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 片桐は髪を撫で付けながら、体が漂ってしまわないように細心の注意を払って座席に留まっていた。

「まずいかもしれない」

 彼女は静にそう口走った。一同が怪訝な顔をしていると、片桐は眼鏡に手をやりつつ視線を返した。

「さっき、照明が落ちたのは記述内世界を肯定したことの表れだと言ったけれど、それを足がかりにして考えると、こういうことになると思うの。

 記述内世界では無重力状態に移行した。それが今では現実にまで及んでいる。つまり、記述内容が現実を侵食し始めているということよ。ルナの中では『錯綜の彼方へ』が現実に取って代わろうとしているのかもしれない」

「でも片桐さん、結局記述は記述ですよね。現実には昇華されないんじゃないですか?」

 雛森が問うと、深刻そうに首を振る片桐の姿があった。

「考えてみて。記述の中じゃ、『ラー』システムは停止しているわ。これがすでに現実にも影響を及ぼしているとしたら? 記述内で再び何かが衝突するようなことがあれば、こっちの世界はどうなるのかしら? おそらく被害は及んでくるはずよ」

「衝撃を生み出すようなシステムでもあるのかよ?」

 神崎は引きつった表情で半ば叫ぶようにする。結城はそんな神崎とは正反対の様子で涼しげな声を発していた。

「LUNAには姿勢制御システムがあります。あるいはその挙動をオーバーワークさせれば、衝撃を生み出すことは出来るかもしれませんね」

 雛森には、彼の言葉がどこか諦観の響きを持っていることに対する一抹の不安があった。虚構が現実を侵食する……。雛森はかつて読んだ推理小説の内容を反芻していた。

 先ほどまでの沈黙は忘れてしまったのだろうか、結城は思案しながら口を開いていた。

「ルナが現実を記述で侵食しているのなら、望遠鏡の映像に何らかの変化があるかもしれませんね。実際の映像ではなく、ルナが捏造した映像……例えば、『錯綜の彼方へ』では触れられなかった外殻のダメージなどが……」

「そういえばよ、記述の中じゃ、どうして外殻のダメージは見つけられなかったんだ? 円周部にダメージがあったのか? 何故ダメージが望遠鏡で確認できない位置に設定されたんだ? そのせいで登場人物たちは困惑してるだろ。原因は一体何なのかって」

 神崎は首を傾げる。雛森ももっともな疑問だと感じていたが、片桐はどうという風でもなかった。

「その時点ではまだ現実からの情報が混入していたのかもしれないわ。だから、ダメージはないという判断がルナの中ではされていた……」一同がその言葉を吟味する暇もないうちに先を続ける。「とにかく、もう一度LUNAの中を調べてみたほうがよさそうね。この現実で何が起こっているのか、分かるかもしれない」

 いち早く頷いたのは結城だった。

「そうですね。望遠鏡のあるL‐5や、記述内で殺人の発生したL‐6……。僕はここでルナの記述を確認しています。L‐2も見ておきましょう。皆さんは他の調査をお願いします」

 彼の的確な指示によって、彼以外の三人は散っていった。L‐4のほうへ滑っていくその三人の姿を結城は見守っていた。

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