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「なんてこった」

 雛森芽衣は呆然とした耳で目の前の男がそう呟くのを聞いていた。大柄の、豪快そうな男。胴回りは雛森の三倍以上はありそうだった。やや丸みを帯びた四角い顔の輪郭の中で目鼻口のパーツが、どうしようもない、と溜息をついているようだ。その表情からは絶望以外の何者も読み取ることはできなかった。

 雛森は男の発する言葉に、助からなかったのだと、再実感した。周囲にはほんの十数分前の賑わいが影もなく、ゴーストタウンのように身じろぎひとつ感じられなかった。

 雛森が男と出会ったのは、つい今しがたのことだった。エレヴェータホールに立っていた雛森の下へ男が駆けてきたのだ。どうやら、他のエリアのエレヴェータが上に行ったまま戻ってこないらしい。男は雛森と違い、せっかちにも一エリア隔てたL‐5のこのホールへと赴いてきたのだ。しかし、やがてここのエレヴェータも動かないと知ると、先ほどの言葉を吐き出したのだ。

「なんてこった……」

 男は二度目の溜息をついた。一回目よりも力のない響きに改めて身に降りかかった不幸を嘆く思いが垣間見える。

 何か話さなければ、という正体不明の使命感に雛森が口を開きかけたそのとき、L‐6方面から人の気配が近付いてきた。まだ人がいるのだ。それも一人ではない。雛森たちから見れば、湾曲した坂を下りてきた形となるのは、二人の男女だった。

「大丈夫ですか?」

 女を先導するようにして雛森たちに歩み寄ってきたのは、結城だった。彼の後ろには黒縁の眼鏡をかけたスレンダーで知性を感じさせる女性が控えていた。

「いや、大丈夫は大丈夫なんだが。ここに取り残されてる時点で全然大丈夫じゃないな」

 結城の言葉に素直に頷くだけだった雛森とは違い、男はそう皮肉る余裕のようなものを見せた。

「一体何が起こったんですか?」

 茫然自失の体であった雛森も、大人たちの姿を認めると次第に落ち着きを取り戻していった。しかし喉から搾り出されたのは不安の残る声だった。

「アナウンスでは原因不明といっていたようだったけれど……」

 眼鏡の女性が結城を一瞥しながら首を傾げた。

「緊急事態とかいってたな。だけどよ、何かがぶつかったとかじゃないだろう? 何にも感じなかったからな」

 結城は数秒の間、口を開くのを躊躇っていたが、思い直して三人の顔を順番に見やってから今自分たちがやってきた方向を指差した。

「向こうの、L‐1なんですが、隔壁が閉鎖されていました」

 LUNAには六つのエリアがあり、L‐1からL‐6までの名称が与えられている。その各エリアの間に空気制御室が設置されていた。この空気制御室は隔壁で両端を囲まれていた。これが二重隔壁となり、万が一の場合には安全な区域を維持することになる。空気制御室はその名の通り、空気に関するコントロールを担う。常時には空調整備を行うが、緊急の場合には気圧や温度などが操作可能で、たとえば極寒の宇宙の空気と直接触れるような事態に遭遇した場合に、空気の壁を作ってやることで他の安全な区域の気圧と温度を保つことができる。隔壁は緊急時以外は決して閉鎖することがない。

「……てことは、何かあったのか?」

「L‐1の反対側を調べるまでは詳しく分かりませんが、少なくともL‐1は完全に閉鎖された可能性がありますね。何かがあったとしか思えない……。何かがなければ、絶対に隔壁は閉鎖されないんですから」

 強い口調に雛森は疑問を禁じえない。

「詳しいんですか?」

「LUNAのプロジェクトに参加した人間ならば、詳しくない方がおかしいでしょう」

「LUNAのプロジェクトって……、まさかこれを造った方なんですか?」

 結城は照れ隠しに頭をひとつ掻いて頷いた。大柄の男はといえば、小さな歓声と共に手を叩いた。

「ひゅう! こんな事態に出くわすとは俺たちはついてる。まずは原因を調べてもらえないか?」

「そう簡単に事が済むといいですが……。まあ、やれるだけやってみましょう。ですが」

 結城は先陣を切るように三人の中を通り抜け、前に立った。振り返ると真面目な顔が一同を捉えた。

「まずは他にもここに取り残された人がいないか探してみましょう。まだ誰かいるかもしれません」

「そうね」眼鏡の奥の瞳を瞬かせる。「怪我人がいないとも限らないわね。何かが起こったのだとしたら、それに巻き込まれた人もいるはず」

 男は右で作った拳に左の掌を打ち付けて威勢よく歩き出した。

「よし。じゃあ、早速行くか」

「L‐6には他に誰もいませんでしたか?」

「いなかった」

 雛森の問いに結城は短く答えると、男を追った。

 開けていたL‐5は見渡すだけでよかったのだが、L‐4は幾つかのブロックに分かれていた上、レストランがありその厨房までも目を行き渡らせなければならなかった。一応の安全のためにエリア内での行動の分散が行われたのだが、結果からいえば取り残された人を発見するには至らなかった。

 レストラン前で四人が顔を突き合わせたとき、そばの窓を見ていた眼鏡の女が静かに声を上げた。

「あの小さな点はシャトルかしら」

 他の三人も窓に手をついて見たが、確かに小さな白い点が地球の方角に浮かんでいた。輪郭はくっきりとしている。

「くそ……」男は歯を食いしばって、唇を悔しさに歪めていた。「あそこに脱出した奴等がいるのか……。今すぐ行って張り倒してやりたいぜ。ホントに」

「次に行きましょうか……。ええと」

 結城は人差し指を突き立てて三人の顔を見回した。雛森が一歩前に出て口を開いた。

「あ、私、雛森芽衣といいます」

 彼女に倣い、残りの二人の男女も自己紹介した。

「俺は神崎だ。神崎弘彦」

「片桐仁美よ。よろしく」

 結城は慇懃に頭を下げて名乗った。そして皮肉っぽい笑みを浮かべた。

「こんな状況で自己紹介なんて滑稽な話ですね。ともあれ、みなさん改めてよろしくお願いします」

 神崎は両手を軽く広げていた。

「自己紹介ついでになんだが、俺たちはこれからどうなるんだ?」

「現にああしてここに来ていた人たちが脱出してしまっているので、憶測にはなりますが、多分あのシャトルの中で僕たちのいないことに気付くはずですから、この時点ではもう地上に連絡が行っているかもしれませんね。救助が今出発したとしておよそあと一日というところでしょうか。それまでは待つしか術はないでしょう」

「でも、おかしいのよ」

 途方もない、というような溜息をつきかけた神崎の横で片桐がウェブ・ランナーを取り出していた。

「これが全く使い物にならないの。通信系統が障害を引き起こしているのだと思うのだけど」

 片桐以外の三人はポケットからそれぞれのウェブ・ランナーを取り出して、確かに通信ができないのを確かめた。今まで、この存在をすっかり忘れていたのだ。

「もし」結城が端末を顔の前にちらつかせながら言う。「通信系統に問題があるのなら、これと同じように無線ネットワークは役立たずということになりますよ。シャトルも条件としては同じだ」

「ちょっと待てよ。じゃあなにか、シャトルが地上につくまで救援は寄越されないっていうことなのかよ?」

「残念ながらそういうことになりそうですね」

 雛森と神崎は口をぽかりと開けたまま呆然としていた。一方、結城と片桐はいたって冷静な面構えをしていた。片桐は言う。

「これ以上何もなければ、待つのが一番の策だと思うわ。幸い、ここには食料がたくさんあるのだから。生きるために頂くのなら文句も言われないでしょう」

 雛森はこの状況で的確な判断をする片桐に少なくとも敬意を表していた。非日常で何より大切なのは、日常でいることなのだ。片桐や結城の態度を見るまで、彼女はいかにして早く地上へ戻ろうかと思案していたのだ。LUNAの外は、地上でいう屋外とはわけが違う。死がそこには満ちている。足掻くだけ無駄なのだ。雛森は、常から時間に追われている節があった。遅刻しそうなときに交通機関の中でうろうろとしてしまう、そんな人間だった。

(LUNAへ来るシャトルの中だと思えばいい。シャトルの中を走っても先頭は行き止まりなのだ)

 意識的にそう思うことで、雛森の中の焦燥感はずいぶん和らいでいった。

「他に人がいないか、探しにいきましょう」

 話は終わったといわんばかりに結城が背中を向けた。

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