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 捜索は徒労に終わった。L‐3からL‐2へと探索の目を広げた一同だったが、人の姿は一切なかった。彼らがその先に見たものはL‐2とL‐1との間の隔壁が閉鎖されている光景だった。

 結城はカーテンでも選ぶかのようにその隔壁を掌でなぞっていた。そうして、真っ白なシャッターに話しかけるようにして口を開いた。その口振りは淡々と事実を告げる機械のようだった。

「これではっきりしましたね。LUNAには僕等四人しかいないこと。通信ができないということ。そして、L‐1が完全に閉鎖されているということが」

「この中に誰かがいるということはないのかしら?」

 片桐の少し不安な声にも結城は動じなかった。隔壁横に顔を見せるコンソールへと歩み寄ってしばらくの間調べると静かに瞑目した。その目が再び光を受けると、今度は全員の耳朶を打つ音がした。

「どうしようもありません。L‐1は閉鎖されるどころか、こちらのアクセスを受け付けません。隔壁を開くことができないのです」

「じゃあ、もしかして中にいた人は……」

 悲観的な雛森の憶測は、結城の鼻息で飛ばされてしまった。

「L‐1はもともと人が少なかったですから、緊急事態発生のアナウンスを聞いた人は難なく逃げ延びることができたと思いますね。人は流れに飲まれる習性がある。大勢の人の波がひと気のあるほうのエレヴェータへ向かうのは確実でしょうし、その流れが他の人々を引き付けたことも想像できます。従って、L‐1には誰もいないというのが僕の考えです」

 雛森には少し楽観的な解釈のように聞こえたが、神崎と片桐は彼の説に極めて好意的に頷いていた。しかし、神崎はおやと言うように首を傾げた。

「逃げ延びるといえば、シャトルには自働点呼装置があるって言っていたな。俺等がここにいるということは、俺等がいないってのはもう知れているはずだよな。それこそシャトルがここを出る以前に、だ。全員が揃っていないってのに、あいつ等は逃げていったのかよ……」

「ひどい……」

 神崎の肩を落とす様を横目に雛森は窓の外に目を向けた。本当に美しいとしかいいようのない景色。昔の人間は星空を宝石と譬えたが、今の彼女にもそれがよく分かった。遠くに見える地球がゆっくりと回転している。LUNAは常に回転をし、その遠心力を擬似的な重力としている。LUNAは構造的に外殻と内部に分かれており、外殻は内部を包む殻のような働きを持っていた。そのために概観は無回転するように見えるのだが、こうして内部から外を眺めると、景色がスライド回転していくのが分かる。こうしていると、宇宙には縦や横といった方向が全く存在しないのが実感できる。雛森がその感覚に我を忘れていると、極めて現実味を帯びた結城の解説が耳を突いた。

「エレヴェータが起動しないのはさっき僕も調べて分かりました。彼らにしてみれば、僕たちを助けようとしても無理だったというべきでしょう。そこで、シャトルに乗った人たちを優先したと考えるのが自然です」

「それにしても、後回しにされているようで腹が立つな」

「それよりも」窓の前で腰を少し屈めていた片桐が、興味を失ったようにそこから離れると芝居がかった仕草をして見せた。片腕を伸ばしてLUNAの内部を示すようにする。「この緊急事態の原因よ。結城さん、何か心当たりはあるのかしら?」

 結城は返事の代わりに否定的に首を振るばかりだった。加えた言葉も抑揚に乏しかった。

「現段階で分かるのは、ごく些細なことだけです。内部を見る限り、何か物理的な被害があったわけではない。加えて通信の途絶、エレヴェータの原因不明の停止……。あり得ないことですが、内面的――ソフト的な問題が発生した可能性がありますね。おそらく、その引き金となったのはL‐1ではないかと」

「確かに、なにか異状がなければ閉鎖なんてされないですよね……」

 雛森のごく一般的な相槌は、考察する片桐の強い声に打ち消された。

「L‐1に、物理的に隔離されるような事態が起こったかもしれないということね。何か有害な物質が発生したということなのかしら」

「有害な物質……」

 雛森は以前目にしたドイツ・アウシュビッツの、「ARBEIT MACHT FREI」と掲げられた正門の光景を思い出していた。ガス室の壁面に刻まれた憎しみと悲哀に満ちた言葉。遠い昔に確かに起こったことが、そのときの彼女の心に凄まじい衝撃を与えたのだった。

 雛森の脳裏に走るざわめきとは裏腹に神崎の疑問が差し挟まれた。

「いや、その前に、どうしてそのソフトの問題があり得ないことになるんだ?」

「ルナは特殊な機能を持っています。簡単に言えば、機械的な特性と人間的な特性を持ち合わせているのです。あらゆる状況に対応しうるのです。さらに、LUNAはその安全性を保証されています。正直、こんな事態に陥っている今でも僕には信じられません」

「信じられないといってもなあ……」

 苦笑に混じらせた神崎の批判を結城はこともなげに受け流してみせる。

「信じられないといって、この事態がなかったと思うほど愚かではないですよ。ただ、相当な原因がなければ、こんなことはあり得ない。その点では、片桐さんの有害物質説は可能性としてはありましょうが、ちょっと疑問は残りますね」

 提唱者であるところの片桐は黙して結城を正面に捉えていた。静かに促される形になった結城が先を続ける。

「なにしろ、有害物質の発生する理由がありません。LUNA内部では活動の上で、人体に影響を及ぼす物質が生成されることはありません」

「外部から持ち込まれたという可能性があるわ」

 片桐は食い下がる。彼女の声は若干鼻にかかるようなハスキーなもので、ともすれば少しヒステリックに聞こえてしまう。

「LUNAには物質の解析する機能が備わっています。電子スキャンともいわれるもので、空気中の分子の解析も行うことが可能です。有害である物質が持ち込まれれば、即座に警報が発令されることでしょう。ところが、客の収容が始まってからかなりの時間が経ってのあの警報です。これは考えられない。ルナが知らせるのを躊躇っていたのならば、別ですがね」

 口の端がきゅっと吊り上る。アイロニカルな笑みに片桐は一瞬顔をしかめたが、さらに追究がなされる。

「電子スキャンは光子に作用するものよね。つまり、電磁波を遮断する機能を持った容器があれば、スキャンは回避できるはず」

「まあ、それが持ち込まれたとしましょう。実際には、そういった遮断機構を持ったものが持ち込まれると、人の目による確認が行われるのですがね。

持ち込まれたとして、それがL‐1で解放されたということになりますね。その有害な物質、つまりは毒ですね、それを持ち込んだ犯人は何を目的としていたのでしょうか?」

 唐突に向けられた視線に雛森は口をパクパクさせて、答えることができなかった。その隣で神崎が息を吸い込む音が聞こえる。

「そりゃあ、毒を持ってるんだから、何か善からぬことだろうよ。テロとか、無差別殺人とか」

「ヒントです」神崎の言葉が終わるのと同時に結城が微笑む。「L‐1は他のエリアに比べて極端に人が少なかった」

 あ、と誰からともなく声が上がる。雛森は視界の隅で片桐が頷くのを見ていた。

「そうだわ。確かに、その目的では、わざわざひと気のないところで毒を撒き散らす意味がないわね。テロや無差別殺人が目的ならば、もっと人の多いL‐5や、L‐6、レストランのあるL‐4でと考えるはず」

 雛森は、片桐の解説ではじめて結城の言わんとしたことが理解できた。彼女の理解の遅さに微塵も気づかない様子の結城は先を続けていた。その目はどこか睥睨するような光が宿っているように一同からは見えた。

「もっと重要なことは、ナノマシンの存在です。LUNAに電子スキャン機能が備わっているということは、何か有害な物質が内部に存在することが少なからず考慮に入っているからだというのは分かりますね? それを考慮に入れながら、対応策を練らないのは愚かなことです。LUNAには対応策としてナノマシンによる、そういった有害物質を分解するシステムがあります。『E301・ディコンポジショナー』というのですが、E301というのは、つまりは有害な物質が検出された場合のコードネームですね。長いので普通は『E301・D』と呼ばれます」

「それが問題なのか?」

「まあ、そういうことになりますね。有害物質は、その分子状態にもよりますが、一エリアなら、分解されて正常に戻るのは一時間はかからないはずです。つまり、LUNAの総員脱出という事態には陥らないはずです。第一階層には医療施設はもちろん、定員数分の宿泊施設もあるわけですから、ナノマシンの分解の間、第一階層で待ってもらうという対処が望ましいでしょう。

だから、万が一有害物質が持ち込まれて、それが撒き散らされたとしても、今回のような事態にはならないと思うんです。それ以前に、先ほども言いましたが、そんな物質がLUNAに入れば、即座に調査がされるでしょう。空気に触れることで毒性を持つ物質も存在しますが、電子スキャンならばその場で見抜くことができます。ただでさえルナは事象計算システムを持っているのです」

「あれか、未来予測するっていう……」

 結城の得意げな顔が肯定的に動く。

 雛森も事象計算システムについてはスタッフから話を聞いていた。簡単に言えば、事象計算システムとは、人間がするようなちょっとした予測を機械的に、謂わば虱潰し的に行うものなのだ。ルナは人間と機械の両特性を持つ。それがなせる業なのだ。

 片桐の咳き込む音がする。雛森が近寄って言う。

「大丈夫ですか?」

「ありがとう。ちょっと風邪気味なの。医療施設なんて聞いてたらちょっと喉がむずむずとね」

 雛森の心配する声が続く。彼女自身、こうやって気遣うことしかできないのを少し悔しく思っていた。だから、幾分しつこさが付き纏っているように感じられるのだ。

「お薬とかは持ってますか?」

「そんな大袈裟なものじゃないわ。……でも、そうね、何か飲むものとか、飴が欲しいところだわ」

「じゃあ、L‐4に行きましょう」

 彼女の言葉は片桐に対する提案というよりは、この場にいる全員に対する訴えのようでもあった。

「じゃあ、L‐4のレストランに集まることにしましょう」

 そういって結城はさっさと歩き出してしまう。

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