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 ボトルの表面は玉の汗が浮いていた。事故の精神的衝撃のために、一同は図ったように小休止の時を過ごしていた。といっても、寛ぐでもなく、ただただ円卓につき顔を向き合わせるだけだ。一人では不安が高じてしまうのをこの場の全員が心のどこかで分かっていた。

「SF小説だった気がするのよ」

「まだ引きずってるのか」

 飴を噛み砕く音と共に顔をしかめて、こめかみに人差し指を当てる。片桐の指が眼鏡を揺らしている。雛森はその指の綺麗さに息を飲んだ。

「思い出せないことがあると、すっきりしないでしょう」

「もうトシなんじゃないか?」

「失礼ね。私はまだ二十代なのよ」

「二十代って言葉に固執するのは三十路を目前に控えた奴等なんだぜ。そこを境に時間ってのはやけに急ぎ足になるんだ。嘆いてる暇なんてなくなる」

 片桐の愉快そうな笑顔が雛森に向いた。

「すごく伝わってくるわ。当事者は仰ることが違いますのね」

 つられて雛森も肩を揺らす。

「男としては、残りの人生をどう過ごすかってのは重要な話だぜ。聞いたか? 今の平均寿命は女はとうとう九十五歳を突破したんだぞ。で、男女差は開く一方だ。十歳くらいの開きがある。十年ってのはでかい」

「もう必死ね」

 片桐が同情したような声をかけてやると、彼は大仰に頷いてみせた。このやり取りを無言で傍観していた結城だったが、退屈を持て余したのだろう。座り直して注意を喚起すると、ボトルを弄びながら言葉を発する。

「年を取ると、思い出せないことがあることすら思い出せなくなると聞いたことがありますよ。その点では、気が楽だと」

「まあ、本人はいいんだろうが、客観的に見るといやな話だな」

「まあ、やがては認知症となってしまうのが結局のところでしょう。

 今は、一部の条件を満たした人間にだけ認められていますが、記憶チップを埋め込むというやり方がありますね。それでもやはり倫理的な問題を孕むようです。人間というものがどういうものであるのか、また見直され始めているのです」

「記憶チップか。この前ニュースで特集していたな」

「生体パルスを模倣してやることで記憶処理を行うものなんですが、実は本来なら三十年ほど前までには人体へ適応できたはずなんです。当時、この記憶処理の精度は九十五パーセントでした」

 三人の表情が一度に同様の変化をする。どの顔も五パーセントの可能性の起こる頻度がどれくらいのものか思案しているのだ。結城は神崎に目をやった。

「さっきの可能性の話じゃないですが、九十五パーセントの裏を当ててしまったわけです。ランダムな記憶が改竄されてしまうのです。

 自分が自分であるという確信はどこからやってくるのか? それは間違いなく、記憶からなのです。人と人との繋がりから自分がどういう人間性を持っているかは知りえるのですが、そこにはやはり自分自身であるという基礎が必要なわけです。この記憶チップ、つまり人工海馬はそういった人間自身、言い換えれば個々のアイデンティティに影響を与えました。それが今のように重大な倫理問題へと発展したということになるのです」

「思えば、当時の人間が脳にインプラントするということに抵抗を感じていたのは、無意識に何かしらの危機を察知していたからかもしれないな」

 神崎の感慨深げな頷きに、片桐も加わってくる。

「というよりは、当時の技術をして不安をもたらしたといっていいのよ。そんなに技術は高くなかったし、そのために未知であるものに対する恐怖が生まれたのね。今のお年寄りが、その当時の人たちでしょう?」

 めまぐるしく変化する発言者の顔を追っていた雛森が、ようやくといった体で口を開く。片桐の問いに結城が無言の肯定を示した後のことだ。

「同じ時代に生きていても、そんなに価値観が変わっちゃうんですね。私はインプラントとかはいいイメージがあるんですけど」

「それは教育の力が作用しているのだと思う。インプラントをこの先推奨するような動きが各所にありますからね」

「聞いたことがあるわ」

 咳払いの後にそう言う片桐に全員の視線が集中した。ロボットのような仕草に彼女は少し笑いを堪えていた。

「次世代医療システムね」

「次世代医療システム?」

 鸚鵡返しの雛森に、そうと返事がある。

「まだ計画の段階ではあるらしいんだけれど、将来的には治癒ナノマシンの体内基地をインプラントで作ってしまうというものよ。体内の老廃物などから生成されたナノマシンをそこでコントロールするのよ。生体パルスを模した信号をそのインプラントが発するの」

「はあ……」神崎の深い溜息が漂う。「そんなところまで来ているのか。すごいな」

 雛森も彼の言葉に同意しかけたが、ちらと目にした結城の表情に戸惑いを隠せなかった。彼の目は真っ直ぐに片桐へと向けられていた。察する雛森の意識を跳ね返すかのような、波ひとつ見当たらない湖面であるかのような顔は超然としていた。

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