25
無重力の中で三人は摩擦のない道を進んでいた。足を動かす必要はなかった。まるで夢を見ているかのように体がスーッと虚空を突き進んでいくのだ。しかし、雛森は顔面に少し違和を感じて不快を気分だった。無重力でむくみ始めているのだ。大事なときだというのに、彼女は顔が恥ずかしいことになっていないかを気にしていた。
「あなたはL‐4を調べて!」
命令された神崎は不服そうではあったが、渋々とレストランの入り口に消えていった。
「みんなで手分けをしたほうが早いわ。芽衣ちゃんは望遠鏡で外を調べて。望遠鏡自体も何かあるかもしれない。そこも抜かりなくね!」
L‐5に到達するや否やそう言って先を進んでしまう。雛森は立ち止まり、静かに去っていく片桐の背中を頼もしく見送った。
自分もあのように強い女性になりたいのだという思いを胸に刻んだ。いつしか彼女の中には片桐に対する憧れの情が生まれていた。
右手には望遠鏡のシステムが設置されていた。モニター・ヴィジョンは待機状態になっていた。座席についてコンソールを操作する。まずは外殻を見てみようと望遠鏡の設定を「近傍」に変更する。望遠鏡を選択すると即座に画面が表示される。
LUNAの外殻にはダメージは見られなかった。
(やっぱり、なんのダメージもない)
先ほど神崎が確認したように、LUNAは全き姿を保っていた。しかし、と雛森は思う。片桐の言葉を思い出していた。
今やルナは現実を虚構で侵食しようとしている。望遠鏡の映像が本当に現実のものかは分からないのだ。ルナが映像出力に働きかけ、高性能なグラフィックスを用いて虚像を映し出しているのかもしれないのだ。この片桐の指摘に、雛森ははじめ戦慄を覚えた。自らの目で見たものを信じることができないのだと感じたのだ。
しかし、それは違っていた。片桐の強い行動意志を感じた。それは、世界を受容するというのではない。自らが世界の先頭に立つという強靭な意識だった。雛森の目にはそう映った。そして、それが彼女に勇気を与えたのだった。
情報捏造の痕跡を調べる具体的な方法は雛森にはなかった。なにか手がかりがほしいところだ。雛森は少しの思案の後、望遠鏡を次々と変更しながら外殻の観察を続けた。
(何もおかしなところはない……)
困惑した表情で座席に身を預ける。どうすればいいのか分からない。
ふと意識が固まる。
不穏な予感が彼女の胸を埋め尽くしたのだ。
視線が自然とL‐6へと向けられる。状況が、あまりにも似ていた。
雛森は、自分が今『太田』になってしまったかのような感覚があった。あの『錯綜の彼方へ』では、『太田』が雛森のように望遠鏡を操作しているときに片桐が殺害された。今、L‐6には片桐がいる。
雛森の中に点が線を結び始める。脆弱な繋がりかもしれないと、彼女は思う。もし、万が一のことが発生すれば、どういうことになるのか。片桐は何故L‐6にいるのか。
(『錯綜の彼方へ』では、片桐さんはスパイであるとされていた。そのために、情報を得ようとL‐6に狙いを定めていた。では、現実ではどうなんだろう。片桐さんとの初対面時、彼女は結城さんと共にL‐6からやってきた。『錯綜の彼方へ』では、結城さんは片桐さんがスパイであるということをはじめから関知していた。だから、監視をしていたという。もし、もし万が一片桐さんが現実でもスパイなのだとしたら、あの時二人がL‐6から出てきたのには何か意味がありはしないだろうか。
さっきの手際のよさもそういうことなのではないだろか。しかし、疑問が残る。監視していたいはずの結城さんの行動だ。彼は率先して片桐さんを自分の領域から遠ざけさせた。
そう、片桐さんはスパイじゃない。
でも……気になる。片桐さんは無事だろうか。あの殺人は――)
そこまで考えて雛森は息を飲んだ。絶対的に不可解な矛盾があの記述にはあったのだ。
(『太田』は自らの罪を認めたかのように逃げ出した。そして、近くのエレヴェータの上部ハッチからエレヴェータチューブへと飛び込んだ。しかし、それはあり得ないことなのだ! L‐6にはエレヴェータはない。だから、『太田』がエレヴェータチューブを使って逃げるのは不可能なことなのだ。L‐1は閉鎖されていて、その先のエレヴェータということもありえない。
つまり、ルナは記述の中でエレヴェータの配置を変更した。おそらく、エレヴェータの設置されているエリアを一つずらしたのだろう。本来の設置エリアの、L‐1、L‐3、L‐5をそれぞれプラス一するのだ。そのためにL‐6にエレヴェータがあった。おそらくは、エレヴェータチューブを利用した殺人トリックに説得力を与えるためにルナがLUNA内の情報を操作したのだ。
ということは、その操作が出来ない現実ではエレヴェータチューブのトリックは不可能なことなのだ。エレヴェータはこのL‐5にある。そして、ここには私がいる。片桐さんは無事なのだ。『錯綜の彼方へ』と同じような最悪の事態にはならない。よかった)
雛森は立ち上がった。根のない不安に身を震わせていた自分が少し恥ずかしかった。彼女は片桐に指示を仰ぎたかった。ルナによる望遠鏡映像の捏造をどのように調査すればいいのか聞くのだ。
雛森は軽く床を蹴った。髪を撫で付ける。
夢の中を進むように空を飛んでいく。
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