10
レストランを抜け、普段は一般客の立ち入りは許されない厨房へと向かう。結城と神崎の調査目的は、厨房に入ったとたんに成し遂げられた。
厨房は、真ん中にシンクやコンロなどが完備された作業台ともいうべき巨大な机が設置されたあまり開放感のない場所だった。その作業台をぐるりと歩行するスペースが取り囲んでいる。さらにその周りにはレンジなどが並んでいる。厨房の隅には大きなパーシャルが巨体をうずくまらせていた。二人が厨房へ立ち入ったと同時に挨拶するかのようにそのパーシャルがブウンと音を漏らしたのだった。
「おい、どうやらちゃんと動いているみたいだな」
パーシャルを覗き込む神崎。ヒヤリとした空気が彼の頬を撫でた。結城は各所にある冷蔵あるいは冷凍機能を持った食材保存所を見て回っていた。
「確かに、きちんと機能しているようですね」
「さっき、人間が生きる最低限の環境といってたけどよ、ひとつ重要なものがあるんじゃねえか?」
「ええ」結城は作業台をぐるりと回り、神崎の前に立った。「酸素の問題ですね」
「それがなきゃあ、どうしたって俺たちは死んじまう。どうにかして確認する方法はないのか?」
結城は口をへの字に曲げてゆっくりと首を振った。
「それはどうしようもないですね。ルナにアクセスする方法がなければ、空気成分を調べることもできませんし、仮に今も酸素が消費され続けているのだとしても、それを防ぐ手立てはありません」
「ありませんって」苦笑は胸の奥の怒りを掻き乱していた。「やばいじゃねえか。そのうち死んじまうってことだろ」
「安心してください。まだ酸素が消費されていると決まったわけではありませんよ。希望的観測ですが、室温が未だに調整されているということは、大気の管理はまだ行われているということです。となると、空気成分も調整がされ続けているというのは可能性が高いことだと思いますよ」
「……そうか。そうだな」
結城は神崎を伴うようにして厨房の外へ足を運んだ。彼は言う。
「仮に、今の予想が正しいとして、LUNA内部は人間の生活できる状態が維持されているということになります。それは何を意味するのか? ルナはLUNAに人間がいることを知っている」
神崎は立ち止まった。眉間に深い白髪刻まれる。口は半開きになり、声に出さなくても信じがたいといっているようだった。
「マジかよ。信じられねえ。だって電気を消されたんだぜ。お前、便所に入っているときに電気を消されたら、なんつうか、すごい寂しくなるだろ。便所には俺がいるのに、いないっていうラベルを貼られたようなもんだぜ」
神崎の必死な訴えに、結城は吹き出した。
「おいおい、笑い事じゃねえぞ。電気を消すっていうのは、それくらいの意味合いがあるんだぞ」
「確かに」神崎に凄まれたからというわけではないが、真顔を取り戻す。「そうですね。ということはおかしなことになりますね。ルナは僕たちがここにいることを知っている。しかし電気を消して、その存在を否定しているということになる。……これは何かを暗示しているのか?」
新たな謎が孕まれた。それに頭を悩ませながらも、スキップしたL‐5の調査に戻ろうというとき、通路を駆けてくる雛森が薄闇の中に浮かび上がった。彼女は軽く息を整えると、胸の前で手を組み訴えるようにして声を上げた。
「ルナ・コムが、おかしいんです!」
「おかしい?」
雛森はあたふたと手振りを加える。話の内容には全く関わりがなく、それだけでも彼女が冷静さを欠いているのが分かった。
「あの、なんというか、変な文字が出てきて……。文字っていうか、文章が」
「とにかく行きましょう」
結城は雛森の脇を通り過ぎると早足のまま尋ねた。
「いつ気付いた?」
「あの、L‐2を調べ終わってその後です。あの、全部のルナ・コムにその、文章が出てるんです」
「確かに……怪しいわね。うん、そうよね。芽衣ちゃん鋭いわ。行きましょう」
片桐の後を追う雛森には予感があった。何か手がかりが得られるのではないか、と。漠然とした何の根拠もないものだったが、新たな指標が示されたことによって希望が沸き立ったのだ。
L‐3に足を踏み入れた片桐が目にしたのは異様な黒い光だった。通路側に顔を向けるルナ・コムの機械群がモニターからその光を発していたのだ。不気味だった。黒い光は、光ではあるが光であることを忘れてしまったかのように闇に溶け込んでいた。
「何よ、これ……」
片桐は近くのルナ・コムを覗き込む。暗い光の中で眉がひそめられた。
「他も全部同じですよ」
得体の知れない恐怖から片桐の服の裾を掴む。雛森は体を片桐に預けるようにしていた。
二人がそうして固まっていると、突然にして黒い画面に白い文字列が一文字ずつ姿を現した。横に一列に並ぶ六つの文字。
「『錯綜の彼方へ』?」
「なんです、これ?」
二人の目はモニターに釘付けになった。片桐は、その状態で雛森に言った。
「結城さんたちを呼んできて」
しばらくの沈黙の後、雛森は頷いた。その場を去ろうという彼女に声がかかる。
「待って! 文章が続くわ!」
「え!」
黒い画面の中、表示された『錯綜の彼方へ』という文字列。それは約一分の間何の変化も見せなかったが、やがて一行空いた位置に『1』という数字が現れたのだ。十秒後、二人は腰を抜かすほどの衝撃を受けた。『1』の表示の下に再び一行の空白ができ、今度は膨大な文章が一文字ずつではあるが凄まじいスピードで綴られていったのだ。静かに、しかしまるで高速計算であるかのように文字が現れる。
呆気に取られる二人だったが、数分後には高速綴字が前触れもなく収まった。慣性もなく停止する文字列に、無意識的に先頭の文字を追っていた目は混乱をきたす。
「終った……」
表示されているのは『10』という表示からおよそ百行ほどだった。『片桐は独り言にしてははっきりした声でそういっていた』……。
「小説……かしら?」
画面は目の動きを感知してスクロールした。座席についていた片桐の視線をもとに文章がはじめの位置まで戻る。片桐はしばらく無言で文章に目を通していた。一連の、『錯綜の彼方へ』という言葉から続く未知の文章。
「驚いたわ」片桐は頭を抱えていた。「これ、私たちが出てきている」
「え?」
片桐と共にモニターを見ていた雛森だったが、混乱する頭は文字を読むほどに落ち着いてはいなかったのだ。
「この文章の中に、私たちの名前が出てくるのよ」
「どういうことですか?」
「分からない。微妙に私たちのやってきたこととは違うのだけれど」
画面には『5』の表示が見える。片桐が『4』まで目を通してことを示していた。
沈黙が二人を支配した。しかし、まもなく片桐が静けさを打ち破った。
「とにかく、結城さんたちを呼んできて。それまでに最後まで読んでおくことにするわ」
「はい」
「なるほど」
雛森の話を聞き終えた結城が困惑した表情を浮かべる。三人は片桐の待つL‐3に到着していた。
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