12

 その記述は一同を沸き立たせた。

『片桐』が死亡した……。

「ちょっと待ってよ!」

 片桐の悲痛ともいえる叫びが響いた。薄暗い中に聴覚はより音を鮮明にしていた。

「『片桐』さんが……」

 雛森の目が画面に釘付けられたまま動かなくなる。それは他の者とて同じことだった。神崎だけは、あまり衝撃を受けた風ではなかった。彼は所詮画面上のこと、というように割り切っていたのだ。

「唯一現実と同じような性格の持ち主だったのになあ」

「流暢なこと言っている場合じゃないわよ。本人の立場になってみなさいな!」

 突然立ち上がるので、眼鏡がずり落ちる。片桐は慌ててそれを直すと、頬を膨らませて席に着いた。

「これはどちらにせよ、大変なことですよ、皆さん」

 結城の深刻な顔が闇に紛れる。その目はモニターの黒い光に鈍く輝きを放っていた。

「どういうことだよ?」

「さっき、この文章の記述には理由があるといいましたね。それはルナがこれを表示させている点からも明らかです。そこに立って考えると、この『片桐』さんの死はルナにとって何らかの意味があるということですよ」

『錯綜の彼方へ』の中の登場人物たちは片桐の遺体を前にしていた。ただし、誰も取り乱す者はいない。

「気持ち悪いこと言わないでよ」

 片桐もさすがに不安を隠せない。身を竦めて言うその姿に雛森は、かわいらしいという場違いな思いを描いていた。

「もうひとつ。これが別次元に実際に立ち現れた事象だというのならば、この次元でも起こりうるかもしれないということですよ。これは、前者の予想よりもまずい」

「冗談じゃないわよ」

 片桐の表情はさきほどよりも険しくなる。そこには恐怖や不安といったものよりも、それを跳ね除けようとする意思が感じられた。

「別次元がそんなに簡単にほかの次元に影響を与えるとは思えないがな」

 神崎の疑惑は結城の言葉に一蹴される。

「現に今僕らはこれを見ているんですよ。そしてこれについて考えている。間違いなくこの『錯綜の彼方へ』という次元から影響を受けているということになる」

「……どうして私が殺されなきゃならないのよ」

 悲観するというよりも、その真相を見抜かんとする声の調子だった。そのまま片桐はモニターに目をやる。動きがあった。

「ちょっと、見て」『錯綜の彼方へ』は何行か更新されていた。「犯人はこの『太田』って奴みたいよ」

 物語中の片桐はL‐6で殺害されていた。殺害推定時刻には、L‐5に『太田』が望遠鏡を使っていた。L‐1が閉鎖されているのは現実と同じであるから、L‐6へ行くには必ずL‐5を通らなければならない。いわゆる衆人環視の密室だ。

「状況から見て明らかですね」

 結城も片桐に頷く。さしたる問題ではないというような態度に、神崎が口を挟む。

「でもよ、推理小説じゃあこういうのを覆すんだよな。逆に怪しくないか?」

「あまり状況が詳しく書かれていないので、それについては何も言えませんね。僕はさっきの『太田』の瞬間移動で、この記述に対する信憑性を疑ってさえいるんですが」

「あ」

 片桐を見ていた雛森は、その目を結城に移すと思わず声を上げた。

「どうしたの?」

「あ、いえ。大したことじゃないんですけど」

 片桐は座席から身を乗り出して手を伸ばした。雛森に力を与えるように細腕に触れる。

「些細なことでも気付いたことがあるのなら言っていいのよ。このLUNAにいるのは私たちだけ。一丸となって原因を究明しましょう」

 遠慮がちにしていた雛森だったが、勇気付けられた彼女はおずおずと口を開く。

「これを見てください」

 彼女の目がモニターをなぞる。音もなく画面がスクロールしていく。『5』と表示された十数行後の、『結城』と『雛森』がL‐4で食物を物色しているシーンだ。

「これがどうしたの?」

「ここなんです」雛森は該当箇所に人差し指を突きつけると、それを口にした。「『コーナーの入り口のスライドドアがすーっと開く。二人は誰かがやってくるのかとそちらに目をやったが、誰の気配もなかった。二人は顔を見合わせ、首を捻った』」

「ああ、そこは俺も気になったぜ」神崎の得意げな鼻息が闇を乱す。「後の伏線か何かなんじゃないのか?」

「あ……」

 片桐が目を見開いていた。

「あ、片桐さんもお気づきになりました?」

 雛森はそのまま片桐の話すのを待っているようだった。

「うん。芽衣ちゃん、先をどうぞ」

「え、あ、はい。その……ここの描写、すごく気になってたんです。だって、LUNAのドアってICタグに反応して開くんですよね。だから、誰もいないのにドアが開くっていうのはありえないことだと思うんです」

「その通りです」結城が短く言う。「だからICタグなしにLUNA内を行動することはできない」

「だから、このドアが開いたときにはそこに誰かがいなくちゃいけないんです」

「誰かが隠れていたんじゃないのか?」

「そうかもしれません」雛森の頬が緩む。そこには脆弱な自信が見え隠れする。「でも、この記述は現実の時間と平行しているんですよね。別々の次元で同時に起こっていることなんですよね。この部分の記述は多分、さっき片桐さんがL‐4で飴を探していたのと同じ時間なんですよ。私は片桐さんのいるコーナーに後から入りました。だから、もしかしたら私の行動が『錯綜の彼方へ』に影響を与えているんじゃないかと思ったんです」

「どういうことだ?」

 神崎は意味を掴みかねていた。

「つまり」片桐が速やかに補足をする。「『錯綜の彼方へ』、これをAとしましょう。現実をBとしましょう。Aでは、『結城』さんと『芽衣』ちゃんが食べ物を物色している時間が、Bでは私が飴を探している時間と平行していたのよ。その後の時間にBでは芽衣ちゃんが入ってきた。つまり、ドアがICタグに反応して開いたということね。一方、Aにおいては誰も後から入ってこなかった。でもなぜかドアの開く描写がある……。芽衣ちゃんはそこに疑問を感じていたのよね?」

 ゆっくりとした頷きが感じられる。

「私がドアを開けたのと、片桐さんの言うAで、ドアが開いたのが同じ時間なんじゃないかって……」

「ちょ、ちょっと待ってくれ」

 神崎は両手を前に突き出して目を瞑りながら首を振った。いやいやをする子供のようで滑稽ではあったが、誰一人笑いを漏らすものはなかった。

「……ってことは、なにか、こっちで起きたことが、この記述というか、別の次元にもろに影響を与えているということか?」

「そうじゃないかって、考えているだけよ」

 右手を指揮棒のように振るう片桐は、諭すようにそう言った。

「でもよ」物分かりの悪い生徒のように神崎が声を上げる。すっかり新たに身につけた口癖が板についてきた。「でもよ、この次元――Bの出来事が、いわゆるAにモロに影響を与えているとしてだな、おかしいことがある。Bでは照明が落ちているのに、Aでは何も起きていないということだ。そうだろう? Aじゃ、なにかが衝突して俺たちが取り残されたことになってる。なにかが衝突したんなら、何も衝突していないBよりもAの方が照明が消える可能性は高いんじゃないか?」

 彼の疑問は至極当然のものだった。疑問は積み重なる。自らの考えを口にすることにやや抵抗を感じることのなくなった雛森は、神崎の後に口を開いていた。

「どうして事故の原因が全然違うんでしょうか?」

「そもそも、『太田』と『多良部』という人物はどこから出てきたのかしら? ルナはそういった創造活動をすることが出来るの?」

 結城はしばらく考え込んだ。

「実際の人物をモチーフにしたり、いろいろな人物のデータを基にして人格を想定することは可能です。ですが……」

「なにか気になることでもあるのか?」

 結城は渋ったように俯いた。口にするべきなのか悩んでいるのだ。疑念は信じがたいことを含んでいた。

「名前なんです」

「名前?」

 神崎と雛森が同時に鸚鵡返ししていた。結城は久しぶりに頬を緩ませると、座席に腰を据えて話し始めた。

「『多良部沙羅』という人物のことなんですが……この『部』というのは『ぶ』とも読むことができます。これが一体どういうことか分かりますか? 『タラブ・サラ』……タブラ・ラサのアナグラムなんです」

「タブラ・ラサ……なんだよ、それ?」

 思わず片桐に尋ねる神崎。片桐は事も無げに答えてみせる。

「タブラ・ラサ……白紙状態といわれるものよ。大昔にイギリス経験論というものがあって、その支持者が唱えた概念よ。人間は生まれながらにして白紙状態である。すべての知識や概念は経験に先立つものではないとする考えなの」

「ずいぶん古い考えを持ち出してきたな。その考えじゃ、本能行動はどうやって説明するんだ?」

 鋭い切り込みではあったが、片桐は首を軽く傾げるという簡単な動作でこれを回避した。

「タブラ・ラサ……。これがどうしたのかしら、結城さん?」

「ええ。片桐さんの説明したとおりです。タブラ・ラサとは白紙状態のこと。何故、彼女にはこのような名が付けられたのでしょうか? 彼女は、この『錯綜の彼方へ』という物語において、まさに白紙状態という役割を与えられているのではないのでしょうか」

「意味が分からん」

「そうですね……。では、これではどうでしょうか。

今は推理小説ブームですが、推理小説というのはたいてい殺人を扱いますよね。人が死ぬということは、社会的にも人間関係的にも甚大な影響を及ぼします。人は、そういった状況からなにかを学ぶことがあるのでしょうか? もちろん、あるでしょう。そして、それが人を成長させることだってあるはずです。ここに、ある小説があるとしましょう。作者は登場人物の成長を描きたいと考えている。殺人の真相よりも、それを経た登場人物がどのように影響を受けたかを書きたいのです。作者は登場人物に名前を与える。経験による変化という意味合いを込めて、タブラ・ラサをもじった名前を」

一同は絶句していた。結城はさらに続ける。

「僕には、ちょっと予想が出来ます。『錯綜の彼方へ』では、今現在『太田』という人物がもっとも怪しまれている。その状況に、『多良部沙羅』がどう動いていくのか。そして、なにかを得るのでしょう」

「ルナはそんな高度な創造が出来るの……?」

 片桐は驚きを隠せない様子で口をポカンとさせていた。

「そんなはずありません」

「え?」

 ここまで話を進めた結城が否定すると、一同は肩透かしを食らったようなやるせない空気を胸に詰め込まれていた。神崎は一度経験しているだけに重力を持った視線を投げかけていた。彼は経験によってある程度の免疫を獲得していたのだ。

「こういったテーマのもとで、想定した人格を名づけることはルナにはできないのです。そこは、まだ人間のような高度な創作力がないということなのです。

例えば、現実では健康に強く育って欲しいという思いを込めて『健士』という名前を付けても、風邪を引かないということはない。なにか重大な病気に罹るということもあるし、生命を脅かす事故に遭うことだってあるわけです。一方、作者の意図する名前を与えられた作中の登場人物は違う。健全で正義を重んずるような、まさに『正義』というような名前がよく刑事に当て嵌められるのはそのためです。このように、名前というのは現実と作中では全く違う様相を呈してくる。ルナは、あくまで現実的機械的、つまり名前がその人物を決定するのではないというような名前の付け方をするのです。健康に強く育って欲しいからという理由で『健士』と名づけるのではない。数々の文字や、名前のデータから偶然的に抽出された、『健士』という名前を選択するだけなのです。

だから、僕は驚いているし、信じられないのです。この『多良部沙羅』という名前が」

結城の論に三人は圧倒されていた。神崎の声が何とかして闇に這い出そうとしていた。

「しかしな、高度な創作が無理って、こんな文章ができてるんだぜ。これを高度な創作でなくてなんと言うんだ?」

「これは、創作ではない。ただ、事実を列挙し、あたかも小説であるかのように体裁を整えているだけなのです。気付きませんでしたか? 『~ように』や『~だろう』という推量の言葉が多く登場人物に対して使われているのが」

 雛森は強く頷いた。少しくどいと感じていたのだ。

「これは、ルナが一人称を省略して記述した、擬似的三人称の文章なのです」

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