13

 一同の視界の隅で、『太田』は『片桐』殺害の罪で厳しい追及を受けていた。その発端は『雛森芽衣』であった。現実世界では、沈黙の中青い光に照らされた闇が四人を包んでいた。

「擬似的三人称、ね。よく分からん」

 神崎の頭を掻く音が暗闇をざわつかせる。

「本当は一人称ということよ。でも、そうなると、『錯綜の彼方へ』には地の文にも嘘の記述が現れるということよ」

「あ、そうか」雛森が目を丸くして声を上げた。「推理小説じゃあ、地の文には嘘は書けない。……あれ、でも、推理小説?」

「事故の原因を究明しようとし、殺人も発生する。間違いなくミステリでしょ」

「しかし、そうではないでしょう」

 結城が言い放つと、否応なく注目が集まる。

「今僕は擬似的な三人称といいましたが、実際にはこれは三人称といわれています。世の中に存在するすべての三人称の文章は、擬似的三人称といって差し支えないでしょうね」

「なんだなんだ、文章講義か?」

 神崎がそう茶々を入れるものの、片桐も雛森も真剣な眼差しを結城に向けていた。

「例えば、文章を書くと想像してください。例として、『神崎は茶々を入れた』という文章を考えてみましょう」

「悪かったよ」

「この文章を片桐さんが、まあ誰でもいいのです、Xという人物が書くとしましょう。すると、この文章は完全にはこうなるのです。『Xは、神崎は茶々を入れた、という文章を書いた』。この文章には、Xの存在する次元と、そのXが書くことで発生した下位の次元が混在しています。しかし、これではXの書いた文章は非常にピントのずれたものとなってしまう。『私は、神崎は茶々を入れた、という文章を書いた。さらに、私は、結城は疎ましく思っていると思うのでそのように続けた』なんていう文章、読むだけで胸糞が悪くなるでしょう。だから普通、下位の次元を生み出す作者の人称は省かれるのです。

 さて、今の場合、僕たちは記述者と同じ次元に位置しています。つまり、この記述をした者について、その意図を考慮することが出来る。隠された人称の思惑が地の文を書かせているのです。この記述の場合、地の文に嘘が書けるというのは、厳密に言うと違うはずなんです」

 結城の次の言葉を一同が固唾を呑んで待っている。

「まあ、確かに結果的に見れば地の文に嘘が現れることはある。しかし、問題は、記述者は地の文に嘘は書いてはいけないというルールを守っているということなのです」

「すごい矛盾してないか?」

 諌めるように声を潜めると、そこが胆と言わんばかりに結城の視線が返ってくる。

「つまり、記述に嘘があったとしても、記述者はそれが嘘であるという認識をしていないのです。意図的に嘘を書くのではない。それが真実であるとして嘘を記述するのです」

「俺たちが普段読んでいる本にも地の文に嘘が書かれていると言いたいのか?」

「そうではないんです」

 結城はそのまま口を閉ざしてしまう。その困惑した様子に片桐の口が開かれた。

「結城さんは、この記述が事故に関連していると考えているんじゃないかと思うの。今は事故の原因は分からないけれど、起こってしまったということはルナ自身にも動揺を与えたと思うのよ。その中で記述されたこの『錯綜の彼方へ』は、ルナの心境というか、精神面が多分に現れている。重要なのは、これを記述したのは普通の作者ではないということよ」

「要は」神崎が少し呆れ気味の声を絞り出す。「この記述に何かしらの鍵があるってことだろ?」

「まあ、そういうことになるのかしら」

 片桐はそう返答すると無言の視線を結城に投げかけた。彼はそれに気づくことなく黙考している様子だったが、行き場を失った片桐の意識はやがて雛森に突き当たる。

「あの、これが単純な三人称じゃないってことは分かったんです。さっき結城さんが言っていた、『~ように』や『~だろう』っていう書き方がありましたから。それって、ルナがその人の内面まで知らないっていうことを示していますよね。でも、なんか変じゃないですか? この『太田』っていう人は心の中で思っていることがそのまま出てくるじゃないですか。例えば――」

 雛森は画面をスクロールさせて忙しなく目的の文章を探していた。やがて、一文を突き止めると、再び口を開いた。

「この『9』の、サッケード運動の後にこういう文があります。『――見えているのに、見えていない。そして、それに気付かない……』。他のところもそうなんですけど、地の文で『――』で始まるのってたいていがこの『太田』の心のセリフなんですよ。

ルナが一人称を省いているのは、この話を三人称視点のものとして書いているからだと思うんです。でも、それにしては、推量の言葉が多かったり、逆にこうして心の中を描写したり……」

雛森自身、徐々に混乱を始める思考を振り切りながらの説明だった。この記述が一人称であるのか、三人称であるのか、その焦点がぶれているというのだ。

 神崎は煮え切らない表情でモニターを睨んでいた。

「そのサッケードとかいうのもそうなんだが、そういう知識みたいなところには嘘とかはあるのか? ところどころにそういう用語が出て来るんだが、全部が全部でっち上げだと困るんだがな」

「みたところ、すべて真実のようよ」

 四人は前もって算段でもしたかのように、同時に新たな更新部分に目を通していた。記述は『13』を迎え、『太田』は一同によって『片桐』殺害の犯人と判断される。彼はL‐2の映画館へと連行されるのだが、一人『多良部』だけは他と違った思惑を持っているようだった。

「ついに『太田』が軟禁される段になったみたいだな」

 神崎は自らの思惑の通りに進行する物語に安堵の溜息をついていた。当然だろう、というようにモニターから目を離す。

「でも、この『多良部』っていう子はまだなにか考えるところがあるみたいね」

「そこはやっぱり、結城さんが言ったように、この事件を経たことで成長するとかいうのの伏線になるんじゃないですか?」

 そう発した問いはあまり結城を動かすことはなかった。彼は眼球をほんの少し回すだけで、再び深く瞑想してしまった。雛森は心外に思いながらも、口を閉じたままだった。

「さすがに目が慣れてきたな」

 天井を見上げて神崎が言う。LUNAの照明が強制的に落ちてからかなりの時間が経過していた。当時の動揺は今では微塵も残っていない。

「慣れ……ね」

 片桐の呟きに神崎は怪訝な顔をする。

「なんだよ?」

「いえ。ちょっと今、コヒーレント相と非コヒーレント相のくだりを読み返していたの。ちょっと、状況が似ていて驚いただけ。

 明かりが消える前までは、明かりのついている状態が普通だった。明かりが消えることは、非コヒーレント相に突き当たることと同じなのよ。普通でない状況になるわけだから。でも、明かりが消えてしばらくたつと、その状態が普通になってしまう。かつて非コヒーレント相だったものが、今度は逆転してコヒーレント相に成り代わってしまう……。今度明かりがつけば、次にはそれが非コヒーレント相になるのよね」

「それがどうした?」

 片桐の長い話をたった一言で蹴り飛ばしてしまうと、いよいよ重苦しい空気が立ち込めてくる。

 雛森は片桐の言葉を反芻していた。コヒーレント相とはつまり〝普通〟ということ。非コヒーレント相というのが、その反対であることなのだ。普通とはなんなのか、考えさせられる。

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