動や、閉鎖空間での精神ストレスが悪影響をもたらしているかもしれないというのだ。さらに、殺人が起こったことでメンタルケアも施されるということだった。救助隊では、塞ぎこんだ雛森の様子にその必要性を感じ取ったのだ。

 地上へのシャトルの準備が整うというところで、雛森は一人立ち上がり、十分だけ時間が欲しいと言った。ロビーの人間のすべての目が彼女に降り注いだが、それを跳ね除けるように雛森は背を向けてアミューズメント・エリアへのエレヴェータの中に姿を消した。

 神崎の胸中には、言いようのない不安が垂れ込めたが、あの有無を言わせぬ強い背中に彼女を信じることにした。


 L‐1に下り立つ。

 迷わずL‐6へ向かう雛森の姿に作業中の救助隊員たちの怪訝な視線がいくつも突き刺さった。救助隊はあちこちを走り回っていて、今ではその足音が静寂を乱していた。賑やかなのが、このLUNAの本来の姿なのだが、今の騒然とした様子は種類の違うものだった。

 深い違和感に苛まれながら雛森が辿り着いたのは片桐の遺体の前だった。

「何か御用ですか?」

 隊員の問いかけにも応じずに彼女は片桐の前に膝を着いた。遺体は雛森が最初に目撃したときのままだった。目が白く混濁していた。痛々しいその姿に胸を締め付けられる思いだった。

 咎めるような周囲の目も気にせず、雛森はその眼鏡に手をやった。

「あ、ちょっと……!」

 一瞥でその言葉を制すると、黒縁の眼鏡を胸の前に押し付ける。そのまましばらくそうしていた。

 眼鏡をかける。彼女の見たものに触れることが出来るかもしれないから。度の入ったレンズが視界を歪ませる。 しかし、それはレンズのせいだけではなかった。

「現場の検証がきちんと済むまで手を触れないでいただきたいんですが……」

 手放したくなかった。心の奥底から湧き出る奇妙な独占欲が彼女を満たした。これが片桐の形見となるような気がしたのだ。これが、彼女の生きた証を物質としてこの世に留めるのだ。

 彼女を動かす〝揺らぎ〟は、衝動となって彼女の体を起動させた。

 駆け出す。隊員の声が後方へ遠ざかっていく。振り返らなかった。目は開けていなかった。不思議と、彼女の体は真っ直ぐとエレヴェータの箱の中へ投じられた。

 雛森の中を駆け巡るあらゆる思いが交錯して、大きな混乱を形作っていた。

 深く付き合ったわけではないのに、彼女の目からは片桐に対する重いが堰を切ったように溢れ出していた。初めて身近な死に遭遇したからなのかもしれない。元来、彼女が持つ慈悲の心がそうさせたのかもしれない。ただ、〝揺らぎ〟は彼女に涙を流させた。

 雛森は、もはや自分が何をしているのか判別していなかった。

 だから、第一階層へのドアが開き、神崎が駆け寄ってきたときも、頬を引きつらせてただ笑って一言を発しただけだった。

「持って来ちゃいました」

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