14
一同はこの場に根を生やしたようにじっとしていた。そもそもがルナ・コムの記述を待っている身だ。誰一人として立ち上がるものはいなかった。先ほどまで片桐の座席に近寄ってきていた神崎も、今では通路を挟んだ向かいの座席に腰を下ろしていた。LUNA内部を照らしていた光も絶えて久しく、無機質な青く弱い光が申し訳程度に点っていた。
ルナ・コムの黒い画面に表示された白い文字群は、各人によってめまぐるしく流れたり、あるいは停滞したりしていた。
記述は『14』に差し掛かり、『太田』が映画館へと放り込まれるところだった。
「『13』っていうのもなんか意味深な感じがするな」
沈黙を破ったのは神崎だった。一人違う方向を向いているのだが、そのままの格好で喋っているために声が遠く感じられる。
「13っていうのは不吉な数字だと昔から言われ続けてるだろ。『太田』にとっちゃ、これは不幸な出来事ってわけだ」
「見たところ、別次元のあなたは進んで『太田』さんを映画館に押し込めてるみたいだけれど」
片桐の茶々に神崎は口を歪めたまま、再び黙り込んでしまった。威勢のいい返事をどこかで期待していた片桐は面食らった様子で、慌てて二の句を次いでいた。
「ま、まあ、確かに不吉な数字で『太田』にしてみれば、っていうのも分かるけれど」
「ルナは『太田』の味方っていうことですか?」
「それは分からないけれど、同情的に書かれているとは思うわね」
結城の動く気配が空気を揺らす。彼は唇を湿らすと久々とばかりに咳払いをひとつした。
「ある人物を主軸にした物語といっていいでしょう。僕はちょっと考えていたんですが、この記述が完全な記述、つまり一から十までの創作だとすると一体どういうことになるんでしょうか?」
「その前に」神崎は座席から立ち上がると通路に立つ。「さっきの名前の説明からすると、これが全くの作り物とはいえないんじゃないのか? それに、ルナの事象計算システムってのを考慮すれば、起こったかもしれない事象なんだろ? つまり別次元だ」
「名前に関しては、アナグラムという意図ではなく、データ抽出的に編み出されたものかもしれないわけですよ。つまり、あの『多良部沙羅』という名前は偶然に生み出された」
神崎の溜息が一同の耳を突く。先ほどのあの長い説明は一体なんだったのか、という咎めなのだ。結城は気に病むことなく先を口にしていた。
「事象計算にしても、それによってこの『錯綜の彼方へ』が記述されたというのはまだ推測の域を出ないわけですよね」
「あのドアの問題はどうなるのかしら。おそらく同時期に同一のドアが、作中であるAと現実であるBにおいて反応した……」
「それについては、作中の伏線というセンもあるかもしれませんね。そこは最後まで見てみないと分からない」
「結局そこに終始するんだよな。この記述が終わって、ある〝形〟が提示されなきゃ、俺たちの推測はいつまでも推測の域を出ない」
「まあ、そう腐ることもありませんよ」
半ば自棄になっていた神崎に結城は幾分声を和らげてそう言った。三人が彼を不思議そうに見返すと結城は再び口火を切った。
「僕たちが今、〝何らかの原因〟によって尋常でない状況に陥っていることは明白です。それは、ルナにしてもそうであるはずです。何しろ、こういった状況はあってはならないわけですから。
そういった中で、この『錯綜の彼方へ』と題された記述が生まれているのには、やはり何がしかの意味があるのです。ルナが〝何らかの原因〟――根源といいましょうか、この根源を究明するためにとった策なのではないかと思うのです」
「飛躍していないとは思わないが、何故そう思うんだ?」
顎を撫でてそう尋ねる。微かに髭をなぞるジャリっという音がした。結城は座席から神崎を振り向くとにやりと笑みをこぼした。
「僕は、この『錯綜の彼方へ』という記述が補助線であるのではないかと考えています」
「なんだ、そりゃ?」
「平面図形問題は、たいていがそのままでは解きえないのです。図中に一本あるいは複数の補助線を足してやってはじめて構造が分かるという仕組みです。僕は、それが今の場合にも当て嵌められているのではないかと思うのです。別の次元を想定してやって、それを現実と比較して考慮することで解を得るというものです」
片桐は彼の言葉を咀嚼し終えると、座席に身を沈めるようにして唸りこんでしまった。
「現実だけでは解決できない問題というわけなの?」
「壮大な問題だな、おい」
「考えてみてください。例えば、現実では過去に未解決の事件というものがありますよね。しかし、他の次元においては迷宮入りを免れている場合もあるわけです。その次元と現実とを比較することで、現実において何が足りないのか判断することができるでしょう」
雛森は呆然としていた。理解しきれない解釈にただ口をポカンと開けるだけだ。ふと疑問が頭をよぎる。彼女は一言一言を噛み締めるように発した。
「でもあの、そうなるとどうして現実と記述が同じ時間の進行なんでしょうか? 『錯綜の彼方へ』だって問題が解決するかどうか分かりませんよね」
結城は思わぬ反論にしばし身動きを取れなかった。薄暗がりの中で少し顔が引きつるのを、彼自身痛いほど感じていた。
雛森は先ほどのように自分の発した問いに答えがないのに気付くと、自信なげに軽く俯いた。結城はその様子をただ見守っていた。
「ルナが自分で事象の枝分かれを選択することはできないのか?」
所在無く座席に腰を下ろしていた結城は、神崎がそういうのをぼんやりと聞く。片桐と雛森の視線も彼に集まり、いくらかの期待感が垣間見える。
「事象の枝分かれというのは、二次元的な時間の軸です。しかし、僕たちもルナも一次元の時間軸に沿ってエントロピーの増大をしていきます。『フラットランド』の住人は、三次元をそのまま捉えることができない。何故なら僕たちが他の次元を知覚できないように、上位の次元を捉えることはできないからです。球体は二次元においては円となり、三角は一次元においては複数の点や重なる線分でしかないのです。そして、線分はゼロ次元においてもはや交錯することを許されないのです。
事象の枝分かれは、三次元に対する四次元を僕たちにでも捉えられるように格下げしたものです。二次元を差し引いているのです。これを元に戻して考えてみると、三次元世界の僕たちには他の時間軸を認識することができませんね。認識できないということは、別の時間軸、すなわち事象の枝分かれを認識できないということでもあるのです。つまり、この状態では知覚できない枝分かれを選択することなどできるはずもない」
「次元の問題を考えるとき」神崎と雛森の釈然としない気配を察知してか、今度は片桐が口を開く。「よく遺跡が引き合いに出されるわね。たとえば、ピラミッドはいつの時代でも個々はそれひとつしかない。時間は過去となったとき、いくらか概念的に分けることはできるけれど、物質はいつもひとつなのよ。過去のあらゆる時間にも、ピラミッドは〝そのピラミッド〟なの。別のピラミッドなどではない。
では、時間を固定して物質が時間軸方向に動くと仮定するとどういうことになるのか。ピラミッドはその形と質量を持った軌跡を描きながら一定の方向に進む。まるで、ピラミッドから、もこもことピラミッドが生えてくるみたいにね。もちろん、地面も同様にしていくわけだから、傍目には変化が内容に見えるわね。ピラミッドの垂直方向に時間軸が進んでいるとして、時間軸に分岐が存在すると、ある時点でピラミッドの頂上辺りから枝が生えるみたいにして物質的には同等であるけれど、別のピラミッドが枝分かれしていく。一つの世界が分裂するようなイメージね。
同じようにして、私たちの生きるこの宇宙を球体と考えると、ニョキニョキと生え進む宇宙はまるで鍾乳石みたいに成長していく。あるときにそれは枝分かれするんだけれど、そうなると、枝分かれしたもう一方に移るなんていうことは出来ないの。宇宙は必ずどちらか一方を選択して、選択しなかったほうは知覚することができない。自分がその鍾乳石の中にいると考えればいいわ。結果的に枝分かれしたこと自体に気付くことができないはずよ」
「なんとなくイメージは湧いてきた。ということはよ、事象の枝分かれを選択するには三次元的な時間を獲得しなきゃいけないってことか。つまり、俺が今ここからジャンプしていって、ずーっとジャンプしていって宇宙を飛び越えたときに別の時間を進んでいる宇宙があるということを目で見なけりゃあ、事象の枝分かれを選択することはできないということか」
「ジャンプしていって宇宙を飛び越えられるのなら、そういうことね」
片桐はおかしそうに微笑んでいた。重苦しい議論の空気は少し薄らいでいた。
「次元というのは数を経ていくごとにコンパクトになっていくわ。そう考えると、私たちの世界の根底には無限ほどの次元が転がっているのかもしれないわね。つまり、無限ループの宇宙ね。それを証明することはできないだろうけれど」
「『錯綜の彼方へ』でも同じ様なことを言ってますよね」
記述の『10』において宇宙モデルが話されたときのことを雛森は指していた。笑って先を続ける。
「しかも、それを言っているのも『片桐』さんですよ」
片桐は目をしばたかせ、確認するようにして記述を辿っていた。やがて、
「あら……本当」
と半ば呆れた顔で呟いた。
「しかしよ」神崎だ。「次元を重ねて行けば行くほど小さくなるってことはよ、無限次元ってのは〝無〟なんじゃねえか?」
「そうか、なるほど」
神崎の言葉を受けて、結城は今までにないような頷きをもって得心していた。
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