32

 雛森が話し終えると、脱力にも似た重い空気が彼らを包んだ。それは重力すらも超越して、彼らに重圧を加えていた。

 しかし、雛森にはまだ語らなければならないことがあった。結城は、それを感じ取っているのか、彼女にじっと視線を注いでいた。警戒の姿勢だったが、先ほどのように口を開くことはない。なにかを恐れるように。

「しかしよ」沈黙を破ったのは、神崎だった。残念そうな表情を浮かべている。「証拠がないんだよな。全部推測でしかない。もしその話が本当なら、閉鎖された区画にはまだ『多良部』がいるはずなんだ。しかも、まだ生きてる。さっきの話じゃ、現実のL‐1はなんともないんだろ?」

 雛森は、結城が彼を密かに睨みつけるのを確認しつつ、頷いた。

「そして、そのL‐1を、結城さんは使ったんです。そして、それは取りも直さず、結城さんは今までの推理をすでに辿っていたということなんです」

「なんだと?」

「だって、L‐1を通るには、ルナがL‐1が安全であると再認識しなければならないのですから」

「ちょっと待て」

 先を続けようとしていた雛森だったが、素早く制止する神崎に思わず躊躇してしまった。

「結城が犯行時にL‐1を使ったんだろ。じゃあ、さっき隔壁を開こうとしたとき、どうして開かなかったんだよ。ルナはもう、L‐1が安全であると認識していたんじゃなかったのか?」

「私ここまで考えて感じたんです。ルナは、ただの機械じゃない、って」

 無言の間が訪れた。雛森の言葉に二人が硬直を来たしたのだった。

「ただの機械じゃないだと?」

 途切れ途切れに搾り出される神崎の声に雛森は重々しく頷いた。

「だって、機械なら虚実を混同したり、一人の人間を死から救い上げたりはしないでしょう。後者にいたっては、まるで人間の行動のようです」

「お、おいおい……」たどたどしく口を開く神崎の姿が滑稽に映る。「ルナは人間とか言うんじゃないだろうな……」

 一触即発の雰囲気の中、雛森に注目が集まったが、ここで雛森は一瞬微笑を見せると座席から立ち上がった。無重力に翻弄され、少し慌てる。髪を撫で付けると、超然として言った。

「その前に、証拠を調べにいきましょう。L‐1へ」


 L‐2の端、L‐1の隔壁は依然として降りたままだった。薄暗い中に、頑なな意志を持って通路は途切れていた。

「結城さんは、私たち以上に何かを知っていたはずなんです」

 隔壁を背に振り返った雛森が結城に目を向ける。対する結城は無表情を決め込んでいた。

「結城さんはルナにこの隔壁を開けさせ、また封印することが出来た。その秘密はなんでしょう。『錯綜の彼方へ』の中でルナは誘導尋問のようにして事実を再認識する場面がありましたよね。『9』の後半でした。ルナは、このように一つ一つの事実を提示されると認識を新たにするというような面がありますよね。それは、ルナ自身が記述していることからもそういう性質があるんだと思うんです。それはまるで、勘違いしていたことを正されるような」

「つまり、ルナは記述と現実を明確に区別されると、錯綜から脱出する可能性があるんです。でも、それは『太田』の死を認めることになってしまう。もしかすると、ルナはそういったことから自然的に再びL‐1を閉鎖したのかもしれません」

「どうやってまたここを開けるんだ?」

「開けられるはずがない。その先は危険区域なんだから……」

 結城の否定の言葉が凝固したような響きを放っていた。雛森の強い声が返す。

「ここが開放されなければ、片桐さんは死ななかった!」

 残響が鼓膜を揺さぶった。初めて見せる怒りの姿にさすがの結城も思わず後ずさりした。

「開けられなきゃ、立証すら出来ないぜ」

 雛森はじっと考え込んでいた。

 神崎は思う。自分よりはるかに若い少女が、LUNAの謎を解き明かそうともがいている。彼は自らの非力さに情けなさすら感じていた。そして、彼は、雛森の推理を信用するならば、ルナに親近感すら感じていた。死を認めることの出来ない悔しさ。ルナには、死をなかったことにする力があった。それは虚構世界の構築というものではあったが、神崎には羨望の眼差しだった。しかし……とも思う。それは幸せなことなのだろうか、と。ルナは、再び雛森の話を信じるならば、たった一人の死をなかったことにするためにこのLUNAを危機に陥らせた。だが……。神崎の中で様々な思いが交錯する。そこまで思うことの尊さは、分かっている。自分には、そこまでの犠牲を払ってまで妻を守ろうと思うだろうか……。

 ふと結城を見る。こいつは何を守ろうとしているのか。今までの話の流れの中で、どうやら結城はルナを守ろうとしているらしい。いったい、ルナの何を? 雛森の話を信ずるならば、片桐を殺してまで……?

 雛森が動くのが見える。

 彼女は意を決したように隔壁の前に立った。若干、見上げる格好だ。大きく息を吸い込む。彼女は声を大きくして何者かに語りかけるように口を開いた。

「ルナ、私はここにいる。ここに生きている。物語はまだ終わっていない!」

 しんとした静けさが支配する。

 そして――。

 隔壁がその口を開いた。軋んだ音がルナの泣き声に聞こえた。

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