28

 雛森は意外なほど従順に軟禁を受け入れた。受け入れたというのは、正確なところではない。彼女は呆然の体でそのまま流されていったのだった。

 映画館のドアへは『錯綜の彼方へ』で図ろうとした棒のロックが施された。雛森は、その牢獄から脱出する術を持たない。結城と神崎の二人は黙ってL‐4へ向かっていた。このような事態に重ねて発生した殺人が、結城に事故の原因の究明を怠らせたのだ。彼はただ一言、

「彼女が犯人であると僕が疑いもなく判断した理由を教えましょう」

 と口にし、L‐3のルナ・コムへ神崎を連れて行った。

 記述は『27』が終わり、『28』が始まっていた。ルナのすべての源である『コードネーム・アルファ』に一同が足を踏み入れるという場面だ。そして、移動する一同の中に『雛森』は消沈した様子を見せていた。

「彼女は、『錯綜の彼方へ』で犯人となったのです」

「『太田』じゃなかったわけか」

「ええ。そこで考えてみてください。今までこの記述の内容は現実に多く影響を与えました。無重力への移行というのもその一つです。そして、今回は殺人の犯人までもが。僕は記述を鵜呑みにしているのではありません。現に、事件の様相は雛森さんが犯人であると物語っている。L‐6へはL‐5を通らなければならない。そして、記述内世界と違ってエレヴェータの場所は動かないのです。つまり、エレヴェータチューブのトリックも利用することは不可能なのです」


 以前四人が議論を戦わせていたL‐4の円卓に、今は二人だけが腰を下ろしていた。無重力なので、腰を下ろす必要性は全くなかったのだが、そこは癖というものだ。LUNA内部の物がどれもその場に留まっているのは、ここが完全に静的な場所へと変貌したからだ。何一つ身じろぐことのない、冬眠でもしてしまったかのような沈黙だけがそこにはあった。

 薄暗い中で、二人はしばらく黙ってテーブルを見つめていた。

「こうなってしまった以上」結城はそっと口を開いた。「事故の原因はジェネシスの技術者に任せるしかありませんね」

「そいつらには原因が分かるだろうか?」

「ええ。ルナの開発には特別チームがプロジェクトを組んでいますからね。それに、きちんとした設備があれば解析が進むでしょうし」

 神崎は複雑な表情のまま結城の言葉を無言で受け取っていた。


   *


 映画館の中は真っ暗闇だった。

 その漆黒の中で雛森は自らの魂のようなものが一つだけこの空間に浮かんでいるのを感じていた。彼女は現在の自分の状況よりも、片桐の死について思いを馳せていた。

 彼女は身近な死に対面したことがなかった。初めて目の当たりにする死は、思いのほか鋭い刃と強烈な圧力を持っていた。それも、ただの死ではない。片桐は殺された。『錯綜の彼方へ』の会話を、彼女は思い出していた。

 生物を動かす〝揺らぎ〟とは一体なんなのか。

(それこそが生命の本質なのかもしれない。それを欠落してしまうと生命は生きていられなくなってしまうのだ。超上位の何かが私たちを動かしているんだ。結城さんの言った、カオスが繰り糸を出している……)

 そこで雛森はあることを思い出していた。生前の片桐の言葉だ。

(片桐さんは、事件の前にルナについての推論を進めていた。彼女は確かこう言ったんだっけ。『そこで、ピンと来たのよ。さっきの神崎さんの言葉を聞いてね』……)

 片桐の言葉は一言一句覚えているような気がした。それは脳髄の中で次第に光を増していくようであった。もう戻らない言葉はどんどんと重みを増大させていくのだ。それはまさしく、光の速さを超えて彼方へ没していくものが無限大の質量を得ていくのと似ていた。

(神崎さんの言葉って……何だったのだろうか?)

 雛森は、閉じ込められたこの映画館が暗闇でよかったのかもしれないと思う。明かりが少しでもあれば、余計なことを考えてしまいそうだった。

(片桐さんは、ルナが『錯綜の彼方へ』を事象計算によるものと思い込んで記述していると言った。そして、それをさせた原因が今回の事故と繋がりを持つ。その繋がりを明らかにするための鍵が、未知の二人の登場人物と言った。その前に神崎さんは何を言っていただろうか)

 雛森はふかふかする座席に呆然として身を沈めていた。過去の何時間かを思い出すだけのことが、彼女にはとても長い時間に思われたのだ。

(片桐さんは優しかった。何度か小さなことだけれど、気遣ってくれていた。彼女はいつもその場のバランスを考えていたのだ。いつも気を揉んでいたのだ。そんな彼女を……誰が……)

 雛森は、はっとした。何故、初対面だった片桐にここまで憧れの情を抱いているのか。そして、胸の中に去来する幾つかの、彼女に対する思いは……。

(でも……どうして、そんなことが……。それに、どうしてL‐1は閉鎖されてしまったのかしら?)

 闇の中に、雛森自身の闇が没入していく。

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