23

『彼は、暗い管の中を、突き進んだ』……。その記述は困惑を振り撒いた。管、というのはエレヴェータチューブのことだ。

「どういうことだよ」

 神崎はモニターに対して不満を漏らすように言った。雛森にしても、どうして? という問いを禁じえない。

「エレヴェータチューブを上がって行ったって……。梯子みたいなのがあるのか? いや、そうじゃないよな。明らかに無重力であるかのような描写じゃないか。エレヴェータ内の上部ハッチにしても、天井に張り付いてるやつだろ。少なくとも二メートル以上はあるだろ。そこに飛び掛ったっつっても、上がるのは至難の技だぜ」

「なんか、急に無重力状態になっちゃってますね」

 呆然としたままの雛森の呟きを背景に片桐は以前の文章を読み返していた。やがて深い嘆息と共に背もたれに身を預けると、その格好で静かに口を開いた。

「いつ無重力状態になったのかは完全に無視されているわね。でも、『21』にはそれらしい描写が記されているわ。この天井に血がついているという件ね。ここから察するに、血の出た時間にはもう無重力だったということになるわ。殺害の時刻ということね。でも、それと同じ時間と思われるシーンでは無重力らしい描写は一切ない」

「ということは」片桐が若干喉の辛そうな表情をするのを受けて雛森が先を引き継いだ。「このルナの記述した『錯綜の彼方へ』には重大な矛盾があるということになりますよね。その矛盾を埋めるための繋ぎ――作中としてみれば、伏線となるんでしょうけれど、それが天井の血なんでしょうね。でも、問題はどうして記述内世界が無重力状態に移行したのかということですよね。もちろん、ルナはそれを望んでいたということになります」

「そういうこと」

 片桐は咳払いをひとつして、雛森に目配せして礼を伝えた。雛森も少し嬉しげに頷いてみせる。

「いや、それもそうなんだがよ、結局『太田』が犯人になっちゃったんじゃないか。ちょっと拍子抜けだな」

「全体が定まっていないから、この後にどんでん返しがあるかもしれないわよ」

 その片桐の言葉に内心で大きな同意を示してから、雛森は言った。

「どんでん返しというと、やっぱり私がさっき言ったエレヴェータチューブの経路を使うんじゃないかと思うんです。無重力だという前提も、こうして揃っているわけですし。しかも、さっき片桐さんに指摘された問題点もクリアできますよ」

「問題点ってのは何だったか?」

 雛森の代わりに片桐が口を開く。

「エレヴェータが第一階層に上がったままなら、エレヴェータチューブは使用できないというものよ。でも、記述を見る限りはエレヴェータはなぜか下に降りてきているのよね。だから、『太田』はエレヴェータチューブを使うことができたんだけれど……。これも、大きな矛盾のひとつよね」

「ご都合主義的だな」

 苦笑いと共に発された指摘に片桐は頷いた。

「それも、ルナの都合にいいようにどんどんと改変されていっているように思えるわね」

 彼女は雛森に顔を向ける。

「ルナは、この現実に多分に影響を受けているのよ。もう、それは間違いないわ。さっき芽衣ちゃんが言った、エレヴェータチューブを使う方法がこうして用いられようとしている。ルナは模索し、事件にある一個の解決を付そうとしている。

 そして、もうひとつ言えるのは、ルナはこの改変の数々を稚拙ではあるけれど布石を置くことによって、巧妙に隠そうとしているということよ」

「布石?」

「そう。芽衣ちゃん、さっきあなたが言ったエレヴェータチューブのトリックは、絶対条件として無重力状態でなければならない。ルナは、それを説明するために天井の血という描写を挿し入れたのよ。そして、ルナは記述を遡って改変することができないみたいね。だから、無重力への布石の前にはそれを思わせる記述は一切見られないわ」

「なんで記述を遡れないんだよ?」

 不満顔で神崎が言う。納得の行かないという表情。

「私にも分からないわよ。ただ、憶測でなら言うことはできるけれど……」

「ぜひ聞きたいです」

 雛森が身を乗り出すと、苦笑と共に片桐は、これがあくまでひとつの可能性であるということを強調した。

「ルナは事象計算システムを持っているわね。その事実をルナも知っているわ。ルナが、この『錯綜の彼方へ』をその事象計算によって求めたのだという前提で記述しているとしたらどうかしら。

 今現在の自分が数々の運命の分岐点を経験した姿だというのはよく言われることね。よくゲームオーバーのあるゲームに譬えられるけど。ゲームオーバーしたとき、もうそのゲームは先に進めることができない。例えば、ゲームオーバーの直前の分岐点が二つだけだとしたら? ゲームを再開する人は前に選んだのではないほうの選択をするはずよね。そうでなければ、またゲームオーバーになってしまうから。今の自分がそうやって見えない選択をしてきたとしても私は驚かないわ。

 そして、この話を前提とするならば、ルナの事象計算システムもそうやって見えない選択を行い続けてきた。その時々、分岐点のゲームオーバー条件を把握して、ゲームオーバーにならない選択を行い続ける。でも、そのルートを選ぶことでもう後戻りはできなくなるのよ。事象計算で導き出された系統樹も、現実に即している。現実は、ゲームじゃない。だから、ゲームと同じように時間を遡ることができない。

 この『錯綜の彼方へ』という記述は、ルナが、自身の事象計算システムで現実に即して導き出したものだと〝思っている〟。でも、実際にはこれは事象計算システムによるものではない」

「でもなあ――」

「仮説に仮説を重ねているだけよ。根拠なんてないけれど、私としては、これは辻褄があっていると思っているの」

 神崎はその意気込みに圧倒された様子で、降参するように両手を軽く上げて先を促した。冷や汗をかいている。

「ルナは、この記述が実際には事象計算システムによらないものだと気付いているのかしら? もし気付いているのだとしたら、無重力への移行や人間の理不尽な瞬間移動など、重大な矛盾は時間を遡ってでも修正するはずよ。記述が、自分が認めたくなくても、厳然として矛盾を持っているのだから。そして、その矛盾は、記述が事象計算によるものだという上に立って考えるならば、完全に意味を失う。矛盾があるということは、事象計算によるものではない、現実に即しているものではないという図式を成り立たせるからよ。

 ルナはこの『錯綜の彼方へ』が事象計算によるものだという認識を持っている。それは何故なのかしら? そして、何故人々のLUNAへの入場という時間から記述が始まっているのかしら?

 私はその鍵が例の未知なる二人の人物だと思うの。この二人は、現実に存在しないながらも記述にははじめから登場している。その一人、『太田』に至っては明らかに中心的な人物として描かれているわ。二人の人物の違いはそこよ。芽衣ちゃんが指摘したように、ルナは『太田』の心情に深く触れている。ルナという記述者が一人称によって捉えた世界を、三人称に起こすとき、推定の言葉などが、それが単純な三人称ではないということを想起させたわよね。つまり、この記述は厳密に言えば、一人称なのであると。

 そこで、ピンと来たのよ。さっきの神崎さんの言葉を聞いてね」

 不意に目を向けられ、神崎は少し狼狽の色を見せた。人は思いもよらない指摘に固まってしまうことが多々ある。

「な、なんか言ったか、俺?」

「ええ。それは――」

 片桐の顔が歪む。彼女だけではない。全員の表情が一気に様変わりした。

 体全体に感じていた重みが、徐々に減衰していくのだ。片桐や雛森の髪の毛が次第にフワフワと漂いだす。

「重力が、消えた……!」

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